目次
- English
- Saras D. Sarasvathy
- 肩書
- Paul M. Hammaker Professor in Business Administration
- 所属
- バージニア大学ダーデン経営大学院(Darden School of Business, University of Virginia)
- 役割
- 研究者教授エフェクチュエーション理論創始者
「起業家の意思決定に、別の論理がある」
経営学には長らく、一つの前提があった。合理的な経済主体は期待リターンを最大化するように行動する、という前提である。新規事業への投資、市場参入タイミング、資源配分——いずれも、予測に基づく最適化の問題として定式化されてきた。
サラス・サラスバシー(Saras D. Sarasvathy)が2001年に Academy of Management Review に発表した論文は、この前提に根拠を持って異を唱えた。熟達した起業家の意思決定プロセスを認知科学的手法で観察すると、そこには期待リターン最大化とは異なる、独自の論理が働いていた——これがエフェクチュエーション理論の発見である(Sarasvathy, 2001)。
Herbert Simonのもとでの知的形成
Sarasvathyはインド出身の研究者である。インドで電気工学の学士号を取得した後、渡米してCarnegie Mellon大学のTepper School of Businessに進んだ。
Carnegie Mellon大学でSarasvathyが出会ったのが、1978年のノーベル経済学賞受賞者Herbert A. Simonである。Simonは人工知能研究と認知科学の先駆者であり、「限定合理性(Bounded Rationality)」の概念で経済学と意思決定理論に根本的な問い直しをもたらした人物として知られる(Simon, 1955)。人間は完全な情報と無制限の計算能力を持つ存在ではなく、認知能力の限界と情報の不完全性の中で「十分に満足できる(satisficing)」解を選ぶという考え方である。
SarasvathyはSimonの直接の指導のもとでPh.Dを取得した。この指導関係は単なる制度的な師弟関係にとどまらなかった。Simonから受け継いだ「人間の認知的限界を前提条件として組み込んだ意思決定理論を構築する」という問題意識が、エフェクチュエーション理論の認識論的な背骨となった(Sarasvathy, 2008, p. ix)。
期待リターン最大化モデルへの批判が有効なのは、人間に無限の計算能力があると仮定しているからではない。不確実性が支配する状況では、そもそも計算の入力となる確率分布が存在しないからだ——この認識はFrank Knight(1921)の不確実性論とSimonの限定合理性論の交点に位置し、Sarasvathyの研究の根幹をなしている。
認知プロセス・トレーシング実験の設計と発見
実験参加者の選定基準
Sarasvathyの博士論文における中核的実証研究は、熟達した起業家(expert entrepreneur)27名を対象とした認知プロセス・トレーシング実験である(Sarasvathy, 2008, pp. 3–12)。
参加者の選定基準は厳格だった。少なくとも1社を創業し、そのうち少なくとも1社を株式公開させるか年商10億円以上に成長させた経験を持ち、起業家キャリアが10年以上あること。この基準を設けたのは、「起業家一般」ではなく「熟達した起業家」の認知パターンを観察するためである。
シンク・アラウド法の方法論的意義
実験ではシンク・アラウド・プロトコル(think-aloud protocol)が採用された。参加者に架空の製品(教育用ボードゲーム)の事業化という課題を与え、思考を声に出しながら作業するよう求め、その発話を逐語的に記録・分析した。
シンク・アラウド法の方法論的な強みは、事後的な合理化バイアスを排除できる点にある。「なぜその決定をしたか」を後から語らせると、人は必ず整合的な説明を構築する。これに対してシンク・アラウド法は、意思決定が進行している最中の認知プロセスをリアルタイムで捕捉する。Ericsson & Simon(1993)が詳述しているように、この手法は認知心理学において内的な情報処理過程を直接観察するための標準的手法として確立されている。
発見されたパターン
27名の分析から浮かび上がったのは、起業家の意思決定が「期待リターン最大化」ではなく、複数の原則に従う別の論理によって駆動されているという知見だった。
許容可能な損失の優先: 参加者の大半は、新たな行動を検討する際にまず「いくらまで失えるか」を確認した。市場規模の推計や期待利益の計算ではなく、自分が現在許容できる損失の範囲を出発点とする認知プロセスが繰り返し確認された。
手段からの発想: 「何ができるか」ではなく「何を持っているか」から思考を始めるパターン。自分のアイデンティティ(Who I am)、知識(What I know)、ネットワーク(Whom I know)を手段として棚卸しし、そこから可能性を発散させる。
コミットメントによる不確実性削減: 予測によって不確実性を制御しようとするのではなく、ステークホルダーとの相互コミットメントを積み重ねることで不確実性を段階的に削減する。
偶発性の積極的活用: 予期せぬ事態を障害として処理するのではなく、新たな可能性の出現として積極的に組み込む認知傾向。
これら4つのパターンと「飛行機のパイロット」原則を加えた5つの行動原則が、エフェクチュエーション理論の骨格となった(Sarasvathy, 2001)。
AMR 2001論文:パラダイム転換の起点
2001年に Academy of Management Review 26巻2号に掲載された論文「Causation and Effectuation: Toward a Theoretical Shift from Economic Inevitability to Entrepreneurial Contingency」は、エフェクチュエーション理論を初めて学術的に提示した論文である(Sarasvathy, 2001, pp. 243–263)。
論文の理論的貢献は2点にある。
第一に、コーゼーションとエフェクチュエーションの対比的定式化。与えられた目標に対して最適な手段を選択するコーゼーションと、与えられた手段から達成可能な目標を選択するエフェクチュエーションという対比は、起業家の意思決定を分析する概念的枠組みを根本から変えた。
第二に、Knight的不確実性という境界条件の明示。エフェクチュエーションが有効に機能するのは、確率分布の推計が不可能なKnight的不確実性の状況であるという境界条件を明示することで、理論の適用可能領域を規定した。この境界条件の設定は、エフェクチュエーション理論が「常にコーゼーションより優れる」という誤解を防ぐとともに、理論の科学的厳密性を担保した(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
この論文は、経営学分野において最も引用される論文の一つとなっており、2001年以降のエフェクチュエーション研究の急増の出発点をなしている(Perry et al., 2012)。
主著『Effectuation』(2008年)の射程
2008年に Edward Elgar Publishing から刊行された Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise は、博士論文以降の研究成果を体系的に集成した主著である。
本書の構成は、理論(5原則の詳細な定義と実証根拠)、認識論(不確実性の哲学的基盤)、実践(エフェクチュエーション的起業プロセスの設計)、教育(カリキュラムへの統合方法)の4層からなる。
特筆すべきは、本書がエフェクチュエーション理論を「起業家の行動記述」に留めず、教育可能な認知スキルとして定式化した点である。「起業家は生まれつきの才能ではなく、意思決定の論理を学習した人々だ」というSarasvathyの中心的主張は、起業家教育のカリキュラム設計に直接的な含意を持つ(Sarasvathy, 2008, pp. 200–240)。
日本語版は吉田満梨の翻訳により2015年に碩学舎から刊行されている。
ダーデン経営大学院での研究と教育
Sarasvathyは現在、バージニア大学ダーデン経営大学院(Darden School of Business, University of Virginia)において Paul M. Hammaker Professor in Business Administration として研究・教育を行っている。
ダーデン経営大学院におけるSarasvathyの役割は研究にとどまらない。エフェクチュエーション教育の実践的な方法論を、世界の起業家教育者に普及させるプログラムの中心に立ち続けてきた。effectuation.orgに代表される研究コミュニティの形成においても中心的な役割を担い、理論の実践的応用と後続研究者の育成を並行して進めている。
エフェクチュエーション研究の射程拡大
Sarasvathyの原典研究以降、エフェクチュエーション理論は複数の方向に展開した。
実証研究の蓄積: Chandler et al.(2011)はエフェクチュエーション・コーゼーション尺度の妥当性検証を行い、Fisher(2012)はブリコラージュ理論との比較を通じて境界条件を精緻化している。
国際比較研究: エフェクチュエーション的行動が文化的文脈によって異なるかどうかを検証する比較研究が進んでいる。新興国の起業家や社会的起業家における適用可能性の検討も拡がりつつある。
組織・政策への応用: 当初は個人の起業家を対象としていた理論が、組織内イノベーション(イントレプレナーシップ)、スタートアップ・エコシステムの設計、産業政策への応用へと射程を広げつつある。
これらはいずれも、Sarasvathy(2001)が提示した理論的枠組みの射程の広さと精度の高さを裏付ける、後続研究の厚い蓄積だ。
Sarasvathyの研究を理解するための読書順序
最初に読むべきはSarasvathy(2001)の Academy of Management Review 論文である。20ページ超の論文だが、エフェクチュエーション理論の全体像——コーゼーションとの対比、5原則の概要、Knight的不確実性という境界条件——が凝縮されており、後続の研究を読む際の準拠点となる。
次のステップは Effectuation(2008年)の通読である。特に第1章の実験設計と第2章の5原則の定式化は精読に値する。日本語版(2015年)は翻訳の質が高く、原典の論理を正確に伝えている。
研究者・教育者であれば、Chandler et al.(2011)の実証論文と Effectual Entrepreneurship(Read et al., 2016)の教科書を組み合わせることで、理論の実証的根拠と教育実践への応用を同時に把握できる。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Simon, H. A. (1955). A behavioral model of rational choice. Quarterly Journal of Economics, 69(1), 99–118.
- Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
- Ericsson, K. A., & Simon, H. A. (1993). Protocol Analysis: Verbal Reports as Data (revised ed.). MIT Press.
- Chandler, G. N., DeTienne, D. R., McKelvie, A., & Mumford, T. V. (2011). Causation and effectuation processes: A validation study. Journal of Business Venturing, 26(3), 375–390.
- Fisher, G. (2012). Effectuation, causation, and bricolage: A behavioral comparison of emerging theories in entrepreneurship research. Entrepreneurship Theory and Practice, 36(5), 1019–1051.
- Perry, J. T., Chandler, G. N., & Markova, G. (2012). Entrepreneurial effectuation: A review and suggestions for future research. Entrepreneurship Theory and Practice, 36(4), 837–861.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Shane, S., & Venkataraman, S. (2000). The promise of entrepreneurship as a field of research. Academy of Management Review, 25(1), 217–226.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.