目次
- English
- Saras D. Sarasvathy
- 肩書
- 教授
- 所属
- バージニア大学ダーデン経営大学院
- 役割
- 研究者教授起業家教育者
「起業家は生まれつきの才能ではない」という問い
「成功する起業家には特別な才能がある」「起業家精神は生まれ持ったものだ」——こうした通念は、起業に関心を持つ多くの人にとって見えない壁となっている。自分には起業家の資質がないと感じて、一歩を踏み出せない人は少なくない。サラス・サラスバシー(Saras D. Sarasvathy)は、この通念に真正面から異を唱えた研究者である。彼女の研究は「起業家の才能」ではなく「起業家の意思決定プロセス」に焦点を当て、誰でも学び実践できる起業のロジックが存在することを実証的に示した(Sarasvathy, 2008)。
ノーベル賞受賞者のもとで育んだ知的基盤
サラス・サラスバシーは、インド出身の経営学者である。インドで電気工学の学士号を取得した後、渡米してカーネギーメロン大学のビジネススクールに進んだ。同大学で出会ったのが、人工知能と意思決定理論の先駆者であり、1978年にノーベル経済学賞を受賞した Herbert A. Simon である(Sarasvathy, 2008, p. ix)。
Simon は「限定合理性(Bounded Rationality)」の概念で知られる。人間は完全な合理性を持つのではなく、認知能力や情報の制約の中で意思決定を行うという考え方である。Sarasvathy は Simon の指導のもとで博士号を取得し、この「限定合理性」の概念を起業家の意思決定に応用することで、エフェクチュエーション理論を構築した。師から受け継いだ「人間の認知的限界を前提としたうえで、それでもなお有効な行動原理は何か」という問いが、彼女の研究の根幹にある。
27名の熟達した起業家を対象とした画期的実験
Sarasvathy の博士論文における中核的研究は、熟達した起業家27名を対象としたシンク・アラウド・プロトコル実験である(Sarasvathy, 2008, pp. 3–12)。実験参加者は、以下の条件を満たす起業家から選ばれた。
- 1社以上の企業を創業している
- 少なくとも1社は株式公開を経験、または年商10億円以上に成長させている
- 起業家としてのキャリアが10年以上ある
実験では、架空の製品(教育用ボードゲーム)のアイデアが与えられ、これを事業化するプロセスを声に出しながら考えてもらった。認知心理学で用いられる「シンク・アラウド法」を応用したこの手法により、起業家の思考過程をリアルタイムで記録することに成功した。
結果、27名中18名が共通のパターンを示した。彼らは市場調査から始めず、事業計画を書かず、まず「自分が持っているもの」を確認してから動き出していた。この共通パターンを5つの行動原則として体系化したのが、エフェクチュエーション理論である。
主要な研究業績
原著論文(2001年)
2001年に Academy of Management Review に発表した論文「Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency」は、エフェクチュエーション理論を初めて学術的に提示した画期的な論文である(Sarasvathy, 2001)。同論文は経営学分野で最も引用される論文の一つとなっている。
著書(2008年)
2008年に出版された Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise(Edward Elgar Publishing)は、博士論文以降の研究成果を体系的にまとめた主著である。5つの原則の詳細な解説に加え、理論的背景、実証データ、教育への応用が包括的に論じられている。日本語版は2015年に碩学舎から刊行された。
教科書(2011年、2016年改訂)
Stuart Read、Nick Dew、Robert Wiltbank との共著 Effectual Entrepreneurship(Routledge)は、ビジネススクールの授業で使用するために書かれた教科書である。理論を実践的なエクササイズに落とし込んでおり、世界中の大学で採用されている(Read et al., 2016)。
起業家研究へのインパクト
Sarasvathy の研究は、起業家研究のパラダイムを大きく転換させた。
機会発見から機会創造へ
従来の起業家研究は、Shane & Venkataraman(2000)に代表される「機会発見(Opportunity Discovery)」モデルが主流であった。市場に未発見の機会が存在し、優れた起業家がそれを発見するという考え方である。Sarasvathy はこれに対して「機会創造(Opportunity Creation)」の視点を提示した。起業家は既存の機会を発見するのではなく、自らの行動とパートナーとの相互作用を通じて新市場を創造する主体であるという立場である。
後続研究の広がり
Perry et al.(2012)のレビューによれば、エフェクチュエーションに関する学術論文は2001年の提唱以降急増している。Journal of Business Venturing(2012年)では特集号が組まれ、Chandler et al.(2011)による実証研究、Fisher(2012)によるブリコラージュ理論との比較など、多様な研究が展開されている。
こんな人にサラスバシーの研究は示唆を与える
- 「自分には起業家の才能がない」と感じている人: 起業は才能ではなく学習可能なスキルであるという実証的根拠を得られる
- 起業家教育に携わる教員: エフェクチュエーションをカリキュラムに組み込むための理論的基盤となる
- 経営学の研究者: 起業家研究の新しいパラダイムとして、自身の研究に応用できる
- イノベーション政策に関わる行政担当者: 起業家育成プログラムの設計に、エフェクチュエーションの知見を活かせる
サラスバシーの研究を深く学ぶために
まず2001年の原著論文を読むことを勧める。20ページ程度の論文であり、エフェクチュエーション理論のエッセンスが凝縮されている。次に著書 Effectuation(日本語版あり)を読み、5つの原則の詳細と実証データを確認する。そのうえで、自分の手段を棚卸しし、エフェクチュエーション的な行動を一つ実践してみることが、彼女の研究を最も深く理解する方法である。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Shane, S., & Venkataraman, S. (2000). The promise of entrepreneurship as a field of research. Academy of Management Review, 25(1), 217–226.
- Perry, J. T., Chandler, G. N., & Markova, G. (2012). Entrepreneurial effectuation: A review and suggestions for future research. Entrepreneurship Theory and Practice, 36(4), 837–861.
- Chandler, G. N., DeTienne, D. R., McKelvie, A., & Mumford, T. V. (2011). Causation and effectuation processes: A validation study. Journal of Business Venturing, 26(3), 375–390.
- Fisher, G. (2012). Effectuation, causation, and bricolage: A behavioral comparison of emerging theories in entrepreneurship research. Entrepreneurship Theory and Practice, 36(5), 1019–1051.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.