目次
理論だけでは動けない——実務家が求める「具体例」
エフェクチュエーションの5原則——手中の鳥、許容可能な損失、クレイジーキルト、レモネード、飛行機のパイロット——は、概念として理解できても、実際のビジネスでどう機能するのかが見えにくいという声は多い。「手段から始めるとは具体的にどういうことか」「偶然を活用するとは現実にはどのような場面か」——こうした問いに理論だけで答えることには限界がある。Chandler et al.(2011)が指摘するように、理論と実践をつなぐ実証的な事例分析が不可欠である(Chandler et al., 2011, p. 376)。本稿では、Sarasvathy の原典で用いられた古典的な事例から、よく知られた企業の事例、そして日本の大企業における社内起業への応用まで、3つの事例を通じてエフェクチュエーションの実際を描き出す。
筆者自身の「手段の棚卸し」体験
事例の分析に入る前に、筆者自身の体験を共有したい。筆者がエフェクチュエーション理論に初めて触れたのは、社内新規事業の立ち上げに苦戦していた時期であった。事業計画書を何度も書き直し、市場規模の推定に数週間を費やし、経営会議で承認を得ようとしては差し戻される——そのサイクルを半年以上繰り返していた。Sarasvathy の著作を読み、「まず手持ちの手段を棚卸しする」というアプローチに切り替えたところ、状況が動き始めた。自分が持つ業界知識、社内の信頼できる同僚、既存顧客との関係性——これらを出発点にして考えると、計画書を書く前に最初の一歩を踏み出せたのである。この体験が、事例研究の重要性を確信させてくれた。
事例1:Curry in a Hurry——Sarasvathyのシンク・アラウド実験
実験の概要
エフェクチュエーション理論の原点ともいえる事例が、Sarasvathy の博士論文で使用された「Curry in a Hurry」の思考実験である。Sarasvathy は、売上が2億ドルから65億ドルの範囲にある企業を創業した熟達した起業家27名を実験室に招き、「インド料理のレストランチェーン」という架空の製品アイデアを与えた。そして、この事業をどのように構築するかを声に出しながら考えてもらったのである(Sarasvathy, 2008, pp. 3–12)。
因果論的アプローチを取った起業家
一部の起業家は、MBA のケーススタディで教わるような手順を踏んだ。まずインド料理の市場規模を調査し、競合レストランを分析し、ターゲット顧客を設定し、その上で差別化戦略を立てるというアプローチである。市場の機会を「発見」し、それに最適化された計画を「実行」するという因果論的ロジックが基盤にある。
エフェクチュエーション的アプローチを取った起業家
しかし、27名中18名は、これとはまったく異なるアプローチを取った。彼らはまず「自分がインド料理について何を知っているか」「インド料理業界で誰を知っているか」を確認した。ある起業家は「自分にはレストラン経営の経験がないが、フランチャイズのノウハウなら持っている」と言い、レストランではなくフランチャイズモデルを提案した。別の起業家は「知り合いに食品流通の専門家がいる」と言い、レストランではなくレトルト食品の製造販売を構想した(Sarasvathy, 2008, pp. 7–9)。
エフェクチュエーションの観点からの分析
この実験が示したのは、同じ製品アイデアでも、起業家の手段によってまったく異なる事業が構想されるという事実である。エフェクチュエーション的起業家は市場調査をスキップしたのではない。**「市場を予測するよりも、自分がコントロールできる手段から始めるほうが合理的である」**という判断をしたのである(Sarasvathy, 2001, p. 252)。さらに彼らは、潜在的なパートナーとの対話を通じて事業の形を決めていく「クレイジーキルトの原則」を自然に実践していた。
事例2:スターバックス——Howard Schultzの手段駆動型ピボット
コーヒー豆の小売からカフェ文化の創造へ
スターバックスの創業物語は、エフェクチュエーションのレンズを通して見ると新たな意味を持つ。1971年にシアトルで創業されたスターバックスは、もともとコーヒー豆と茶葉の小売店であった。Howard Schultz が同社に入社したのは1982年のことである。Schultz はイタリアのミラノを訪れた際にエスプレッソバーの文化に感銘を受け、これをアメリカに持ち込むことを構想した(Read et al., 2016, pp. 112–115)。
エフェクチュエーション的分析
Schultz の行動をエフェクチュエーションの5原則で分析してみよう。第一に「手中の鳥の原則」——Schultz はコーヒー業界の知識(What I know)、スターバックスの創業者たちとの関係性(Whom I know)、そしてイタリアで得た体験的知見を手段として持っていた。第二に「許容可能な損失の原則」——創業者たちがカフェ業態への転換に反対したとき、Schultz は退社して自ら「Il Giornale」という小さなコーヒーバーを開業するという、許容可能な範囲でのリスクを取った。第三に「レモネードの原則」——イタリア式のオペラ音楽が流れる本格エスプレッソバーは当初不評であったが、Schultz はその**「失敗」から学び、アメリカ人の好みに合わせてコンセプトを柔軟に変容**させた。
重要なのは、Schultz が最初から「世界最大のカフェチェーンを作る」という目標を掲げていたわけではないことである。手持ちの手段から出発し、ステークホルダーとの対話(その後スターバックスを買収する際には投資家242人に声をかけ、217人に断られた)を通じて、結果として新しい市場——「サードプレイス」というカフェ文化——を創造したのである(Read et al., 2016, pp. 115–118)。これはまさに、エフェクチュエーションが描く市場創造のプロセスそのものである。
事例3:日本の大企業における社内起業——エフェクチュエーションの組織的応用
日本企業が直面する新規事業の壁
日本の大企業における新規事業開発は、独自の課題を抱えている。稟議制度による意思決定の遅さ、失敗を許容しない組織文化、既存事業との利益相反——これらの構造的障壁が、社内起業家(イントラプレナー)の行動を制約する。従来の因果論的アプローチ——市場調査、事業計画書の作成、ROI の試算——は稟議を通すためには有効であるが、不確実性の高い新規事業の実現には必ずしも寄与しない。
エフェクチュエーション的アプローチの適用
大企業の社内起業家がエフェクチュエーションを適用する場合、「手段」の定義を個人から組織に拡張する必要がある。具体的には以下の3つの次元で手段を再定義する。
第一に、「Who we are」——組織のアイデンティティ、ブランド、企業文化、社会的信用である。大企業の看板は、スタートアップには持ち得ない強力な手段となる。第二に、「What we know」——組織が蓄積してきた技術資産、顧客データ、業界知識、特許ポートフォリオである。これらは市場で購入できない独自のリソースである。第三に、「Whom we know」——既存の取引先、顧客基盤、業界団体との関係性、グループ会社のネットワークである(Sarasvathy, 2008, pp. 15–16を組織レベルに応用)。
実践上の留意点
Chandler et al.(2011)の実証研究は、起業家が状況に応じてエフェクチュエーションとコーゼーションを使い分けていることを明らかにしている(Chandler et al., 2011, p. 383)。日本の大企業においても同様のアプローチが有効である。社内稟議のプロセスでは因果論的な事業計画が求められるが、計画の「前段階」——何をやるべきかを探索する段階——ではエフェクチュエーション的な手段ドリブンのアプローチが突破口となりうる。許容可能な損失の原則を活用し、正式な予算承認を得る前に「既存のリソースの範囲内」で小さな実験を行うことも、日本の組織文化と整合的である。
3つの事例に共通するパターン
以上の3つの事例を横断的に分析すると、エフェクチュエーションが機能する場面にはいくつかの共通パターンが浮かび上がる。
第一に、手段の徹底的な棚卸しが行われていることである。Curry in a Hurry 実験の起業家たちも、Schultz も、社内起業家も、市場の「空白」を探す前に自分(あるいは組織)の手段を精査している。
第二に、ステークホルダーとの早期の対話がある。エフェクチュエーション的な起業家は、事業計画が完成する前にパートナー候補に接触し、相手が何を持ち寄れるかを確認する。Schultz が242人の投資家と対話したように、この対話のプロセスが事業の形を決めていく。
第三に、偶然や障害を方向転換の契機として活用している。Schultz がイタリア式コンセプトの不評から「アメリカ版カフェ文化」を着想したように、計画の「逸脱」が最大の価値を生む瞬間がある。Read et al.(2016)は、この偶然活用能力がエフェクチュエーション的起業家の核心的な特質であると指摘している(Read et al., 2016, p. 98)。
こうした課題を抱える読者にとくに有効である
- 「理論は分かったが、具体的にどう実践すればいいのか分からない」という人: 本稿の事例を自分の状況に置き換えて考えることで、実践のイメージが具体化する
- 大企業で新規事業担当に任命されたが、何から手をつけるべきか悩んでいる人: 事例3の組織的手段の棚卸しフレームワークを使って、自社の隠れたリソースを発見できる
- スタートアップの創業期にいるが、市場調査に時間を取られすぎている人: Curry in a Hurry の事例が示すように、手段ドリブンの探索が市場調査に先行すべき場面がある
- エフェクチュエーションをチームや組織に導入したいリーダー: 本稿の事例は、エフェクチュエーションの説明に使える具体的な素材を提供する
今週中に「手段の棚卸しワークショップ」を開催しよう
事例研究の最大の価値は、読者自身の行動を触発することにある。本稿を読んだら、今週中にチームで30分の「手段の棚卸しワークショップ」を開催してみることを勧める。ホワイトボードに「Who we are / What we know / Whom we know」の3つの列を作り、チーム全員で自分たちの手段を書き出す。Sarasvathy の研究が示すように、起業家は計画書を書いて動き出したのではない。手持ちの手段を見つめ直し、最初の一歩を踏み出すことから始めたのである(Sarasvathy, 2008, p. 15)。その最初の一歩が、事例研究で読んだような創造的なプロセスの出発点となる。
関連記事として「エフェクチュエーションとは何か」、「エフェクチュエーションを実務で活かす」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Chandler, G. N., DeTienne, D. R., McKelvie, A., & Mumford, T. V. (2011). Causation and effectuation processes: A validation study. Journal of Business Venturing, 26(3), 375–390.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.