基本原則 | 書籍 NEW

許容可能な損失 vs 期待リターン——2つの投資判断ロジックの本質的違い

エフェクチュエーションの許容可能な損失原則と、伝統的な期待リターン最大化アプローチの違いを理論的・実践的に比較。Knight的不確実性下での投資判断のあり方を論じる。

約8分
目次

「いくら儲かるか」で判断するか、「いくらまで失えるか」で判断するか

新しい事業や投資の機会に直面したとき、意思決定の出発点は大きく2つに分かれる。一つは「この投資でどれだけのリターンが期待できるか」を起点とする期待リターン・アプローチ。もう一つは「この投資で最悪いくら失うか、そしてその損失に自分は耐えられるか」を起点とする許容可能な損失アプローチである。前者はMBAの教科書が教える正統的な方法であり、後者はSarasvathy(2001)が熟達した起業家の行動から発見した原則である。

両者は単なる好みの違いではない。それぞれが有効に機能する条件が根本的に異なる。この違いを理解しないまま、どちらか一方だけを使い続ければ、意思決定の質は必然的に低下する。

期待リターン・アプローチの前提と限界

計算式の構造

伝統的な投資理論における期待リターンの計算は、次の構造を持つ。期待リターン=Σ(各シナリオの確率 × 各シナリオのリターン)。たとえば「成功確率30%で1億円のリターン、失敗確率70%でゼロ」であれば、期待リターンは3,000万円となる。この数字と投資額を比較して意思決定を行う。

有効な条件

この計算が機能するには、2つの前提が必要である。第一に、各シナリオの確率を合理的に推定できること。第二に、各シナリオのリターン(またはリスク)を金額で見積もれること。Knight(1921)の用語でいえば、これは「リスク(risk)」の領域——確率分布が既知の状況——でのみ有効な方法である。

既存市場への参入、設備投資、M&Aのバリュエーションなど、過去データから確率分布を推定できる意思決定において、期待リターン・アプローチは最善の方法論である。

機能しない領域

問題は、Knightが「真の不確実性(uncertainty)」と呼んだ領域である。確率分布自体が推定不可能な状況——まだ存在しない市場、前例のないビジネスモデル、予測不可能な技術変化——では、期待リターンの計算式そのものが成立しない(Knight, 1921)。存在しない市場の「成功確率」をどう推定するのか。分母すら不明なのに、計算の精度を上げることに意味があるのか。

許容可能な損失の原則——Sarasvathyの発見

熟達した起業家はこう考えていた

Sarasvathy(2008)が27名の熟達した起業家を対象としたシンク・アラウド・プロトコル実験で発見したのは、彼らの大多数が期待リターンではなく、許容可能な損失を基準に投資判断を行っていたということである(Sarasvathy, 2008, pp. 35-50)。

ある起業家は「このプロジェクトに使える金額は、最悪全額失っても家族の生活に影響しない範囲」と語った。別の起業家は「リターンは分からないが、6ヶ月の時間と200万円の投資を失っても、次の挑戦はできる」と述べた。彼らは不確実な未来のリターンを予測する代わりに、確実に把握できる「現在の自分が耐えられる損失」を計算していたのである。

3つの損失軸

Dew et al.(2009)は、許容可能な損失を3つの軸で評価するフレームワークを提示した。

  1. 金銭的損失: 投入資金のうち全額失っても事業継続・生活維持に支障のない金額
  2. 時間的損失: 費やした時間が無駄になった場合の機会費用。半年をフルタイムで投じるなら、その半年で得られたはずの収入やキャリア経験を考慮する
  3. 評判の損失: 失敗が自身の信用や人間関係に与えるダメージ。社内起業の場合、プロジェクトの頓挫が昇進に響くかどうかは重大な判断材料となる

金銭的損失が小さくても、評判の損失が大きければ許容範囲を超えることがある。3つの軸を総合的に評価する必要がある(Dew et al., 2009, pp. 290-292)。

2つのアプローチの本質的な対比

観点期待リターン許容可能な損失
起点未来のリターン予測現在の手元資源
前提確率分布が推定可能確率分布が不明
計算対象得られるもの(upside)失うもの(downside)
有効な領域既存市場・既知の変数新規市場・未知の変数
Knight的区分リスク(risk)不確実性(uncertainty)
行動への影響最適解の選択行動可能性の拡大

この対比から見えるのは、両者は同じ問題に対する異なる解答ではなく、異なる問題に対する異なる解答だということである。エフェクチュエーションとコーゼーションの関係と同様に、どちらか一方が正しいのではなく、状況に応じた使い分けが求められる。

実践で許容可能な損失を使いこなす

ステップ1:損失の棚卸し

紙に3つの列を作り、金銭・時間・評判それぞれについて「ここまでなら失っても再起できる」上限を具体的な数字で書き出す。「貯蓄の15%」「週末の20時間/月」「社外プロジェクトなので評判リスクはゼロ」——この具体性が重要である。

ステップ2:許容範囲内の最小実験を設計する

棚卸しした範囲内で実行可能な、最も小さなアクションを決める。5万円と2週間で、プロトタイプを作って5人にヒアリングする。このスケールなら、失敗しても許容範囲内にとどまる。

ステップ3:学びに基づいて再評価する

最初の実験から得た学びをもとに、許容範囲を更新する。ポジティブなフィードバックが得られれば範囲を広げ、ネガティブであれば損失を確定させて撤退する。この反復こそが、エフェクチュエーション・サイクルの核である。

特にこの原則が役立つ人

  • 「リターンが読めない」ことを理由に新規事業への投資判断が停滞している経営者
  • 期待リターンの算出を求める稟議プロセスに阻まれている社内起業家
  • 限られた資金で起業を考えている個人や学生
  • 投資の意思決定フレームワークを教えている教育者

まず「損失の棚卸し」を10分でやってみよう

ノートを開き、金銭・時間・評判の3つについて「自分が失っても耐えられる上限」を書き出す。この作業は10分もかからないが、「動けない」状態を「動ける」状態に変える効果がある。期待リターンが計算できないから動けない——その状態は、判断基準を切り替えるだけで解消できるのである。


引用・参考文献

  • Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.

参考書籍

関連する記事

  1. 01 クレイジー・キルト原則の実践――コミットメントを引き出すパートナーシップ構築法
  2. 02 飛行機のパイロットの原則(Pilot in the Plane)——未来を予測するな、創造せよ
  3. 03 クレイジーキルトの原則(Crazy Quilt)——競争ではなくパートナーシップで事業を創る
  4. 04 アフォーダブル・ロス原則を予算設計に落とす――許容損失の数値化フレームワーク
  5. 05 許容可能な損失の原則(Affordable Loss)——リスクではなく「失っていい範囲」で判断する
  6. 06 バルミューダ——ミュージシャンから転身した起業家が町工場で掴んだ突破口