人物

ノリス・クルーガー

起業家的意図理論(Entrepreneurial Intention Theory)の研究者として知られる。Ajzenの計画的行動理論を起業家研究に応用し、起業意図の認知的モデルを構築。エフェクチュエーション理論との接点として、起業家的思考の形成プロセスを研究する。

目次
English
Norris Krueger
肩書
研究者・起業家教育コンサルタント
所属
Entrepreneurship Northwest
役割
研究者起業家教育者コンサルタント

「起業しようと思うか」から「起業できると思うか」へ

起業意図の研究において、Norris Krueger が問い続けてきたのは「人が起業行動を起こすのはなぜか」という問いである。才能や資金や機会ではなく、「自分は起業できる」という認知的確信(Perceived Feasibility)と「起業は望ましい」という価値的確信(Perceived Desirability)が行動の前提となる——Krueger はこの主張を認知心理学の理論的基盤とともに体系化し、起業家研究の転換点を作った(Krueger & Carsrud, 1993)。

この研究は、Sarasvathyのエフェクチュエーション理論が提示する「熟達した起業家の認知パターン」と深い接続点を持つ。起業行動の前提となる認知の形成、そしてその認知の教育による変容可能性——この問いは両者が共有する問題領域である。

起業家的意図モデルの構築

Ajzenの計画的行動理論の応用

Krueger の代表的な研究成果は、Ajzen(1991)の「計画的行動理論(Theory of Planned Behavior)」を起業家研究に応用した「起業家的意図モデル(Model of Entrepreneurial Intentions)」である(Krueger & Carsrud, 1993; Krueger et al., 2000)。

計画的行動理論は「行動は意図によって最も直接的に予測される」という前提に立ち、意図は「態度・主観的規範・知覚された行動コントロール」によって形成されるとする。Krueger はこれを起業文脈に翻訳し、起業意図を「知覚された望ましさ(Perceived Desirability)」と「知覚された実行可能性(Perceived Feasibility)」によって予測されるモデルとして定式化した(Krueger & Carsrud, 1993, p. 316)。

3つの認知変数

Krueger et al.(2000)は、起業意図を規定する認知変数を3つに整理した。

知覚された望ましさ(Perceived Desirability): 起業するという行動が自分にとって望ましいか——個人的な価値観・周囲の社会規範・過去の経験から形成される評価的判断。「起業は意義ある選択肢である」という認知が行動の動機づけとなる。

知覚された実行可能性(Perceived Feasibility): 自分が実際に起業できるという信念——Bandura(1977)の自己効力感(Self-Efficacy)概念に近い。「自分には起業するための能力・知識・ネットワークがある」という認知が行動への移行を可能にする。

行動への傾向(Propensity to Act): 上記2つの認知から意図を実際の行動に変換する傾向——リスクへの姿勢、変化への受容度、自律への欲求が影響する(Krueger et al., 2000, p. 416)。

エフェクチュエーション理論との接続

「手中の鳥」と知覚された実行可能性

Sarasvathy(2008)が定義する「手中の鳥(Bird-in-Hand)」原則の出発点は、「誰であるか・何を知っているか・誰を知っているか」という自己の手段の認識である。この手段の認識が十分にできている人は、知覚された実行可能性が高い状態にある——Krueger の意図モデルとの接点である。

起業家教育においてエフェクチュエーション的な「手中の鳥の棚卸し」ワークショップが有効であることの認知的根拠の一つは、この棚卸しが知覚された実行可能性を高める効果を持つ点にある。「自分が持っているもの」を具体的に確認する行為が、「自分は起業できる」という認知の強化につながる(Krueger, 2007, p. 127)。

認知の変容可能性と教育

Krueger の研究が起業家教育に与えた最大の貢献は、起業意図を構成する認知は変容可能であるという主張の実証である。知覚された望ましさと知覚された実行可能性は、教育・経験・周囲の社会規範によって変えることができる。

これはSarasvathyの「エフェクチュエーション的思考は学習可能である」という主張と同一線上にある。起業家教育とエフェクチュエーションで論じているように、Babsonをはじめとするビジネススクールでエフェクチュエーションを教育に組み込む試みは、Krueger の意図研究とSarasvathy の認知研究が共同で理論的根拠を提供している(Krueger, 2007)。

主要な研究業績

代表論文

  • Krueger, N. F., & Carsrud, A. L. (1993). Entrepreneurial intentions: Applying the theory of planned behavior. Entrepreneurship and Regional Development, 5(4), 315–330. — 計画的行動理論の起業家研究への応用の嚆矢
  • Krueger, N. F., Reilly, M. D., & Carsrud, A. L. (2000). Competing models of entrepreneurial intentions. Journal of Business Venturing, 15(5–6), 411–432. — 3つの意図モデルを実証比較した代表作
  • Krueger, N. F. (2007). What lies beneath? The experiential essence of entrepreneurial thinking. Entrepreneurship Theory and Practice, 31(1), 123–138. — 起業家的思考の認知的深層を論じた理論論文

エフェクチュエーションへの研究的貢献

Krueger は起業家的思考の「認知科学的基盤」を研究し続けており、エフェクチュエーション研究コミュニティとも接点を持つ。2012年の Journal of Business Venturing のエフェクチュエーション特集号では、起業家的認知研究とエフェクチュエーション理論の接続についての論考が掲載されている。

研究の実践的含意

Krueger の研究は「なぜ多くの人が起業したいと思いながら実際には行動しないのか」という問いに対する実証的な答えを提供する。知覚された実行可能性が低ければ、どれだけ望ましいと感じても行動には移らない。この知見は、起業支援プログラムの設計において「動機づけ」より「自己効力感の向上」を優先すべきという実践的含意を持つ。

エキスパート・アントレプレナーが持つ認知パターンを教育を通じて伝達し、受講者の知覚された実行可能性を高める——これがエフェクチュエーション教育の認知科学的な目的でもある。


引用・参考文献

  • Krueger, N. F., & Carsrud, A. L. (1993). Entrepreneurial intentions: Applying the theory of planned behavior. Entrepreneurship and Regional Development, 5(4), 315–330.
  • Krueger, N. F., Reilly, M. D., & Carsrud, A. L. (2000). Competing models of entrepreneurial intentions. Journal of Business Venturing, 15(5–6), 411–432.
  • Krueger, N. F. (2007). What lies beneath? The experiential essence of entrepreneurial thinking. Entrepreneurship Theory and Practice, 31(1), 123–138.
  • Ajzen, I. (1991). The theory of planned behavior. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 50(2), 179–211.
  • Bandura, A. (1977). Self-efficacy: Toward a unifying theory of behavioral change. Psychological Review, 84(2), 191–215.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.