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“Affordable loss is not about being conservative. It is about making commitments that allow you to stay in the game regardless of how the uncertain future unfolds.”
— Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2011). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge, p. 36.
ディープテック企業化は「予測」を前提にできない
バイオテクノロジー、宇宙開発、量子コンピュータ、次世代素材——いわゆるディープテック領域での企業化は、標準的な事業計画の枠組みと根本的にすれ違う。
通常の新規事業では、市場調査・競合分析・財務モデリングを積み重ねることで「期待リターン」を推定し、その推定値に基づいて投資判断を下す。しかしディープテック企業化においては、この枠組みの前提条件がことごとく欠如している。
技術が市場で機能するかどうかは、臨床試験・軌道投入・素子性能の実証という長期的な検証を経なければ分からない。市場が存在するかどうかは、技術の実用化そのものが市場を創造するか否かに依存する。競合の動向は、知財の不確実性・規制の変化・国家間の研究競争という多層の不確定要素に晒される。
予測できないものを予測しようとすることの脆さ——これがディープテック企業化の本質的な問いだ。
Saras D. Sarasvathy(2001, 2008)が熟達起業家の意思決定研究から導いたエフェクチュエーション理論、とりわけ「許容可能な損失(Affordable Loss)」原則は、この問いへの構造的な応答として機能する。本記事では、この原則がディープテック領域においてなぜ期待リターン計算の代替基準として機能するのかを論じ、資金設計・チームビルド・ステークホルダー形成への実践的応用を示す。
ナイト的不確実性——ディープテックに遍在する「計算できない不確実性」
許容可能な損失原則を理解するには、その前提となる不確実性の性質を正確に把握する必要がある。
Frank H. Knight(1921)は、不確実性を二種類に峻別した。リスク(確率分布が既知または推定可能な状況)と真の不確実性(ナイト的不確実性)(確率分布の推定根拠そのものが存在しない状況)だ(Knight, 1921, p. 20)。
Sarasvathy(2001)は、新市場創造・新技術の企業化といった起業的状況に遍在するのは後者——ナイト的不確実性——であると指摘した(p. 245)。過去の類似事例が存在しないため、確率の推定自体が不可能になる。
ディープテック領域はこのナイト的不確実性が特に顕著だ。次の3つの次元が同時に重なる。
技術不確実性:実験室での成果が製品スケールで再現されるか。BioNTech が mRNA ワクチン技術を創業期に研究していた段階では、その後のパンデミック応用を確率で推定できた者は誰もいなかった。Doudna と Charpentier が CRISPR-Cas9 の仕組みを解明した時点では、その遺伝子編集技術が医療・農業・材料科学にわたる広範な市場を創造することは、確率的に計算できなかった。
規制不確実性:薬事承認・航空宇宙規制・量子暗号の法的位置づけ。規制当局の判断は政治的・社会的文脈に依存し、過去の事例から確率を外挿できない。
米国 FDA の医薬品承認プロセスでは、フェーズ2から最終承認に至る確率は疾患領域によって大きく異なり(DiMasi et al., 2016, p. 23)、しかもその確率自体が技術の革新性に応じて変動する。
市場不確実性:ディープテックが創る市場は、往々にして「技術が登場するまで存在しなかった」市場である。新技術が登場するまで存在しなかった市場は、定義上、事前の市場調査では捕捉できない。
この3次元の不確実性が重なる状況では、期待リターンの計算は数値を並べる行為にすぎず、意思決定の質を上げない。むしろ、根拠のない数値が「疑似的な確実性」として意思決定者の認知を歪めるリスクがある。
許容可能な損失原則——計算できない状況での合理的基準
Sarasvathy(2008)が熟達起業家に見出したのは、「期待リターンが計算できないから動けない」という麻痺ではなかった。彼らは問いの立て方を根本から変えていた(pp. 35–50)。
**「これだけ儲かるはずだから投資する」(期待リターン基準)ではなく、「これだけ失っても再起できるから動く」(許容損失基準)**という転換だ。
Dew et al.(2009)は、この許容可能な損失を3次元で定義した(pp. 105–110)。
金銭的損失の許容上限:投資した資金が全額失われた場合に、事業継続・生活維持・次の挑戦への復帰が可能な金額。ディープテック文脈では「この実験が失敗しても、次のフェーズに進む原資が残るか」という設問になる。
時間的損失の許容上限:投入する時間が全て無駄になった場合に、人生の他の選択肢——家族との時間、別キャリア、健康——を許容できる程度しか犠牲にしない範囲。技術開発の失敗から学んだ知識・スキルが別の文脈で転用可能かという観点もここに含まれる。
評判的損失の許容上限:プロジェクト失敗時に、研究コミュニティ・投資家・業界内の信頼関係に与えるダメージが許容できる範囲か。特にアカデミア発スタートアップでは、研究室の評判と創業者の評判の切り離し設計が必要になる場合がある。
この3軸は、ディープテックにおいて「動ける条件の設計」を支える。期待リターンが計算できなくても、失っても許容できる範囲を事前に定義することで、不確実性のある状況での合理的なコミットメントが可能になる。
ディープテック資金設計への応用——「実験のステージング」
許容可能な損失原則をディープテックの資金設計に落とし込む最も有効な形態が、実験のステージング(段階的コミットメント)だ。
Read et al.(2011)は、許容可能な損失原則の実践として「小さく動いて情報を得る(small steps)」アプローチを論じた(p. 37)。ディープテックのR&Dは構造的にこのアプローチと親和性が高い。技術開発は本質的にフェーズ分解されており(概念実証→プロトタイプ→スケールアップ→規制申請→商用化)、各フェーズでの「許容できる最大投資額」を事前に定義することが可能だ。
具体的な設計原理は以下のようになる。
フェーズ単位での許容損失の設定:プロジェクト全体の期待リターンを計算するのではなく、次の6ヶ月・12ヶ月という単位での「この実験に失敗しても許容できる損失上限」を設定する。この上限を超えて投資するのは、前フェーズで十分な技術的マイルストーンが達成された後に限る。
学習価値の損失計算への算入:ディープテックの失敗は、成功と同等の情報価値を持つ場合が多い。「この仮説が間違いであることの証明」はR&Dの一成果だ。Sarasvathy(2001)がレモネード原則で述べた「予期せぬ出来事を機会として活用する」認知は、「失敗から学ぶ」という文脈でディープテックの実験ステージングに直接適用できる(p. 250)。
ダウンサイドの非線形性への対処:ディープテック起業において、金銭的損失は単純な線形関数ではない。特許費用・実験装置・人件費の固定費化が特定のタイミングで急増する構造がある。許容損失を「フェーズ開始時の1回の意思決定」ではなく「費用構造の変曲点ごとの再評価」として設計することで、計画外の費用膨張を抑制できる。
この「実験のステージング×許容損失の再評価」という組み合わせは、Blank & Dorf(2012)の「顧客開発」プロセスをR&D文脈に翻訳した形態としても解釈できるが、エフェクチュエーション理論的には「期待リターンを計算して進む」ではなく「手中にある資源と許容範囲の中で次の学習を設計する」という原理的に異なる意思決定構造に基づいている(Sarasvathy, 2008, p. 40)。
スタートアップ・スタジオとディープテックインキュベーター——クレイジーキルトとの接続
許容可能な損失原則は、ディープテックにおいてチームビルドとステークホルダー形成の設計原理としても機能する。ここに「クレイジーキルト(Crazy Quilt)」原則との接続が生まれる。
Sarasvathy(2008)のクレイジーキルト原則は、「自発的にコミットするステークホルダーを集め、その資源と関心を統合してゴールを共形成する」という戦略だ(pp. 55–68)。ディープテックでは、技術開発の長期性ゆえに「初期からの関係者構造」がプロジェクトの命運を左右することが多い。
研究室との関係設計:アカデミア発のディープテックスタートアップでは、大学・研究機関との知財ライセンス・人材の移動・共同研究契約が「クレイジーキルト」の布を構成する。これらを許容損失の観点から見ると——研究室との関係が解消された場合の技術アクセスへの影響、知財の帰属が変動した場合の事業継続性——を事前に設計する必要がある。Read et al.(2011)が論じたように、クレイジーキルトはステークホルダーとの「条件付きコミットメント(commitment with stakes)」の形成であり(p. 49)、条件が変わった時の想定が許容損失設計の一部となる。
DIRTTとしての政府機関・規制当局との関係:DARPA・NASAの研究助成、EU Horizon の補助金、経産省のディープテック支援スキームは、ディープテック企業化においてしばしば「手中の鳥」の資源を成す。これらは資金的損失の許容上限を引き上げる効果を持つ(政府資金が全損しても民間資金のリスクへの直接影響は限定的)一方、規制関係のステークホルダーとして「クレイジーキルトの布」に組み込まれることで、規制的不確実性そのものを低減する機能を持つ。
スタートアップ・スタジオモデルとの親和性:複数のディープテックプロジェクトを並列で孵化するスタートアップ・スタジオは、エフェクチュエーション理論的に興味深い構造を持つ。個別プロジェクトへの許容損失を「スタジオ全体のポートフォリオとしての許容損失」へと分散させる設計は、Sarasvathy(2001)が「許容可能な損失は個人レベルだけでなく組織レベルでも設計できる」と示唆した点(p. 252)と一致する。
事例から見る——許容損失設計が機能した場面、機能しなかった場面
機能した事例:SpaceX のフェーズドアプローチ
SpaceX は創業期のロケット開発において、Elon Musk が「私財を全て SpaceX・Tesla・SolarCity の3社に投入した」ことが広く知られている。しかしこの「全財産投入」は、Musk 自身の発言によれば、段階的な実験の失敗コストを「次のフェーズに進む資源が残る範囲」で吸収しながら進む設計だった(Vance, 2015)。
Falcon 1 の最初の3回打ち上げ失敗(2006・2007・2008)の各段階で、次の実験への原資を維持することが意思決定の基準となっていた。4回目の打ち上げ成功(2008年9月)は NASA の COTS 契約獲得に直結し、以降の資金構造を根本から変えた。これは「期待リターン計算に基づく投資」ではなく、「各実験が失敗しても次に進める範囲での段階的コミットメント」——許容損失の段階的再評価——として機能した。
機能しなかった事例:過大な先行投資の落とし穴
ディープテック起業において、「大きな市場機会があるから大きく先行投資する」という期待リターン基準の判断が失敗につながる事例は多い。燃料電池スタートアップの多くは、2000年代初頭に「水素エコノミーの時代が来る」という市場予測に基づいた大規模な先行投資を実施し、技術的・規制的・インフラ的な不確実性の解消に必要な時間を過小評価した。これらの企業の多くは、「許容損失を超えた段階でのコミットメント」によって、次の実験フェーズへの資源を失った。
許容損失原則の観点から見ると、問題は「水素市場の規模予測が外れた」ことではない。予測が外れた時に「ゲームに残り続けられる」資源設計が行われていなかったことだ(Read et al., 2011, p. 36)。
ディープテック企業化における許容損失設計の5つの実践原則
以上の議論を整理し、ディープテック企業化における許容損失設計の実践原則を示す。
原則1:フェーズごとの「学習単位」で許容損失を設定する
「プロジェクト全体の投資額」ではなく「次の重要な技術的問いに答えるために必要な最小投資額」を単位として許容損失を設計する。Dew et al.(2009)が示した3軸(金銭・時間・評判)それぞれについて、フェーズ移行時に再評価する(pp. 109–110)。
原則2:損失の「転用可能性」を設計に組み込む
ディープテックの失敗は、技術知識・特許の副産物・人材ネットワーク・規制当局との関係という形で次の取り組みに転用可能な資産を生む場合が多い。この「転用可能性(optionality)」を金銭的許容損失の実質的な低減要因として計算する。
原則3:コアチームの時間的損失上限を明示的に管理する
創業チームの時間投入は、しばしば金銭的損失よりも回収困難な損失になる。特にアカデミア出身者にとって、スタートアップでの数年間はアカデミックキャリアの機会費用として計算される。この時間的損失の許容上限を、チームメンバーそれぞれの個人的状況に応じて明示的に設計・合意することが、長期的なチームの安定性に直結する(Read et al., 2011, p. 38)。
原則4:ステークホルダー構造変化のシナリオを許容損失に算入する
ディープテックでは、主要投資家・共同研究機関・規制当局のスタンス変化が事業の存続に直結する。「この関係性が失われた場合に、次の段階に進むための代替経路があるか」を事前に設計することが、クレイジーキルト原則と許容損失原則の交差点だ(Sarasvathy, 2008, pp. 55–68)。
原則5:「ゲームに残り続けること」を最優先の制約として設計する
Read et al.(2011)の言葉を借りれば、許容損失設計の最終目的は「不確実な未来がどのように展開しても、ゲームに残り続けられる」状態を維持することにある(p. 36)。ディープテックの商業化は往々にして10〜15年の時間軸を要し、その間に技術的・規制的・市場的な状況が根本的に変化する。各フェーズで「生き残れる条件」を最優先の設計制約に置くことが、長期的な企業化の合理的基盤となる。
コーゼーション的アプローチとの対比——どう使い分けるか
許容損失原則はコーゼーション的アプローチを否定するものではない。Sarasvathy(2001)が明示したように、両者は適用領域が異なる(p. 243)。
ディープテックにおいても、技術的成熟度が上がりナイト的不確実性が低下した段階では、コーゼーション的な期待リターン計算が有効になる。規制申請後の商用化フェーズ、製造スケールアップの費用構造最適化、既存市場への技術応用——これらは「過去の類似事例から確率を推定できる」局面であり、期待リターン基準の意思決定が合理的だ。
エフェクチュエーション的判断とコーゼーション的判断の切り替えは、「今直面している不確実性の種類(ナイト的不確実性かリスクか)」によって決まる(Sarasvathy, 2001, p. 245; Read et al., 2011, p. 12)。
ディープテック企業化の実践では、この切り替えタイミングを意識的に設計することが重要だ。技術実証フェーズはエフェクチュエーション的(許容損失基準・手中の鳥・クレイジーキルト)、スケールアップ以降はコーゼーション的(NPV・IRR・市場シェア目標)という二相設計が、多くのディープテックスタートアップの実践に見出される。
ディープテックにおける許容損失の再定義
本稿の議論を通じて、ディープテックにおける「許容可能な損失」の意味が具体化する。それは「失敗をあらかじめ覚悟した悲観的な計算」ではなく、「不確実な未来がどう展開しても行動を継続できる条件の設計」である。
Sarasvathy(2008)が熟達起業家から発見したのは、このことだ。彼らは「リターンを最大化しようとした結果として成功した」のではなく、「ゲームに残り続けながら情報と関係性を蓄積し、それが最終的に価値を生んだ」(pp. 40–50)。
バイオテクノロジーの臨床試験、宇宙ビジネスの打ち上げサイクル、量子コンピュータの誤り訂正への道——これらはいずれも、単一の「賭け」では成立しない長期的プロセスだ。許容損失設計は、その長期プロセスを「連続的な小さな賭けの積み重ね」として構造化する。一つひとつの賭けが失敗しても、次の賭けを続けられることが最終的な企業化の条件となる。
ディープテックを企業化しようとする起業家・事業開発担当者に向けて問いを残す。あなたの次の実験は、失敗した場合に次の実験へ進む原資を残すか。この問いに答えを持つことが、期待リターン計算よりも確かな出発点になる。
荒井宏之 a.k.a. ピンキー
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関連用語
- 許容可能な損失(Affordable Loss)
- ナイト的不確実性とエフェクチュエーション
- クレイジーキルト(Crazy Quilt)
- 手中の鳥(Bird-in-Hand)
- レモネードの原則(Lemonade Principle)
引用・参考文献
- Blank, S., & Dorf, B. (2012). The Startup Owner’s Manual. K&S Ranch.
- Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.
- DiMasi, J. A., Grabowski, H. G., & Hansen, R. W. (2016). Innovation in the pharmaceutical industry: New estimates of R&D costs. Journal of Health Economics, 47, 20–33.
- Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2011). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Vance, A. (2015). Elon Musk: Tesla, SpaceX, and the Quest for a Fantastic Future. Ecco Press.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.