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ディズエフェクチュエーション——なぜ起業家は行動を起こせなくなるのか

Nelson & Lima(2020)が提示したディズエフェクチュエーション概念を解説。心理的トラウマがエフェクチュエーション実践を阻害するメカニズムと、心理的レジリエンスの前提条件を論じる。

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目次

エフェクチュエーション理論の「暗黙の前提」への問い

エフェクチュエーション理論は、手中の鳥を出発点とし、クレイジーキルトを編み、レモネードの原則によって予期せぬ事態を機会へと転換する起業家の行動論理を体系化したものである(Sarasvathy, 2001)。しかし、Nelson & Lima(2020)はこの理論が暗黙のうちに前提としている条件に根本的な問いを投げかけた。それは**「起業家は行動を起こすことができる」**という前提である。

5原則はいずれも、起業家が実際に何らかの行動を起こすことを出発点としている。手中の鳥を評価するのも、パートナーとの交渉を始めるのも、すべて「行動する主体」の存在が前提となる。Nelson & Limaが危機的状況下の起業家行動の分析から提示したのが、ディズエフェクチュエーション(Diseffectuation)——手段があっても行動を起こせない状態——という概念である。

ディズエフェクチュエーションの概念定義

手段(Means)があっても行動不能

ディズエフェクチュエーションとは、起業家がエフェクチュアルな行動を取るための資源(知識、ネットワーク、技術、財務的余裕)を客観的に保有しているにもかかわらず、心理的要因によってそれらの資源を動員する能力が凍結され、エフェクチュアルな行動プロセスが停止する現象を指す(Nelson & Lima, 2020)。

通常の理論では、行動の「不在」は資源の「不足」で説明される。十分な手段が存在すれば行動は開始されるという暗黙の仮定がある。ディズエフェクチュエーションはこの仮定を覆す。資源が存在しても、行動主体の心理的プロセスが破綻している場合、エフェクチュエーションは発動しない。

これはエフェクチュエーション理論の「否定」ではなく「境界条件(Boundary Conditions)」の明示である。エフェクチュエーションが有効に機能するために「起業家の心理的行動可能性」という前提条件が必要であることを理論の射程に組み込む概念である。

心理的トラウマの凍結効果

危機がもたらす心理的麻痺

Nelson & Lima(2020)がこの概念を導出したのは、自然災害やパンデミックのような大規模危機が起業家に与える心理的影響の分析においてであった。大規模危機は事業基盤の物理的破壊だけでなく、「心理的トラウマ」を引き起こす。トラウマ反応が深刻な場合、個人は「凍結(Freezing)」状態に陥る。これは闘争・逃走反応がいずれも不可能と認知された際に生じる第三の反応パターンであり、行動的・認知的プロセスが停止する。

起業家の文脈では、この凍結は以下のように発現する。第一に、「手中の鳥」の認知的評価能力が麻痺する。トラウマにより自己効力感が毀損された起業家は、スキルやネットワークを保有しているにもかかわらず、それらを「使える資源」として認知できなくなる。第二に、パートナーシップ構築に必要な他者への信頼とイニシアティブが損なわれる。第三に、予期せぬ事態を機会として活用する認知的柔軟性(レモネードの原則)が停止する。トラウマ状態では不確実性を「活用すべき資源」ではなく「圧倒的な脅威」としてのみ知覚するため、レモネードの原則の認知的前提が崩壊するのである。

損失回避性の極端な発現

ディズエフェクチュエーションの心理的メカニズムは、Kahneman & Tversky(1979)のプロスペクト理論が示す「損失回避性」とも深く関連する。通常のエフェクチュエーションにおいて「許容可能な損失の原則」は、損失回避性を「行動の停止」ではなく「行動の範囲の設定」へと変換する建設的なメカニズムである。

しかしトラウマを経験した起業家では、損失回避性が極端かつ全般的に発現する。「あらゆる行動が新たな損失をもたらす」という過剰般化された信念が顕在化し、許容可能な損失の範囲が「ゼロ」に収束する。いかなる損失も許容できない状態では、エフェクチュアルな行動は論理的に不可能となる。

Korber & McNaughtonフレームワークとの接続

心理的資本としてのレジリエンス

Korber & McNaughton(2018)のレジリエンス・フレームワークは、起業家的レジリエンスが「個人の心理的資本」「組織のルーティン」「経済システム」の3層で相互作用しながら構築されることを示した。その第一ストリーム——「起業家の特性としてのレジリエンス」——が、ディズエフェクチュエーションの理解において決定的に重要である。

心理的資本(自己効力感、楽観主義、希望、レジリエンス)は、不確実性に直面した際に意思決定の麻痺を免れ、行動を継続するための認知的・情動的基盤を提供する。ディズエフェクチュエーションが明らかにするのは、この心理的資本がエフェクチュエーション実践の必要条件であるという事実である。心理的資本がトラウマによって枯渇した状態では、客観的な資源保有量にかかわらず、エフェクチュアルな行動は発動しない。

Bouncing Forwardの前提条件

Korber & McNaughton(2018)は、レジリエンスを「元の状態への回復(Bouncing Back)」にとどまらず「新たな次元への飛躍(Bouncing Forward)」を含む動的プロセスとして再定義した。レモネードの原則——危機を機会に転換する——はこのBouncing Forwardに対応する。ディズエフェクチュエーションは、Bouncing Backすらできないほど深刻なダメージにより、「前方への跳躍」の前提となるエフェクチュアルな行動が停止する状態を記述する。

エフェクチュエーション理論への含意

理論的精緻化

ディズエフェクチュエーションは三つの理論的精緻化を提供する。第一に、エフェクチュエーションの5原則が機能するための前提条件の明示化である。不確実性が「高い」ことと「破壊的」であることは質的に異なり、後者では意思決定者の心理的プロセスが損傷し得る。

第二に、手中の鳥の認知的構成要素の深化である。手中の鳥は客観的資源のリストではなく、心理的資本によって媒介される認知的構成物である。資源の存在と、その資源を「動員可能」と認知することは別の問題なのである。

第三に、許容可能な損失の限界条件の特定である。メタ分析で許容可能な損失が単独では有意な効果を示さなかった実証的発見と、ディズエフェクチュエーションにおいて損失回避性がゼロ収束する知見は整合的である。

実践的インプリケーション

危機後の起業家支援においては、物的資源の提供は必要条件ではあるが十分条件ではない。起業家が資源をエフェクチュアルに活用するためには、まず心理的資本の回復——自己効力感の再構築、トラウマ反応の緩和、他者への信頼の回復——が先行して行われなければならない。ディズエフェクチュエーションの概念は、エフェクチュエーション理論の普遍的な有効性と条件付き性を矛盾なく両立させ、理論の実践的適用においてより現実的な判断を可能にする重要な理論的装置である。

関連記事として「エフェクチュエーションとは何か」「エフェクチュエーションとコーゼーションの違い」も参照されたい。


参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and Effectuation: Toward a Theoretical Shift from Economic Inevitability to Entrepreneurial Contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Nelson, T., & Lima, E. (2020). Effectuations, Social Bricolage and Causation in the Response to a Natural Disaster. Small Business Economics, 54, 281–297.
  • Korber, S., & McNaughton, R. B. (2018). Resilience and entrepreneurship: A systematic literature review. International Journal of Entrepreneurial Behavior & Research, 24(7), 1129–1154.
  • Kahneman, D., & Tversky, A. (1979). Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk. Econometrica, 47(2), 263–292.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Bosatto, R. G., & Lima, E. (2023). Effectuation and entrepreneurship facing crises: A review. Revista de Gestao e Projetos, 14(3), 1–25.
  • Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.

参考書籍

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