目次
エフェクチュエーションの適用範囲を拡張する
エフェクチュエーション理論は、シリコンバレーのテクノロジースタートアップや先進国のビジネススクールの教室で語られることが多い。しかし、この理論の真価は、リソースが潤沢な環境よりも、むしろリソースが極端に欠乏し、制度的空白が存在し、不確実性が日常である環境においてこそ発揮される。
フランスに拠点を置くINSEADは、エフェクチュエーションの適用範囲を社会的起業(Social Entrepreneurship)とインパクト投資の領域へと拡張し、周縁化された地域における起業家的実践のモデルを構築してきた。その中核を担うのが、Hans H. Wahl Impact Entrepreneurship Programme(旧INSEAD Social Entrepreneurship Programme: ISEP)である。
Santos教授の集合的行動論
起業家精神を個人から集団へ再定義する
INSEADにおけるエフェクチュエーションの教育的実装を理解するためには、Filipe Santos教授の学術的アプローチを把握する必要がある。Santos教授のアプローチの核心は、起業家精神を個人の英雄的な特性としてではなく、**「集合的行動(Collective action)」**として捉え直す点にある。
従来の起業家教育は、「天才的なビジョナリー」や「リスクを恐れない個人」としての起業家像を前提としてきた。しかしSantos教授は、特に社会課題の解決においては、個人の能力よりも、多様なステークホルダーが協働して変化を生み出す集合的なプロセスが重要であることを理論的に主張している。
この集合的行動論は、エフェクチュエーションの「クレイジーキルト」原則——競合との競争ではなく、多様なステークホルダーとの事前コミットメントの獲得を通じて資源と機会を共創する——と理論的に深く共鳴する。社会課題の解決においては、ビジネスの世界以上に、地域コミュニティ、NGO、政府機関、国際機関、住民といった多様なアクターとの協働が不可欠であり、クレイジーキルト原則は社会的起業の文脈で一層の重要性を帯びる。
マネージャー層への起業家的推論の移植
INSEADの教育プログラムの特徴として見逃せないのが、教育対象が純粋な起業家だけでなく、将来起業家を支援・管理する立場になるマネージャー層にも及んでいる点である。受講生の約半数がこのマネージャー層に相当するとされている。
彼らに対して、起業家特有の「非予測的で発散的な推論プロセス(エフェクチュエーション)」を理解させ、企業や組織の意思決定プロセスにその論理を組み込ませることが、プログラムの重要な目的として位置付けられている。これは、エフェクチュエーション教育が起業家の育成にとどまらず、組織全体の意思決定の質を向上させるツールとして活用されうることを示す好例である。
マネージャーがエフェクチュエーションの論理を理解することで、起業家的なチームメンバーの「計画に基づかない」行動を「無秩序」と見なすのではなく、「不確実性への適応的対処」として正当に評価できるようになる。この認知の転換は、組織内のイノベーションを促進する上で極めて重要な要素である。
Ruwwad Al-Tanmeya事例:紛争地域でのエフェクチュエーション
レバノン・トリポリの宗派間紛争
INSEADのImpact Entrepreneurship Programmeで分析される代表的なケーススタディが、レバノン、ヨルダン、パレスチナで活動するNPO**「Ruwwad Al-Tanmeya」**の事例である。Fadi Ghandourらによって設立され、INSEAD卒業生のSarah Al Charifがレバノンで主導するこのプロジェクトは、エフェクチュエーションの原則が最も過酷な環境でいかに機能するかを生々しく示している。
レバノンのトリポリにおけるJabal MuhsenとBab El-Tebbanehという二つの地域は、長年にわたり宗派間の紛争が続く社会的に分断された地域である。暴力、貧困、相互不信が支配するこの環境は、従来の因果論的アプローチ——市場分析、資源調達、事業計画の実行——がほぼ完全に機能しない「極度の不確実性」の環境である。
治安情勢は予測不能であり、住民間の信頼関係は破壊されており、外部からのリソース投下はしばしば地域間の対立を激化させる。このような環境で「5年間の事業計画を策定せよ」と求めることは、まったく意味をなさない。
ボトムアップ型エフェクチュエーションの実践
Ruwwadがトリポリで採用したアプローチは、エフェクチュエーションの原則を体現するものであった。
手中の鳥からの出発。 Ruwwadは外部から大量のリソースを投入するトップダウン型の開発モデルではなく、地域コミュニティ内に既に存在する資源——住民の知識と技能、既存の社会的ネットワーク、地域の文化的伝統——を起点とした。地域の若者への教育プログラムを通じて、彼ら自身が「自分は何者で、何ができるか」を認識する支援を行い、コミュニティの内部から変化の主体を育成した。
クレイジーキルトの構築。 紛争地域における最大の課題は、対立するコミュニティ間の信頼構築である。Ruwwadは、宗派の垣根を超えたステークホルダーとの対話と協働を通じて、少しずつ事前コミットメントのネットワークを拡大していった。この過程は、ビジネスにおけるパートナーシップ構築とは質的に異なる困難さを伴う。相互に敵意を持つコミュニティのメンバーを「同じテーブルに着かせる」ことは、市場での競合との交渉よりもはるかに高度な社会的スキルと忍耐力を要する。
レモネード原則の適用。 紛争地域では予期せぬ事態が日常である。治安悪化、政治的変動、住民の反発——これらの「サプライズ」に対して、計画の修正ではなく、それ自体を新たな関係構築の機会として活用するアプローチが採られた。
Atayeb Trablos:コミュニティキッチンの力
Ruwwadの活動の中で特に注目される具体的事例が、コミュニティキッチン**「Atayeb Trablos(トリポリの美味)」**である。このプロジェクトは、対立する二つの地域の女性たちが共同で料理を作り、販売するという取り組みであった。
「食」という普遍的な文化的実践が、宗派間の壁を超えるための手段として活用されたのである。女性たちは料理という「手中の鳥」——長年培ってきた家庭料理の技能——を起点に、地域の外の顧客に向けて製品を提供した。この過程で、対立するコミュニティの女性たちが「共同の経済活動のパートナー」として関係を構築し、宗派間の分断を日常的なレベルで乗り越えていった。
Atayeb Trablosは、エフェクチュエーションの原則が社会課題の解決においていかに強力な力を発揮するかを示す象徴的な事例である。壮大な平和構築計画や大規模な開発援助ではなく、地域の女性たちの手持ちの技能(手中の鳥)と、小さな経済的協働(クレイジーキルト)と、失っても生活が破綻しない範囲での活動(許容可能な損失)が、紛争地域に社会的結束をもたらしたのである。
INSEADのケースメソッドの世界的影響力
50年間のベストセラーケーストップ50
INSEADは、ケースメソッドの世界的権威としても知られている。The Case Centreが選出する過去50年間のベストセラーケーストップ50のうち、14ケースがINSEAD発である。この圧倒的な影響力は、INSEADが開発するケーススタディが世界中のビジネススクールで教材として使用されていることを意味する。
Ruwwad Al-Tanmeyaのケーススタディもこの文脈に位置づけられる。INSEADが開発した社会的起業のケースは、ダーデン校やバブソン・カレッジとは異なる「リソース欠乏環境でのエフェクチュエーション」という視角を、世界の起業家教育に提供している。先進国のビジネススクールの学生が、紛争地域のコミュニティキッチンの事例を通じてエフェクチュエーションの原則を学ぶ——このクロスコンテクストの学習体験は、理論の普遍性を体感させる上で極めて効果的である。
社会的起業におけるエフェクチュエーションの理論的含意
リソース欠乏環境との親和性
メタ分析の知見——エフェクチュエーションの効果は新興国市場で特に顕著である(The Effectiveness of Effectuation, IJEBR, 2021)——は、INSEADの社会的起業プログラムの方向性を学術的に裏付けている。リソースが欠乏し、制度的インフラが未整備で、不確実性が極度に高い環境は、精緻な事前計画に基づく因果論的アプローチが最も機能しにくい環境であると同時に、手持ちの資源からの出発とステークホルダーとの協働を核とするエフェクチュエーションが最も効果を発揮する環境でもある。
価値創造の再定義
社会的起業の文脈でエフェクチュエーションを適用することは、「価値創造」の概念そのものの再定義を促す。従来のエフェクチュエーション研究が主に経済的価値の創造——新製品、新市場、新ビジネスモデル——に焦点を当ててきたのに対し、INSEADの社会的起業プログラムは、社会的結束、コミュニティのレジリエンス、世代間の知識移転、紛争の緩和といった社会的価値の創造にエフェクチュエーションの適用範囲を拡張している。
手中の鳥から出発するということは、経済的資源だけでなく、文化的伝統、社会的ネットワーク、共有された歴史的経験といった非経済的資源も「鳥」として認識し、活用することを意味する。Atayeb Trablosにおける「料理の技能」は、経済的価値(売上)と社会的価値(コミュニティの結束)の双方を同時に生み出す手中の鳥であった。
エフェクチュエーション教育の民主化
INSEADの取り組みが示すもう一つの含意は、エフェクチュエーション教育の民主化の可能性である。Ruwwadの事例は、紛争地域の若者やコミュニティの女性たちもまた、エフェクチュエーションの原則を実践的に適用できることを示している。「手中の鳥から出発する」という原則はMBAの学位を前提としない。すべての人が「何者かであり、何かを知っており、誰かを知っている」。この普遍的な出発点が、教育を社会全体へと拡張する基盤となりうる。
周縁から中心を照射する
INSEADの社会的起業プログラムは、エフェクチュエーション理論の適用範囲を先進国のビジネスコンテクストから、紛争地域や周縁化されたコミュニティへと大胆に拡張した。Santos教授の集合的行動論、Ruwwadのボトムアップ型実践、Atayeb Trablosのコミュニティキッチン——これらの事例は、エフェクチュエーションの原則が最も過酷な環境においてこそ、最も鮮やかに機能することを示している。
周縁地域の事例から学ぶことは、実は中心——先進国のビジネスの世界——にとっても深い示唆を含んでいる。リソースが潤沢な環境では見落としがちな「手中の鳥」の真の価値、安全な環境では実感しにくい「許容可能な損失」の切実さ、利害が整合的な場面では見えにくい「クレイジーキルト」構築の困難さ——周縁の事例はこれらの原則の本質を、剥き出しの形で照射するのである。
関連記事として「エフェクチュエーション教育」、「コンパッション起業とエフェクチュエーション」も参照されたい。
参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Santos, F. M. (2012). A Positive Theory of Social Entrepreneurship. Journal of Business Ethics, 111(3), 335–351.
- Impact Entrepreneurship in Action: Ruwwad Al Tanmeya – Lebanon Case Study. INSEAD Hoffmann Institute.
- How Important Is Education to Entrepreneurial Development? INSEAD Knowledge.
- From Classrooms to Communities: INSEAD’s Story of Impact Entrepreneurship. United Nations.
- 14 INSEAD Case Studies Recognised as The Case Centre Best-sellers Worldwide over Past 50 Years. INSEAD Publishing.
- The Effectiveness of Effectuation: A Meta-Analysis on Contextual Factors. International Journal of Entrepreneurial Behavior & Research, 2021.