用語集

市場を人工物として設計する(Market-as-Artifact)

起業家が発見するのではなく設計する対象として市場を捉えるSarasvathyの設計科学的概念。ハーバート・サイモンの人工物の科学を継承し、エフェクチュエーション理論に設計論的根拠を与える。

目次

しじょうをじんこうぶつとしてせっけいする

Market-as-Artifact人工物としての市場起業家的設計機会を人工物として

市場を「発見する」か「設計する」か

経営学の主流は長らく、市場を所与の存在として扱ってきた。市場調査とは「すでにそこにある市場を見つけ出す」行為であり、マーケティング戦略とは「発見した市場に適応する」プロセスとして設計されてきた。

しかしSarasvathy(2001)は、この前提に根本的な問いを向けた。iPhoneが登場するまで「スマートフォン市場」は存在していたか。FedExが生まれる前に「翌日配送市場」の需要を調査会社が測定できていたか——これらの問いに対して、誠実に答えようとすれば「市場は先に存在していたのではない」という結論に行き着く。

市場は起業家が設計した人工物である。この見解がエフェクチュエーション理論の設計論的転回の核心である(Sarasvathy, 2001, p. 252)。

ハーバート・サイモンの「人工物の科学」との接続

Sarasvathyがカーネギーメロン大学でノーベル賞受賞者のハーバート・サイモン(Herbert Simon)の直接指導のもとにPhDを取得したことは、エフェクチュエーション理論の認識論的な根を理解するうえで欠かせない背景である。

サイモンは1969年の著書『人工物の科学(The Sciences of the Artificial)』において、自然科学と設計科学の区別を論じた。自然科学は「世界がいかにあるか」を記述するが、設計科学は「世界をいかにあらしめるか」を扱う。設計科学の対象となるのは「人工物(artifacts)」——人間が意図を持って作り出した対象——であり、企業、制度、市場もその射程に入る(Simon, 1969, p. 4)。

Sarasvathyはこの区別を起業家研究に持ち込んだ。エフェクチュエーションとは、起業家が市場という人工物を設計するための論理体系である(Sarasvathy, 2001, p. 252)。コーゼーション(causation)が「存在する市場に最適化する」論理だとすれば、エフェクチュエーションは「市場そのものを人工物として構築する」論理だということになる。

「機会を人工物として」——AMR 2020論文の発展

Sarasvathy(2001)の人工物概念は、2020年の Academy of Management Review 論文 “Opportunities as Artifacts and Entrepreneurship as Design” においてより精緻化された。

この論文でSarasvathyは、起業家的機会(opportunity)を発見されるべき客観的実体としてではなく、設計されるべき人工物として再定義した。機会は環境の中に潜在しているのではなく、起業家が手持ちの手段を組み合わせ、ステークホルダーとのコミットメントを積み重ねる中で事後的に形成される構成物である(Sarasvathy, 2020)。

この設計科学的アプローチは、従来の「機会発見」観(opportunity discovery view)と根本的に対立する。機会発見観においては、市場の不均衡や情報の非対称性を察知できる能力が起業家の本質的な才能とされてきた。これに対してSarasvathyは、起業家の本質は発見者ではなく設計者にあるという代替的な認識論を提示した。

ステークホルダーとの共構築プロセス

市場を人工物として捉えるとき、それを「単独で設計する」という発想は成り立たない。

Sarasvathy & Dew(2005)は「New market creation through transformation」(Journal of Evolutionary Economics, vol. 15, pp. 533–565)において、新市場がどのように創造されるかを RFID 産業の実時間ヒストリーと起業家認知実験の両面から実証的に分析した。その結論として、新市場は起業家が単独で設計するのではなく、ステークホルダーとのコミットメント交換が連鎖する過程で共構築されるものであることが示された。

このプロセスには2つの同時進行するサイクルがある。

  1. 資源拡張サイクル(expanding resources): ステークホルダーが加わるたびに、手持ちの手段と資源ベースが拡張される
  2. 制約収斂サイクル(converging constraints): ステークホルダーのコミットメントが積み重なるにつれ、市場の輪郭が特定の形へと収斂していく

この2サイクルの相互作用が、最終的に新しい市場という人工物を「完成」させる。ここで言う「完成」とは固定状態への到達ではなく、次の設計サイクルへの出発点となる安定的な構成の達成を意味する。

コーゼーション的市場分析との相違

コーゼーション(因果論)エフェクチュエーション(人工物設計)
市場の位置づけ所与の存在構築される人工物
起業家の役割発見者・参入者設計者・共構築者
分析の時制事前(pre-determined)事後(emergent)
リスクへの態度期待リターンの最大化許容可能な損失の管理
市場定義の主体市場調査(外在する需要)ステークホルダーとの合意

コーゼーション的アプローチが「どの市場が最も魅力的か」を問うのに対して、エフェクチュエーション的アプローチは「どんな市場を、誰と一緒に、作ることができるか」を問う。この問いの違いは、起業行動の根本的な方向性の違いを生み出す。

実践への含意

市場を人工物として捉えることは、起業の実践において3つの含意を持つ。

第一に、市場調査の役割が変わる。 従来の市場調査は「既存需要を測定する」ツールだった。人工物設計の観点では、市場調査は「誰をステークホルダーとして巻き込めるか」を探索するプロセスへと転換される。

第二に、失敗の意味が変わる。 「市場が存在しなかった」という事後評価は、コーゼーション的枠組みでは単なる予測の失敗を意味する。エフェクチュエーション的枠組みでは、ステークホルダーの合意形成に至らなかった設計プロセスの未完成として捉え直すことができる。設計は反復できる。

第三に、競合の定義が変わる。 「同じ市場に参入している競合他社」という概念は、市場が所与の存在であることを前提とする。市場を人工物として設計している起業家にとって、競合との関係は「同じ市場を奪い合う」関係から「異なる市場設計の競存」へと変化する。

エフェクチュエーション理論が「不確実性を予測する」のではなく「不確実性を制御する」を志向するのは、市場という人工物の設計者としての起業家観に基づいている(Sarasvathy, 2001, p. 245)。


参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D., & Dew, N. (2005). New market creation through transformation. Journal of Evolutionary Economics, 15(5), 533–565.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of entrepreneurial expertise. Edward Elgar.
  • Sarasvathy, S. D. (2020). Opportunities as artifacts and entrepreneurship as design. Academy of Management Review, 45(1), 208–215.
  • Simon, H. A. (1969). The sciences of the artificial. MIT Press.

関連用語

エフェクチュエーション 新市場創造 エフェクチュアル・サイクル クレイジーキルト コーゼーション