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エフェクチュエーションと交渉術 — 不確実性下の合意形成

エフェクチュエーションの5原則を交渉プロセスに体系的に適用する。クレイジーキルトによる利害関係者の自己選択、許容可能な損失によるBATNA設計、レモネードによる予期せぬ展開の活用、フィッシャー&ユーリーとの統合的理解まで、不確実性下の合意形成を学術的に解説する。

約18分
目次

交渉論が前提とする「安定した世界」

Roger Fisher と William Ury が 1981 年に発表した Getting to Yes は、交渉研究の金字塔である。「人と問題を切り離せ」「立場ではなく利益に焦点を当てよ」「合意前に多様なオプションを生成せよ」「客観的な基準で評価せよ」——この4原則で構成される原則立脚型交渉(Principled Negotiation)は、今も世界中のビジネススクールで教えられている(Fisher, Ury & Patton, 2011, pp. 17–40)。

この理論の核心には BATNA(Best Alternative to a Negotiated Agreement) がある。交渉が決裂した場合の最良の代替案を事前に確定し、それを下回る条件の合意は拒否する。BATNAが強い側が交渉力を持つ、という論理は直観的に理解しやすく、多くの実務場面で有効に機能する。

しかし、この枠組みは一つの根本的な前提に立っている——「交渉の目標が明確であること」である。

新規事業の初期段階、市場がまだ存在しない段階、誰がステークホルダーになるかすら不明な段階では、この前提が崩れる。何を得たいかが分からない状態でBATNAは計算できない。誰の利益を探ればいいかが分からない状態で「利益ベースの交渉」は起動できない。

Sarasvathy & Botha(2022)が Negotiation Journal に発表した「Bringing People to the Table in New Ventures: An Effectual Approach」は、この問題に理論的な解を与えた。本稿は同論文を軸に、エフェクチュエーションの5原則を交渉プロセスに体系的に適用するフレームワークを構築する。

5原則×交渉プロセスのマッピング

エフェクチュエーションの5原則はそれぞれ、交渉の異なるフェーズで固有の役割を持つ。以下では各原則が交渉においてどのように機能するかを順に解析する。

原則1:手中の鳥(Bird in Hand)— 手段の開示から始める

手中の鳥の原則は「目標から逆算するのではなく、手持ちの手段から可能性を発散させる」という論理を持つ(Sarasvathy, 2008, pp. 15–16)。交渉の文脈では、この原則は「何を求めるか」ではなく「何を持っているか」を開示することで交渉を開始するという戦略に変換される。

伝統的な交渉では「自分の要求を先に提示し、相手の反応を見る」のが基本である。しかし、目標が不確定な局面でこれを行うと、起業家は存在しない目標を演じることになる。それは相手を誤誘導し、信頼関係の構築を阻害する。

エフェクチュアルな交渉者は逆の戦略を取る。自分のスキル・ネットワーク・知識・資源といった「手中の手段」を積極的に開示し、相手がそれに何を見出すかを観察する。Sarasvathy(2008)の言葉を借りれば、「布切れを見せる」行為である(p. 70)。この開示は相手の自己選択を促し、「この人(この事業)と一緒に何かをしたい」と感じる相手が浮かび上がる。

原則2:許容可能な損失(Affordable Loss)— BATNAの代替設計

交渉論において、BATNAは「交渉決裂時の最良の代替案」として機能する。しかし不確実性が高い局面ではBATNAの計算自体が困難である——比較できる代替案が存在しないからだ。

許容可能な損失の原則は、この問題への代替的な解答を提供する。「この交渉が決裂した場合に最良の代替案は何か」という問いではなく、「この交渉に費やすリソース(時間・資金・評判)を全額失っても、自分は生き残れるか」という問いに答えることが、不確実な交渉における心理的安全地帯の確保につながる(Dew et al., 2009, pp. 290–292)。

この発想の転換は、交渉行動に具体的な影響を与える。BATNAを計算できない状況では、交渉者は過度な依存関係に陥りやすい——「この合意が成立しなければ事業が終わる」という状況が、不利な条件での合意への圧力を生む。許容可能な損失の明確化は、この依存関係から交渉者を解放し、対等な立場での対話を可能にする。

Sarasvathy & Botha(2022)は、エフェクチュアルな交渉者が「Ask」象限——低予測・高制御——にいることを示した。ここでの「高制御」とは、相手をコントロールすることではなく、自分がコミットできる範囲をコントロールすることを意味する。許容可能な損失の認識は、このコントロールの源泉となる。

BATNAと許容可能な損失の統合的活用: これら二つは対立するものではない。交渉が成熟してBATNAが計算可能な段階では、伝統的な交渉論が有効になる。初期段階では許容可能な損失で心理的基盤を確保し、情報が蓄積されるにつれてBATNAへ移行する——この段階的な切り替えが実務的な統合のあり方である。

原則3:クレイジーキルト(Crazy Quilt)— 利害関係者の自己選択

クレイジーキルト原則は、エフェクチュエーションの5原則の中で交渉プロセスに最も直接的に対応する(Sarasvathy, 2008, pp. 67–82)。この原則の核心は「誰でも自発的にコミットメントしてくれる相手と関係を築く」という戦略にある。

伝統的な交渉論では「誰を交渉相手とすべきか」を先に設定し、ターゲットに向けてアプローチする。クレイジーキルト的な交渉では、この順序が逆転する。「誰が手を挙げるかを観察する」ことが出発点になるのだ。Sarasvathy(2008)がこれを「自己選択的ステークホルダー(self-selecting stakeholders)」と呼んだことは示唆的である(p. 70)。

なぜ自己選択が重要なのか。Fisher & Ury の枠組みで、説得によって参加させた相手は、状況が変化すると離脱しやすい。自らコミットメントを表明した相手は、その宣言に行動を合わせようとする心理的メカニズムが働く。Dutta & Packard(2024)はこれを「コミットメントの交換」として分析し、起業家が示すカリスマと信頼が自己選択を引き出す条件を形成すると論じた。

クレイジーキルト的交渉の重要な含意: 交渉のプロセスが目標そのものを変容させる(Sarasvathy, 2008, p. 75)。Fisher & Ury の枠組みでは目標は一定に保たれ、交渉はその目標に向けた手段である。クレイジーキルト的プロセスでは、新たなステークホルダーが持ち込むリソース・視点・ネットワークによって、事業のビジョンそのものが進化する。これは「失敗」ではなく、「学習」として位置づけられる。

原則4:レモネード(Lemonade)— 予期せぬ展開の積極的活用

レモネードの原則は「予期せぬ出来事を機会として積極活用する」という論理を持つ(Sarasvathy, 2008, pp. 24–26)。交渉の文脈では、この原則は特有の重みを持つ。なぜなら交渉は本質的に予期せぬ展開の連続だからである。

伝統的な交渉理論は、予期せぬ展開を「対処すべき問題」として扱う。BATNAの計算が狂う、相手の利益が事前の想定と異なる、第三者が介入する——これらは計画の修正を迫る「リスク」として捉えられる。

レモネード原則はこの発想を逆転させる。交渉中の予期せぬ展開は、新しい合意空間を発見するための情報である。相手が予想外の条件を提示した場合、その条件は相手が本当に重視しているものを示すシグナルである。第三者が突然参加した場合、その参加はネットワーク拡張の機会を示唆する。

Sarasvathy(2008)が熟達した起業家の特徴として示したのは、「意外な出来事を出発点の変更ではなく、出発点そのものとして活用する能力」であった(p. 26)。交渉においてこの能力は次のように具体化する。

「なぜその条件を提示したのか」という問い: 相手の予想外の要求を即座に拒否するのではなく、その要求が何を示しているかを探る。多くの場合、予想外の要求は「本当に必要なもの」の代替表現であり、そこに創造的な合意空間が隠れている。

第三者の予期せぬ参加の活用: 交渉に想定外の関係者が現れた場合、それをクレイジーキルト原則と組み合わせる。その人物のコミットメントが新たなリソースをもたらし、合意の質を変える可能性がある。

交渉の「失敗」をレモネードに変える: 合意が成立しなかった交渉は、必ずしも失敗ではない。その過程で得た情報——相手の優先順位、業界のダイナミクス、ネットワークの構造——は次の行動の手中の手段になる。

原則5:飛行機のパイロット(Pilot in the Plane)— 行動が相手を創出する

パイロットの原則は「予測への適応ではなく、行動で未来を創造する」という非予測的コントロールの論理を表現する(Sarasvathy, 2001, p. 251)。交渉への適用は直接的である。

伝統的な交渉論では「誰と交渉するか」は交渉の前段階で決定する。しかしパイロット原則から見ると、交渉相手は事前に特定されるのではなく、行動の結果として現れる。プロトタイプを公開する、勉強会に登壇する、SNS で自分の手中の手段を発信する——これらの行動が、自己選択的に反応してくる相手を生成する。Sarasvathy & Botha(2022)の「Ask」象限はこの「行動先行・相手後発」の構造を指している。

非予測的コントロールという概念は、交渉における「コントロール」の意味を根本から問い直す。飛行機のパイロットは気流を予測できないが、操縦桿を握ることで機体の行方をコントロールする。同様に、エフェクチュアルな交渉者は相手の出方を予測しようとするのではなく、自分がコントロールできること——開示する手段・投入するリソース・示すコミットメント——に集中する

フィッシャー&ユーリーとの統合的理解

対立ではなく補完

エフェクチュアルな交渉と Fisher & Ury の原則立脚型交渉は、対立するものではなく状況依存的に補完し合うものとして理解することが生産的である。

Sarasvathy(2008)が繰り返し強調したのは、エフェクチュエーションとコーゼーションが「相互排他的ではない」という点である(p. 17)。どちらのロジックも適切な状況では有効であり、熟達した起業家はその切り替えを状況に応じて行う。

交渉の文脈でこれを適用すると、以下の使い分けが導かれる。

状況適切なアプローチ
目標未確定・相手未確定の初期段階エフェクチュアル(手中の鳥・クレイジーキルト・許容可能な損失)
相手とのコミットメントが積み上がり、予測可能性が高まった段階原則立脚型交渉(BATNA・利益ベース・多様なオプション生成)
予期せぬ展開が生じた局面レモネード原則で再起動・パイロット原則で行動継続
合意の最終確定段階許容可能な損失による判断基準の適用

「Getting to Yes」の前に「Getting to the Table」

Sarasvathy & Botha(2022)の論文タイトルが示唆するように、エフェクチュエーションが解くのは「合意に至る方法」よりも前の問い——「どのようにテーブルに着かせるか」——である(p. 11)。

Fisher & Ury が「Getting to Yes」を論じるとき、双方はすでにテーブルに着いている。しかし新規事業の現場では、誰をテーブルに招くか、どのようにテーブルに着かせるか——この段階でつまずくことが多い。エフェクチュアルなアプローチは、この「Getting to the Table」の問いに答えることで、Fisher & Ury の「Getting to Yes」が機能する前提条件を整備する役割を担う。

二つの理論は、時系列的に連続した形で統合できる。エフェクチュエーションで始め、原則立脚型交渉で仕上げる——これが不確実性の高い環境での合意形成の現実的な設計である。

実務への3つの示唆

1. 交渉の開始を「手段の棚卸し」から設計する

「この交渉で何を得たいか」という問いを立てる前に、「自分が今持っているものは何か」を整理する。スキル・人脈・知識・時間・評判——これらの棚卸しが、エフェクチュアルな交渉の出発点となる。手中の鳥インベントリーを完成させてから交渉の場に臨むことで、「手中の手段を見せる」という戦略が具体的に実行できる。

2. 許容可能な損失を3軸で事前に設定する

Dew et al.(2009)の3軸フレームワーク——金銭的損失・時間的損失・評判の損失——を交渉の前に明文化する(p. 292)。「この交渉が成立しなかった場合に失う最大のものは何か、それは許容範囲内か」という問いへの答えが、交渉中の心理的安定の基盤になる。BATNAが計算できない段階では、この3軸の許容値が「心理的BATNA」として機能する。

3. 予期せぬ展開を「情報」として受け取る

交渉中に想定外の条件・参加者・展開が生じた場合、まず「これは何を意味するか」という問いを立てる。即座の拒絶や計画の放棄ではなく、レモネード原則の視点から「この展開が開く新しい可能性は何か」を探索する。多くの場合、予期せぬ展開は最終的な合意の質を高める素材になる。

結論——不確実性は排除できない、活用できる

Fisher & Ury が『Getting to Yes』で描いたのは、不確実性を最小化した交渉の世界である。情報を集め、利益を分析し、オプションを生成し、客観的基準で評価する——この過程はすべて、不確実性を減らすための作業である。

エフェクチュエーション理論が示す対極の立場は、不確実性は排除できないという認識である。Sarasvathy(2001)が言う「Knightian uncertainty(計測不能な不確実性)」は、より多くの情報収集によって解消できるものではない(p. 248)。それは交渉の場面でも変わらない。

しかし、不確実性は「対処すべき脅威」ではなく「共に構築できる可能性の空間」として捉え直すことができる。5原則の体系的な適用は、その捉え直しを具体的な行動に変換するための理論的道具立てである。


引用・参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Sarasvathy, S. D., & Botha, H. (2022). Bringing people to the table in new ventures: An effectual approach. Negotiation Journal, 38(1), 11–34.
  • Fisher, R., Ury, W., & Patton, B. (2011). Getting to Yes: Negotiating Agreement Without Giving In (3rd ed.). Penguin Books.
  • Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.
  • Dutta, T., & Packard, M. D. (2024). The needle of charisma and the threads of trust: Advancing effectuation theory’s crazy quilt principle. Journal of Business Venturing, 39(4). https://doi.org/10.1016/j.jbusvent.2024.106314
  • Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
  • サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.

参考書籍

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