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「当たり前」が存在しない市場の論理
先進国において事業を営む際、多くの前提条件は意識されることなく機能している。信頼できる市場調査データが入手でき、契約は法的に履行され、資本市場にはベンチャーキャピタルや信用格付け機関が存在し、労働市場には専門的な人材紹介会社がある。しかし新興国市場では、これらの前提条件が根本的に欠如している。ハーバード・ビジネス・スクールのTarun KhannaとKrishna Palepuは、この状態を**「制度的空白(Institutional Voids)」**と名付け、新興国における戦略論に根本的なパラダイム転換をもたらした(Khanna & Palepu, 1997)。本稿では、この制度的空白概念とエフェクチュエーション理論の理論的交差点を探り、予測不能な市場における非予測的戦略(NPS)の有効性を論じる。
Khanna & Palepuの制度的空白概念
三つの市場における空白
Khanna & Palepu(1997, 2010)は、先進国において市場の効率的かつ円滑な取引を暗黙のうちに支えている専門的な仲介機関、規制システム、および契約履行メカニズムが新興国において欠如または著しく未発達である状態を「制度的空白」と体系的に定義した。具体的には、以下の三つの市場領域に空白が顕在化する。
製品市場の空白——市場調査会社、消費者保護法、品質認証機関の欠如により、売り手と買い手の間に深刻な情報の非対称性が存在する。労働市場の空白——人材育成機関や職業資格認定制度の不在により、採用リスクが高い。資本市場の空白——ベンチャーキャピタルや信用格付け機関の未発達により、外部資金調達が構造的に困難である(Khanna & Palepu, 2010)。
仲介機関の不在がもたらす帰結
先進国では、上述のような仲介機関が取引コストの低減と情報の非対称性の緩和という二つの機能を果たしている。消費者は第三者機関のレビューや品質認証を参照して購買判断を下し、投資家は監査済みの財務諸表や格付け情報に基づいて投資判断を行う。これらの仲介機関が存在しない新興国では、あらゆる経済活動において取引コストが飛躍的に増大し、ビジネス環境の極度な不透明性が常態化する(Khanna & Palepu, 2010)。
コーゼーション的アプローチの機能不全
予測の原材料が存在しない
制度的空白の存在は、コーゼーション的(因果論理的)な戦略立案の前提条件を根本から破壊する。コーゼーション的アプローチは、事前の市場調査、データ分析、予測モデルに基づいて最適な戦略を策定することを前提としている(Sarasvathy, 2008)。しかし、信頼できる市場データが入手不可能であり、市場ルール自体が政治的圧力によって急激に変更されたり、結んだ契約が法的に保護・履行されなかったりする環境では、予測の原材料たるデータ自体が存在しない。
過去のデータから未来のトレンドを外挿するという統計的予測の手法は、データの信頼性と環境の安定性という二つの前提条件に依存している。制度的空白が顕著な市場では、この二つの前提がいずれも成立しない。企業がコーゼーション的なアプローチに固執すれば、信頼性のないデータに基づく誤った予測に貴重なリソースを浪費するリスクが極めて高い。
契約履行メカニズムの欠如
コーゼーション的な戦略実行においては、計画に基づいて締結された契約が確実に履行されることが暗黙の前提となっている。しかし制度的空白の存在する市場では、法的な契約履行メカニズムが機能不全に陥っていることが多い。裁判所の処理能力不足、汚職の横行、執行力の欠如などにより、たとえ綿密な契約を締結しても、その履行が保証されない。この状況下では、精緻な計画に基づく長期的な取引関係の構築というコーゼーション的アプローチは構造的に破綻する。
非予測的戦略(NPS)の有効性
コントロールの論理への転換
制度的空白が存在する市場において有効となるのが、エフェクチュエーションの中核概念である**「非予測的戦略(Non-Predictive Strategy: NPS)」である(Laine & Galkina, 2017)。NPSの本質は、未来を正確に「予測(Predict)」することに貴重なリソースを浪費するのではなく、自らの行動を通じて結果を「コントロール(Control)」**することにある。
具体的には、エフェクチュエーションの「飛行機のパイロットの原則」に基づき、不確実な外部環境ではなく自らの統制下にある要素——既存のリソース(手中の鳥)、確立された個人的な人間関係(クレイジーキルト)、許容可能な損失の範囲内での投資判断——に注力する。そして「レモネードの原則」により、制度的欠陥がもたらす予期せぬショックを、むしろ競合を排除する新たなビジネス機会へと転換する(Sarasvathy, 2008)。
予測不能性を前提とした意思決定フレーム
NPSの実践における意思決定フレームは、以下の3つの問いで構成される。
第一に、「現在の手持ちのリソースで何ができるか」(手中の鳥の原則)。信頼できる市場予測が不可能である以上、将来獲得する予定のリソースに依存した計画ではなく、今この瞬間に利用可能な手段から出発する。
第二に、「最悪の場合にどこまで失っても生存できるか」(許容可能な損失の原則)。期待収益の計算が不可能な環境では、リターンの最大化ではなくダウンサイドの限定がリスク管理の中心となる。
第三に、「予期せぬ事態をいかに活用できるか」(レモネードの原則)。制度的空白は予期せぬ事態を常態化させるが、それを脅威ではなく機会として再解釈する認知的柔軟性が求められる。
インフォーマル制度への戦略的依存
フォーマルとインフォーマルの補完関係
制度的空白はフォーマルな制度(法律・規制・公的機関)の欠如を意味するが、その真空を完全に放置するわけではない。フォーマル制度の不在を補うように、家族、文化、宗教、地縁、民族的紐帯といったインフォーマルな制度への依存が構造的に高まる傾向がある(Welter & Smallbone, 2011)。
Welter & Smallbone(2011)が示すように、法的な契約履行メカニズムが欠如する環境では、血縁関係に基づく無条件の信頼、宗教的な戒律に基づく取引倫理、地縁的なコミュニティにおける社会的制裁のメカニズムが、フォーマル制度の代替物として機能する。
クレイジーキルトとインフォーマル制度の共振
エフェクチュエーションの実践者は、このインフォーマルなネットワークを深く活用し、血縁や長期的な取引を通じた信頼に基づく強固な「クレイジーキルト」を構築する。信用調査機関が存在しない市場では、取引相手の信用力は公的データではなく**個人的な関係性と評判(reputation)**によってのみ評価される。エフェクチュアルな起業家は、このインフォーマルな信頼ネットワークをビジネスの基盤として積極的に活用し、法的な契約執行メカニズムの未整備という制度的空白を埋め合わせる(Laine & Galkina, 2017)。
この現象は、エフェクチュエーションが先進国のテクノロジー・スタートアップだけでなく、制度的に未成熟な環境における普遍的な起業行動の論理であることを示唆している。インフォーマル制度への依存は、フォーマル制度が欠如する環境におけるクレイジーキルトの原則の自然な発現形態と見なすことができる。
制度的空白の非均質性と文脈依存的な戦略選択
空白の深度と分布
制度的空白は均質に存在するのではなく、国、地域、産業セクターによってその深度と分布が大きく異なる(Khanna & Palepu, 2010)。同じ新興国であっても、都市部と農村部では空白の深度が異なり、ITセクターと農業セクターでは空白の種類が異なる。
この非均質性は、エフェクチュエーションの適用においても重要な含意を持つ。資本市場の空白が深刻な環境では許容可能な損失の原則がより強く作用し、製品市場の空白が深刻な環境ではクレイジーキルトによる信頼構築がより重要となる。NPS(非予測的戦略)は一律に適用されるのではなく、制度的空白の具体的な構成に応じて各原則の相対的重要度が変動する。
フォーマル制度との共進化
制度的空白は静的な状態ではなく、時間の経過とともにフォーマル制度の発達によって部分的に埋まっていくプロセスでもある。法整備が進み、市場仲介機関が発達するにつれて、エフェクチュエーション的なアプローチの相対的優位性は低下し、コーゼーション的なアプローチの有効性が増大する。Laine & Galkina(2017)が示したように、制度的文脈の変化に応じてエフェクチュエーションとコーゼーションを動的に切り替える**「両利きの経営(ambidexterity)」**が、新興国市場における最も適応的な戦略態度である。
制度的空白とエフェクチュエーションの理論的接点は、起業行動が真空の中で発生するのではなく、制度的文脈に深く埋め込まれた(embedded)行為であることを示している。予測が不可能な環境でこそ、手元の手段に基づく即座の行動、許容可能な損失の範囲内でのリスク管理、自己選択的なパートナーとの共創、そして偶発性の戦略的活用が、企業の生存と成長を支える最も合理的な論理となる。
関連記事として「アフリカの起業とエフェクチュエーション」、「エフェクチュエーションとは何か」も参照されたい。
参考文献
- Khanna, T., & Palepu, K. G. (1997). Why focused strategies may be wrong for emerging markets. Harvard Business Review, 75(4), 41–51.
- Khanna, T., & Palepu, K. G. (2010). Winning in Emerging Markets: A Road Map for Strategy and Execution. Harvard Business Press.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Laine, I., & Galkina, T. (2017). The interplay of effectuation and causation in decision making: Russian SMEs under institutional uncertainty. International Entrepreneurship and Management Journal, 13(3), 905–941.
- Welter, F., & Smallbone, D. (2011). Institutional perspectives on entrepreneurial behavior in challenging environments. Journal of Small Business Management, 49(1), 107–125.
- Karami, M., Wooliscroft, B., & McNeill, L. (2019). Effectuation and internationalisation: A review and agenda for future research. Small Business Economics, 55, 777–811.
- North, D. C. (1990). Institutions, Institutional Change and Economic Performance. Cambridge University Press.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.