目次
ないとてきふかくじつせいとえふぇくちゅえーしょん
「分からない」の構造から始める
「不確実性が高い」という言葉は、二種類のまったく異なる状態を混同している場合が多い。
一つは確率で測れる不確実性——コインの表裏、サイコロの目、保険の死亡率。過去のデータまたは確立した理論から確率分布を推定でき、期待値計算が成立する。
もう一つは確率で測れない不確実性——前例のない技術革新の帰結、まだ存在しない市場の規模、新しいビジネスモデルが社会に受け入れられるかどうか。確率分布の推定根拠自体が存在せず、期待値計算の計算式が成立しない。
Frank H. Knight(1921)は『Risk, Uncertainty and Profit』においてこの二者を厳密に峻別し、前者を「リスク(Risk)」、後者を「真の不確実性(True Uncertainty)」と定義した。後者は今日「ナイト的不確実性(Knightian Uncertainty)」と呼ばれる。
“Uncertainty must be taken in a sense radically distinct from the familiar notion of Risk, from which it has never been properly separated. […] The essential fact is that ‘risk’ means in some cases a quantity susceptible of measurement, while at other times it is something distinctly not of this character.”
— Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin, p. 19.
この峻別は、Sarasvathy(2001, 2008)がエフェクチュエーション理論を構築する際の認識論的基盤として明示的に採用された。エフェクチュエーション理論は、ナイト的不確実性の領域における合理的行動とは何かを問う理論として構築されている。
Knight 1921:リスクと真の不確実性の峻別
リスク:確率が測れる不知
Knightはリスクを二種類に分けている。客観的確率(賽の目のように先験的に計算できる確率)と統計的確率(保険数理のように過去データから推定できる確率)だ(Knight, 1921, p. 19)。いずれも「計算できる確率」という点で共通する。
リスクの領域では、期待値の計算が可能であり、分散によるリスク評価が成立する。保険を買い・オプションを売り・分散投資をするという行動は、すべてリスクの数値化を前提とする。
真の不確実性:確率が存在しない不知
これに対してKnightが「真の不確実性」と呼んだのは、確率分布そのものを構成できない状態である。
“But Uncertainty proper, as distinguished from Risk, relates not so much to the incalculability of the probability of a result as to the fact that we cannot assign a probability at all.”
— Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin, p. 46.
なぜ確率が計算できないか。同種の事例が存在しない、または事例の性質が本質的に固有(unique)であるからだ(Knight, 1921, p. 46)。新製品が市場に受け入れられるかどうかは、「同じ状況での類似の過去事例の頻度」を参照できない。市場も技術も社会的文脈も、そのたびに異なる。
この「本質的固有性(uniqueness)」こそが、起業的状況に真の不確実性が遍在する理由だ。
Keynesの「アニマル・スピリット」との関係
Knightと同時代のJohn Maynard Keynesも、確率で測れない不確実性の問題を独自の観点から論じた。
Keynesは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)において、長期的な期待に依存する投資行動が「厳密な確率計算」ではなく「アニマル・スピリット(animal spirits)」——自発的に行動する積極的衝動——に支えられていると論じた。
“Most, probably, of our decisions to do something positive, the full consequences of which will be drawn out over many days to come, can only be taken as a result of animal spirits—of a spontaneous urge to action rather than inaction.”
— Keynes, J. M. (1936). The General Theory of Employment, Interest and Money. Macmillan, p. 161.
Keynesのアニマル・スピリットは「確率計算が機能しない状況での行動根拠」として提示されている。ただし、それは「直感・衝動に任せる」という非合理性の肯定ではない。計算根拠が存在しない状況での「積極的に行動すること自体」の合理性の主張だ。
エフェクチュエーション理論はこの問いをさらに進める。Sarasvathy(2008)は「不確実性の下でどう行動するか」を「自発的な衝動に委ねる(Keynes)」でも「より精緻な予測に努力する(コーゼーション)」でもなく、「制御できることに集中することで未来を形成する(飛行機のパイロット原則)」という第三の答えとして提示した(pp. 89–100)。
ナイトとKeynesが「計算できない不確実性の存在」を指摘したのに対し、Sarasvathyは「その不確実性の下での具体的な行動原理」を構築した点に理論的貢献がある。
エフェクチュエーション理論への接続
認識論的基盤としての採用
Sarasvathy(2001)は、エフェクチュエーション理論の出発点として次のように述べている。
“Knightian uncertainty […] is the kind of uncertainty that pervades the startup of firms and the creation of new markets.”
— Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation. Academy of Management Review, 26(2), p. 245.
起業的状況に遍在する不確実性はリスクではなくナイト的不確実性であり、したがって期待リターン計算を基盤とするコーゼーション的アプローチは根本的な適用条件を欠く。——これがエフェクチュエーション理論の出発点の診断だ。
Sarasvathy(2008)はこの診断をさらに精緻化し、ナイト的不確実性が高い領域では「予測して適応する」戦略ではなく「制御できることに集中して未来を形成する」戦略が合理的であると論じた(p. 77)。
なぜ許容可能な損失がナイト的不確実性の解答なのか
ナイト的不確実性の下で期待リターン計算が機能しないとき、許容可能な損失(Affordable Loss)原則がその代替的意思決定基準として機能する。
Knightが指摘したのは「リターン上限の計算不可能性」だ。起業家がある事業に投資するとき、その成功確率と期待リターンは計算できない。しかし、投資した場合に失う金額の上限は計算できる。計算できない上限(リターン)ではなく、確実に把握できる下限(損失)を基準にするという転換が、ナイト的不確実性下での合理的行動を可能にする(Dew et al., 2009, p. 107)。
Sarasvathy(2008)はこの論理を5原則の一つとして体系化した(pp. 35–50)。期待リターン最大化の代わりに許容可能な損失の設定を意思決定基準とすることで、「計算根拠がないから動けない」という麻痺を回避する。
なぜクレイジーキルトがナイト的不確実性に対処するのか
ナイト的不確実性は「固有の状況であるため確率が計算できない」という性質を持つ。しかし、ステークホルダーとのコミットメントを形成することで、その「固有の状況」を共同で構成するプロセスに転換できる。
クレイジーキルト(Crazy Quilt)原則——自発的にコミットするステークホルダーを集め、その資源と関心を統合してゴールを共形成する——は、ナイト的不確実性を「解消」しようとするのではなく、不確実性の構造そのものを参加者との共同行為によって形成可能なものに変えるという戦略だ(Sarasvathy, 2008, pp. 55–68)。
Knight(1921)の分析において、「固有性(uniqueness)」が不確実性の原因だった。クレイジーキルトは、多様なステークホルダーのコミットメントを集めることで「固有の状況の構成に参加する当事者の数」を増やし、「誰もが外部から予測できない状況」を「参加者が共同で形成する状況」に転換する。
飛行機のパイロット原則はKnightへの直接的応答
Sarasvathy(2008)の飛行機のパイロット原則——「未来を予測しようとするのではなく、制御できる行動に集中することで未来を形成する」——は、Knightが指摘した真の不確実性に対する最も直接的な応答だ(pp. 89–100)。
Knightは「真の不確実性の下では、期待値計算という合理的意思決定ツールが機能しない」と診断した。飛行機のパイロット原則はこの診断を受けて、「では計算できない状況で合理的に行動するとはどういうことか」に答える。それは「予測の精度を高める努力をやめ、制御できる変数(自分の行動・ステークホルダーとの関係・許容損失の範囲)に集中し、行動を通じて未来を形成すること」だ。
既存用語との差別化:この記事の位置づけ
本サイトには「ナイトの不確実性」(knightian-uncertainty.mdx)という基本的な概念解説記事と、「不確実性の種類」(uncertainty-types.md)という分類的な解説記事が存在する。
本記事はこれらとは異なる視点を提供する。Knight(1921)の概念がどのようにしてSarasvathy(2001, 2008)の理論構築の認識論的基盤となったか——その思想史的接続と、5原則への具体的な理論的含意——を掘り下げることが本稿の目的だ。
「ナイト的不確実性とは何か」(定義)ではなく、「ナイト的不確実性があるからこそエフェクチュエーションの各原則はなぜその形をしているのか」(理論的必然性)を問う。
実務的含意:不確実性の種類の診断が先
ナイト的不確実性とリスクの峻別は、今自分が直面している状況の診断として実践的意味を持つ。
「今の不確実性はリスクか、ナイト的不確実性か」という問いに答えることが、適切な意思決定フレームの選択を可能にする。
リスクの領域なら:より精緻な市場調査、競合分析、財務モデリングが有効だ。確率の推定精度を高めることに投資する意味がある。
ナイト的不確実性の領域なら:調査を増やしても確率は計算できない。代わりに、今持っている手段を起点に(手中の鳥)、失っても許容できる範囲で動き(許容可能な損失)、ステークホルダーのコミットメントを集めながら(クレイジーキルト)、予期せぬ出来事を活用し(レモネード)、制御できる行動に集中する(飛行機のパイロット)。
Knight(1921)が「真の不確実性」を概念化した動機は、それが「ビジネスの利益の源泉」であるという洞察にあった(p. 232)。測定不可能だからこそ、それを扱える者が差別化できる。Sarasvathy(2008)が熟達起業家の認知研究から導いたエフェクチュエーション理論は、その「扱い方」の体系化だ。
引用・参考文献
- Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
- Keynes, J. M. (1936). The General Theory of Employment, Interest and Money. Macmillan.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., Wiltbank, R., & Ohlsson, A.-V. (2011). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.