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「何から始めればいいのか分からない」という壁
新規事業を立ち上げようとしたとき、多くの人が最初にぶつかる壁がある。「何から始めればいいのか分からない」 という問題である。
市場調査をすべきか、事業計画書を書くべきか、資金を集めるべきか——やるべきことが多すぎて、結局一歩も踏み出せないまま時間だけが過ぎていく。
MBA で教わる戦略論は「まず目標を定め、そこから逆算せよ」と説くが、不確実な環境では目標そのものが定まらない。市場が存在するかすら分からない段階で、5年後の売上予測を求められるのは非現実的である。
こうした 「計画の呪縛」 は、大企業の新規事業担当者だけでなく、独立起業を志す個人にも共通する深刻な課題である(Sarasvathy, 2008, p. 3)。エフェクチュエーション全体の概要は「エフェクチュエーションとは何か」で解説している。
起業家27名の実験が示した「逆転の発想」
この問題に対して、画期的な答えを提示したのが Saras D. Sarasvathy の研究である。Sarasvathy は博士論文の研究において、売上10億円以上の企業を創業した熟達した起業家27名を対象にシンク・アラウド・プロトコル実験を行った(Sarasvathy, 2008, pp. 3–12)。
実験では、架空の製品アイデアを与え、事業をどう構築するかを声に出しながら考えてもらった。驚くべきことに、27名中18名が同じパターン を示した。彼らは市場調査から始めなかった。競合分析もしなかった。彼らが最初にやったのは「自分が今持っているもの」を確認すること だったのである。
この発見から、エフェクチュエーションの第一原則「手中の鳥の原則」が生まれた。計画がなくても始められる ——この事実は、多くの実務家にとって大きな解放となるはずである。
手中の鳥の原則:3つの手段から始める
手中の鳥の原則(Bird in Hand Principle)の核心は、「目標から逆算して手段を集める」のではなく、「手元にある手段から出発して何ができるかを考える」 というアプローチにある(Sarasvathy, 2001, p. 245)。Sarasvathy は、起業家が持つ手段を 3つのカテゴリ に分類した(Sarasvathy, 2008, pp. 15–16)。
第一の手段:Who I am(自分は何者か)
起業家自身の アイデンティティ、価値観、好み、能力 が出発点となる。何に情熱を持っているか、何が得意か、どのような人生経験を積んできたかという自己認識が最初の手段である。たとえば、料理が好きで食品業界に10年いた人と、プログラミングが得意で IT スタートアップ出身の人では、同じ「起業」でも出発点がまったく異なる。Sarasvathy は、「自分は何者か」という問いが、ビジネスアイデアの源泉になる と指摘している。
第二の手段:What I know(何を知っているか)
これまでの 教育、経験、専門知識 が2つ目の手段となる。業界知識や技術的なスキルはもちろん、暗黙知——つまり言語化しにくい経験則や直感——も含まれる。ある業界に長くいれば、顧客が本当に困っていること、既存サービスの不満点、業界の「暗黙のルール」を肌感覚で知っている。この知識は、市場調査レポートでは決して手に入らない貴重な資産 である。
第三の手段:Whom I know(誰を知っているか)
社会的ネットワーク、つまり知人・友人・同僚・メンター・取引先などの人的つながりが3つ目の手段である。重要なのは、このネットワークが 単なる「名刺の数」ではない ということである。起業初期において、最初の顧客になってくれる人、技術的な助言をくれる人、一緒に事業を作ってくれるパートナーは、ほとんどの場合、既存のネットワークから生まれる(Sarasvathy, 2008, p. 16)。
明日から実践できる「手段の棚卸し」
この原則を実践に移すための最初のステップは「手段の棚卸し」である。以下の3つの問いに答えるだけで、自分が持つ手段の全体像が見えてくる。
- Who I am を書き出す: 自分の価値観、情熱、強み、経験を紙に書き出す。10分間、思いつくままに列挙する
- What I know をリスト化する: 専門知識、業界経験、資格、趣味で培ったスキルなど、「他の人より詳しいこと」を網羅する
- Whom I know をマッピングする: 直接連絡できる人を書き出し、その人がどのような専門性や人脈を持っているかを整理する
吉田(2018)は、日本企業の新規事業担当者にとっても「手持ちの手段の棚卸し」が有効な第一歩であると指摘している。とくに大企業の場合、個人の手段に加えて「組織の手段」——既存の顧客基盤、技術資産、ブランド、流通チャネル——も棚卸しの対象に含めるべきである(吉田, 2018, p. 87)。
因果論的アプローチとの構造的な違い
従来の因果論的アプローチ(Causation)では、まず目標(市場機会)を定義し、それに必要なリソースを調達する。料理に例えれば 「今夜はビーフストロガノフを作る」と決めてから材料を買いに行く ようなものである。
一方、エフェクチュエーションは 「冷蔵庫にある食材で何が作れるか考える」アプローチ である(Sarasvathy, 2001, p. 245)。この比喩は単純に見えるが、不確実な環境での意思決定における根本的な発想の転換を示している。
因果論では「予測できる限り、コントロールできる」と考えるが、エフェクチュエーションでは 「コントロールできる限り、予測する必要はない」 と考える(Sarasvathy, 2008, p. 91)。2つのアプローチの詳細な比較は「エフェクチュエーションとコーゼーションの違い」で論じている。
こんな状況にいる人に特に有効である
実践の現場では、「何から始めればいいか分からない」という悩みは極めてよく聞かれる。手段の棚卸しを実際に行うと、ほとんどの場合、自分が思っていたよりはるかに多くの「手中の鳥」があることに気づく。
手中の鳥の原則は、以下のような状況にいる人にとくに有効である。
- 新規事業のアイデアが浮かばない人: 市場の「空白」を探す前に、自分の手段を見つめ直すことで、自然とアイデアが生まれる
- リソース不足を理由に行動できない人: 「お金がない」「人脈がない」と嘆く前に、「今あるもので何ができるか」を考える発想への転換が鍵である
- 大企業で新規事業を任された担当者: 組織内の既存資産(顧客、技術、ブランド)を手段として再定義することで、ゼロからの出発ではなくなる
- MBA 的な計画立案に疲弊している人: 完璧な事業計画の作成に時間を費やすよりも、小さな行動から始めるほうが学びが大きい
まず今日、手段の棚卸しを始めよう
手中の鳥の原則は、「完璧な準備が整ってから始める」のではなく、「今あるもので今日始める」 ことの重要性を教えている。Sarasvathy の研究が明らかにしたのは、成功した起業家は特別なビジョンや予知能力を持っていたのではなく、手元の手段を起点に行動し続けた人々であった という事実である。
まずは15分の時間を取り、ノートに「Who I am / What I know / Whom I know」の3つの問いへの答えを書き出してみることを勧める。その小さな行動が、エフェクチュエーション的な起業プロセスの第一歩となる。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.
- 吉田満梨 (2018).『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』ダイヤモンド社.