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ないとのふかくじつせい
「リスク」と「不確実性」を同じものだと思っていないか
ビジネスの現場では「リスク」と「不確実性」という言葉がほぼ同義語として使われることが多い。「この事業にはリスクがある」「不確実性が高い市場だ」という表現は、どちらも「うまくいかないかもしれない」という漠然とした懸念を指していることがほとんどである。しかし経済学の世界では、この2つの概念は本質的にまったく異なるものとして厳密に区別されている。この区別を初めて体系的に論じたのが、シカゴ大学の経済学者 Frank H. Knight であり、彼の著書 Risk, Uncertainty and Profit(1921)はエフェクチュエーション理論の知的基盤の一つとなっている(Knight, 1921; Sarasvathy, 2001, p. 243)。
リスクと不確実性——Knight による根本的な区別
Knight(1921)は、将来の出来事に関する不完全な知識を2つのカテゴリーに分類した。
リスク(Risk)——確率が計算可能な状況
リスクとは、起こりうる結果のパターンと、各結果が発生する確率が既知である、あるいは合理的に推定可能な状況を指す(Knight, 1921, pp. 19–20)。たとえば、サイコロを振って1が出る確率は6分の1である。生命保険会社は、大規模な死亡統計に基づいて年齢別の死亡確率を計算し、保険料を設定できる。株式市場においても、過去の価格変動データに基づいてボラティリティを測定し、リスクを数値化することが可能である。
リスクの世界では、確率論と統計学が強力なツールとなる。期待値を計算し、分散でリスクを測り、ポートフォリオ理論に基づいてリスクとリターンの最適なバランスを求めることができる。MBA で教えられる財務理論やマーケティングリサーチの手法の多くは、この「リスク」の領域で機能するように設計されている。
不確実性(Uncertainty)——確率が計算不可能な状況
これに対して Knight が「真の不確実性(True Uncertainty)」と呼んだのは、起こりうる結果のパターンすら分からず、当然ながら各結果の発生確率も推定できない状況である(Knight, 1921, pp. 20–21)。この種の不確実性は、前例のない状況、まったく新しい市場の創造、革新的な技術の登場など、過去のデータが参照できない場面で生じる。
Knight の言葉を借りれば、リスクは「測定可能な不確実性(measurable uncertainty)」であり、真の不確実性は「測定不可能な不確実性(unmeasurable uncertainty)」である(Knight, 1921, p. 20)。この区別は単なる言葉遊びではなく、意思決定の方法論に根本的な違いをもたらす。
なぜ Knight の区別がエフェクチュエーションにとって重要なのか
Sarasvathy(2001)は、コーゼーション(因果論的アプローチ)とエフェクチュエーション(実効論的アプローチ)の適用範囲を Knight の区別に基づいて明確に分けた(Sarasvathy, 2001, p. 243)。
リスクの領域——コーゼーションが有効: 確率分布が既知の状況では、期待リターンを最大化するコーゼーション的アプローチが合理的である。市場調査によって需要を推定し、競合分析に基づいて戦略を立て、財務モデルで収益性を検証する。この一連のプロセスは、リスクが計算可能であることを前提としている。
不確実性の領域——エフェクチュエーションが必要: 確率分布が未知の状況では、期待リターンの計算そのものが不可能であるため、コーゼーション的アプローチが機能しない。Sarasvathy は、この領域においてこそエフェクチュエーションが威力を発揮すると論じた。手中の鳥の原則で手持ちの手段から出発し、許容可能な損失の範囲で行動し、レモネードの原則で予期せぬ出来事を活用し、クレイジーキルトの原則でパートナーとの協力を通じて、飛行機のパイロットの原則で未来を能動的に創造する。これらの原則はいずれも、確率計算に依拠しない意思決定方法である(Sarasvathy, 2008, pp. 15–90)。
Knight の区別を巡る現代的な議論
Knight の「リスクと不確実性の区別」は100年以上前に提唱されたものであるが、その意義は現代においてますます高まっている。Packard et al.(2017)は、起業家研究における不確実性の概念を再検討し、Knight の区別が起業家の意思決定メカニズムを理解する上で不可欠であることを確認した(Packard et al., 2017, pp. 843–845)。特にデジタルトランスフォーメーション、AI の台頭、パンデミックのような事象は、過去のデータからの予測が原理的に困難な「真の不確実性」の領域を拡大させている。
Knight の区別を実務に活かす3つのステップ
- 直面している状況がリスクか不確実性かを判断する: 「過去のデータに基づいて確率を推定できるか」を自問する。できるならリスク、できないなら不確実性である。この判断が、適切なアプローチの選択に直結する
- 不確実性の領域で予測ツールを使う誘惑に抗う: 真の不確実性に直面しているにもかかわらず、スプレッドシート上に「根拠のない数字」を並べて安心感を得ようとする衝動は強い。しかしそれは偽りの確実性であり、意思決定の質を向上させない
- 不確実性の領域ではエフェクチュエーション的に行動する: 予測できないなら予測しない。その代わりに、コントロール可能な行動を通じて情報を獲得し、状況を形成していく。これが Knight の不確実性に対する実践的な処方箋である
この概念が特に有効な人
- 新規事業の企画書で「市場規模」の数字に確信が持てないと感じている事業開発担当者
- 投資判断において「予測可能な案件」と「予測不可能な案件」を区別したい投資家やVC
- 意思決定理論やリスクマネジメントを学んでいる大学院生・研究者
- VUCA 時代の経営に対する理論的な理解を深めたい経営者
- エフェクチュエーション理論の知的背景を体系的に理解したい実務家
今抱えている課題は「リスク」か「不確実性」か、問い直してみよう
今取り組んでいるプロジェクトについて、「これはリスクなのか、不確実性なのか」という問いを立ててみることを勧める。もし確率を合理的に推定できるなら、従来のフレームワークで十分である。しかし「確率すら分からない」と感じるなら、それは Knight が定義した真の不確実性に直面しているということであり、エフェクチュエーション的なアプローチに切り替えるべき合図なのである。
引用・参考文献
- Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Packard, M. D., Clark, B. B., & Klein, P. G. (2017). Uncertainty types and transitions in the entrepreneurial process. Organization Science, 28(5), 840–856.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.