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急成長と制度的空白が共存するASEAN市場
東南アジア(ASEAN)は、6億人を超える人口と急速な経済成長、若年層の巨大なデジタルネイティブ世代を抱え、世界で最もダイナミックなデジタルトランスフォーメーション(DX)が進行する地域の一つである。しかしその急成長の裏側では、法規制の不透明性、未発達な物流インフラ、高度IT人材の不足、知的財産保護の脆弱さといった**制度的空白(Institutional Voids)**がモザイク状に混在している(Khanna & Palepu, 2010)。
この地域の特異性は、**先進国型の成熟した制度と途上国型の制度的空白が同一の市場内に併存する「ハイブリッドな制度環境」**にある。インドネシアのジャカルタやベトナムのホーチミンでは、グローバルなテクノロジー企業が活発に投資を行う一方、同じ国の地方部ではインターネット接続さえ不安定であり、基本的な金融サービスへのアクセスが制限されている。本稿では、このハイブリッドな制度環境における起業家の行動をエフェクチュエーションの視座から分析する。
デジタル・ディバイド——ASEAN圏の不均質な収束
Sigma/Beta convergenceの欠如
東南アジアのイノベーションと制度的空白に関するマクロな研究は、固定ブロードバンドの普及率やインターネット利用率に見られる国間および国内の深刻なデジタル格差(Digital divide)を指摘している。経済学における収束(convergence)理論では、後発国が先進国の技術を取り込むことで差が縮まるというBeta convergenceと、国間のばらつきそのものが縮小するSigma convergenceが想定される。しかし東南アジアのデジタル・インフラにおいては、この両方の収束が欠如しているとの実証結果が報告されている(Open Research Europe, 2025)。
シンガポールやマレーシアのKuala Lumpurが高度なデジタル・インフラを整備する一方で、カンボジア、ラオス、ミャンマーの農村部では基本的な通信インフラの整備が進んでいない。さらに、インドネシアやフィリピンのような島嶼国家では、首都圏と外縁部の格差が地理的要因によって構造的に固定化されている。
デジタル・ディバイドが生む二重の不確実性
デジタル起業家にとって、このデジタル・ディバイドは二重の不確実性を生む。第一に、サービスの潜在的なユーザーベースの規模と質が市場ごとに大きく異なるため、事前の市場規模予測が困難である。第二に、デジタル・インフラの整備が今後どのようなペースで進むかが政治的・経済的要因に左右され、予測不可能である。コーゼーション的なアプローチ(精緻な市場分析→最適戦略の策定)は、この二重の不確実性の前で有効性を失う。
Grabエコシステムへの参入——制度的空白の迂回戦略
スーパーアプリが提供する「制度的インフラ」
東南アジアにおけるデジタル起業の最も特徴的なパターンの一つが、現地の**スーパーアプリ(Super App)**のエコシステムを活用した制度的空白の迂回である。シンガポール発のGrabは、配車サービスから決済・フードデリバリー・物流・金融へと事業を拡張し、東南アジア全域にまたがる巨大エコシステムを構築した。
制度的空白の文脈でGrabが果たす役割は、市場の仲介機関の代替である。決済の信頼性(資本市場の空白)、物流網(製品市場の空白)、サービス提供者の信用評価(労働市場の空白)という三重の制度的インフラを私的に提供している。
エフェクチュアルな参入判断
東南アジアで急成長したスタートアップや外資系企業の多くが、Grabの巨大なエコシステムと早期に提携する選択をしている。この判断はエフェクチュエーションの複数の原則から説明できる。
手中の鳥の原則——Grabという確立された信頼ネットワークは、進出企業にとっての利用可能な手段である。許容可能な損失の原則——決済・物流インフラをゼロから構築するコストは多くのスタートアップにとって許容不可能であり、Grabへの参入はこの損失を回避する一手である。クレイジーキルトの原則——GrabのAPIやパートナープログラムを通じて、自己選択的にエコシステムの一員となる。
Spotifyのインドネシア・フィリピン展開——レモネードとクレイジーキルトの応用
金融市場の制度的空白への対応
Spotifyがインドネシアやフィリピンに進出した際に直面した最大の制度的空白は、クレジットカード普及率の極端な低さであった。インドネシアのクレジットカード保有率は人口の数パーセントに過ぎず、Spotifyの先進国モデル(クレジットカードによるサブスクリプション課金)はそのまま適用できない。
Spotifyはこの制度的空白に対してレモネードの原則を適用し、先進国のビジネスモデルに固執せず現地の利用可能な決済手段を柔軟に取り込んだ。
具体的には、インドネシアではDoku Wallet(現地の電子マネーサービス)やコンビニエンスストアでの現金払い、フィリピンではプリペイドカードを決済手段として導入した。さらに、Indosat(インドネシアの通信キャリア)と提携し、データ通信使い放題パッケージにSpotifyを組み込むバンドル提供を実現した。通信キャリアにとっては顧客のARPU(一人当たり収益)向上の手段となり、Spotifyにとってはクレジットカードを持たないユーザーへのリーチ拡大となる——クレイジーキルトの原則による双方にとっての価値共創である。
Fresh Studioの事例——イノベーション仲介者としてのエフェクチュエーション
知的財産保護の制度的空白
ベトナムの農業セクターは、東南アジアにおける制度的空白とエフェクチュエーションの交差を示す興味深い事例を提供する。ベトナムの現地研究機関は、欧州の最新かつ高収量なジャガイモ保護品種にアクセスすることを望んでいた。しかし、知的財産保護法制の未整備(制度的空白)が障壁となり、欧州の品種開発企業はベトナムへの品種供与に対してリスクを感じ、提供を拒否していた(Utrecht University, 2019)。
Fresh Studioのエフェクチュアルな仲介
この制度的空白を克服したのが、オランダを拠点とするコンサルティング企業Fresh Studioである。Fresh Studioの行動をエフェクチュエーション理論で分析すると、以下のメカニズムが浮かび上がる。
手中の鳥——Fresh Studioは、自らが持つ欧州の農業研究機関および品種開発企業との長年のネットワーク(Whom I know)と、東南アジアの農業市場に関する専門知識(What I know)を最大限に活用した。
クレイジーキルト——Fresh Studioは自己選択的に参集した多様なステークホルダーを結びつけるハブとなった。欧州の品種開発企業、ベトナムの現地農家、現地の肥料・農薬会社、多国籍加工企業(PepsiCoなど)を一つのエコシステムに統合した。
パイロットの原則——知的財産保護法制の不備という外部環境の変化を待つのではなく、自らが信頼できる仲介者(Innovation intermediary)として両者の間に立つことで、制度的空白を自らの行動でコントロールした。
制度的空白のもとでの「信頼の代替」
Fresh Studioの事例が示す重要な知見は、制度的空白の存在する市場では、フォーマルな制度(知的財産保護法)が果たすべき「信頼保証」の機能を、特定の組織の信用力(reputation)が代替しうるという点である。欧州の品種開発企業がベトナム市場に直接参入することは制度的リスクが高すぎるが、信頼できるFresh Studioが仲介者として品種の管理と利益分配を保証することで、取引が成立する。
この構造は、エフェクチュエーションのクレイジーキルトが制度的仲介機関の代替物として機能する事例であり、Khanna & Palepu(2010)が提示した「制度的空白を埋めるビジネスモデル」の具体的な発現形態として理論的に位置づけることができる。
東南アジアが示すエフェクチュエーションの適用条件
制度的空白の「迂回」という戦略パターン
東南アジアの事例から抽出される戦略パターンは、制度的空白の「克服」ではなく**「迂回(Bypass)」である。Grabや Fresh Studioを活用して空白の周囲を巧みに迂回する。コントロール不可能な要素に依存せず、コントロール可能な要素に注力するパイロットの原則の適用**にほかならない。
ハイブリッド環境における論理の使い分け
東南アジアのハイブリッドな制度環境は、エフェクチュエーションとコーゼーションの文脈依存的な使い分けを要求する。シンガポールのような制度が成熟した環境では、データに基づくコーゼーション的な市場分析が有効に機能する。一方、カンボジアの農村部のような制度的空白が深刻な環境では、エフェクチュエーションの非予測的戦略が不可欠となる。同じ企業が同じ東南アジア市場の中で、進出先の制度的文脈に応じて二つの論理を柔軟に切り替える能力——「両利きの経営(ambidexterity)」——が、この地域での持続的な成長の鍵となる(Laine & Galkina, 2017)。
関連記事として「エフェクチュエーションを実務で活かす」、「制度的空白とエフェクチュエーション」も参照されたい。
参考文献
- Khanna, T., & Palepu, K. G. (2010). Winning in Emerging Markets: A Road Map for Strategy and Execution. Harvard Business Press.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Laine, I., & Galkina, T. (2017). The interplay of effectuation and causation in decision making: Russian SMEs under institutional uncertainty. International Entrepreneurship and Management Journal, 13(3), 905–941.
- Open Research Europe (2025). Bridging the Digital Divide in ASEAN: Insights from Vietnam, Philippines, Laos, Cambodia, and Indonesia. Open Research Europe, 5, 220.
- Utrecht University (2019). Inclusive innovation systems: The role of innovation intermediaries in emerging markets. Utrecht University Student Theses Repository.
- Karami, M., Wooliscroft, B., & McNeill, L. (2019). Effectuation and internationalisation: A review and agenda for future research. Small Business Economics, 55, 777–811.
- OneSky (2023). 9 International Growth Strategies from Spotify. OneSky Blog.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.