用語集

エキスパート・アントレプレナー

Sarasvathyのエフェクチュエーション理論において、熟達した起業家経験を通じてエフェクチュエーション的思考様式を身につけた起業家を指す。初心者起業家との認知的差異が、理論の実証的根拠となった。

目次

えきすぱーと・あんとれぷれなー

Expert Entrepreneur熟達した起業家熟達起業家エキスパート起業家

「起業家は才能で決まる」という通念への反論

エキスパート・アントレプレナー(Expert Entrepreneur)は、Sarasvathy(2008)のエフェクチュエーション理論において中心的な研究対象として位置づけられる概念である。単に「成功した起業家」を指すのではなく、特定の条件を満たす実践的経験を通じて、エフェクチュエーション的思考様式を習得した起業家を指す技術的な用語である。

Sarasvathy の研究の出発点は「熟達した起業家はどのように考えるか」という問いであった。スポーツや音楽・チェスなど他の領域では、熟達者(エキスパート)は初心者と質的に異なる認知パターンを持つことが実証されている(Chase & Simon, 1973)。同様のパターンが起業家にも存在するなら、それは何か——この問いへの答えがエフェクチュエーション理論であり、その理論を支える実証的根拠を提供したのがエキスパート・アントレプレナーの研究である(Sarasvathy, 2008, p. 3)。

エキスパート・アントレプレナーの定義

Sarasvathy(2008)の操作的定義

Sarasvathy(2008)は、研究対象となるエキスパート・アントレプレナーを以下の条件で定義した(pp. 3–12)。

  • 1社以上の企業を創業している
  • 創業した会社のうち少なくとも1社が株式公開を経験、または年商10億円相当以上に成長している
  • 起業家としてのキャリアが10年以上ある
  • 複数の産業・技術領域での起業経験を持つことが望ましい

この定義は「起業の経験量と質の両方」を要件とする。一度の成功が偶然である可能性を排除し、複数の文脈で繰り返し起業プロセスを経験した結果として身についた思考パターンを研究対象とするためである。

初心者起業家(Novice Entrepreneur)との対比

Sarasvathy の研究では、エキスパート・アントレプレナーと初心者起業家(Novice Entrepreneur)の思考プロセスを比較することで、エフェクチュエーション的思考の特異性が確認された。

初心者起業家は、コーゼーション的なアプローチを取る傾向が強い。市場調査から始め、事業計画を作成し、目標から逆算して必要なリソースを特定しようとする。これは起業家教育が教えてきた「正規の方法」であり、MBAプログラムで広く教えられているアプローチである。

エキスパート・アントレプレナーは、状況が異なっていた。27名中18名が共通のパターンを示した——市場調査より前に「自分が持っているもの」を確認し、期待リターンではなく許容可能な損失で投資判断を行い、事前に定めた目標よりパートナーとの対話を優先した(Sarasvathy, 2008, pp. 3–12)。

シンク・アラウド・プロトコル実験

実験の設計

エキスパート・アントレプレナーの思考を可視化した研究方法は、認知心理学の「シンク・アラウド・プロトコル(Think-Aloud Protocol)」である。参加者に課題(架空の教育用ボードゲームの事業化)を与え、考えながら声に出してもらうことで、思考過程をリアルタイムで記録する。

この手法はチェスの熟達者研究(Chase & Simon, 1973)やソフトウェアデバッグの専門家研究で使用された認知科学の確立した手法であり、Sarasvathy がこれを起業家研究に応用したことは方法論的に重要な貢献であった(Sarasvathy, 2008, pp. 5–7)。実験の設計思想やデータ収集の詳細な経緯は、Sarasvathyの専門家実験で原典に沿って解説している。

発見された認知パターン

実験から発見されたエキスパートの認知パターンは5つの原則として体系化された。

  1. 手中の鳥: 目標から逆算するのではなく、手元の手段から可能性を発散させる
  2. 許容可能な損失: 期待リターンではなく、失っても耐えられる損失を意思決定基準とする
  3. クレイジーキルト: 事前の計画よりパートナーとの対話でコミットメントを積み上げる
  4. レモネード: 予期せぬ出来事を脅威ではなく機会として活用する
  5. 飛行機のパイロット: 予測への適応より、行動による未来の創造に焦点を当てる

これらのパターンは「才能」や「性格特性」ではなく、繰り返しの起業経験を通じて学習された認知的スキルとして解釈された(Sarasvathy, 2008, p. 245)。

エキスパート・アントレプレナー概念への批判

エキスパート・アントレプレナーの分類には、方法論上の弱点も指摘されている。Sarasvathy が参照した研究サンプルは27名に留まり、統計的な一般化には限界がある。加えて、シンク・アラウド・プロトコルは「声に出しながら考える」という日常にはない状況を参加者に課すため、実際の意思決定場面とは異なる思考パターンが表出している可能性が残る——これは回顧的合理化バイアスと呼ばれる問題である。

Arend, Sarooghi, & Burkemper(2015)は、エフェクチュエーション理論の実証的基盤そのものに疑問を投げかけ、既存研究の多くが「エキスパートはこう考える」という記述にとどまり、「なぜその思考が成果につながるのか」という因果関係の検証が不十分だと論じた。架空の課題(教育用ボードゲームの事業化)を用いる実験設計も、実際の起業に伴うリスクを欠いた状況での思考であり、生態学的妥当性(ecological validity)への疑問が残る。

それでもBabsonカレッジをはじめ世界のビジネススクールがエフェクチュエーションを教育に採用し続けているのは、批判の矛先が理論の「厳密な実証」に向けられたものであり、「思考の型としての実務的有用性」を否定するものではないためである。エキスパート・アントレプレナー研究は完成された科学的知見というより、実務での検証を重ねながら磨かれている仮説として理解するのが適切だろう。

エキスパート性と学習可能性

「生まれつきの起業家」説への反論

エキスパート・アントレプレナーの概念が持つ最も重要な含意は、エフェクチュエーション的思考は学習可能であるという主張である。他の熟達スキルと同様、起業家的な思考様式も練習と経験によって習得できる——これが起業家教育への強力な理論的根拠となった(Sarasvathy, 2008, p. 247)。

起業家教育とエフェクチュエーションで詳論されているように、Babsonカレッジをはじめとする世界のビジネススクールがエフェクチュエーションをカリキュラムに組み込んでいる背景には、この「エフェクチュエーション的思考の学習可能性」という命題がある。

経験なしでもエフェクチュエーション的に行動できるか

研究上の問いとして「起業経験のない初心者がエフェクチュエーション原則を教えられた場合、より良い起業行動をとれるか」がある。Chandler et al.(2011)の実証研究は、エフェクチュエーション的行動と起業パフォーマンスの間の正の相関を確認している。また、教育プログラムによってエフェクチュエーション的思考様式の習得を促進できることを示す研究も蓄積されている(Sarasvathy, 2008, pp. 245–252)。

エキスパート・アントレプレナーが体現する思考パターンは、起業経験のない人にとっても「参照すべきモデル」として機能する。5つの原則は、その思考パターンを明示化した学習ガイドとして理解できる。

非エキスパートが今日から実践できること

エキスパート・アントレプレナーが体現する5つの原則は、起業経験がなくても模倣から始められる。「手中の鳥」であれば、大きな事業計画を立てる前に、今すでに持っているスキル・人脈・使える時間をリストにし、その組み合わせだけでできる小さな一歩を1つ選んで実行してみる。それだけで、思考の出発点をコーゼーションからエフェクチュエーションへ切り替える練習になる。

「許容可能な損失」も同じ要領で置き換えられる。新しい挑戦の前に期待リターンを計算するのではなく、「最悪の場合、いくらまでなら失っても構わないか」を先に決めてから動く——この手順を自分に課すこと自体が訓練になる。

前述の通り、この思考様式は座学よりも小さな実践の反復で身につくことが確認されている。エキスパートの5原則は「真似すべき完成形」ではなく、練習を重ねるための地図として使うのが最も効果的である。


引用・参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Chase, W. G., & Simon, H. A. (1973). Perception in chess. Cognitive Psychology, 4(1), 55–81.
  • Chandler, G. N., DeTienne, D. R., McKelvie, A., & Mumford, T. V. (2011). Causation and effectuation processes: A validation study. Journal of Business Venturing, 26(3), 375–390.
  • Ericsson, K. A., Krampe, R. T., & Tesch-Römer, C. (1993). The role of deliberate practice in the acquisition of expert performance. Psychological Review, 100(3), 363–406.
  • Arend, R. J., Sarooghi, H., & Burkemper, A. (2015). Effectuation as ineffectual? Applying the 3E theory-assessment framework to a proposed new theory of entrepreneurship. Academy of Management Review, 40(4), 630–651.
  • サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.

関連用語

エフェクチュエーション コーゼーション 手中の鳥 シンク・アラウド・プロトコル