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棚卸しを始める前に:なぜ「目標より先に手段」なのか
多くの起業・新規事業の出発点は「目標の設定」である。5年後に売上〇億円、〇〇市場に参入する、〇〇の課題を解決する——こうした目標を先に定め、そこから逆算して手段を考えるアプローチは、コーゼーション(Causation)的な意思決定である。
しかし Sarasvathy(2001, p. 245)の研究が示したのは、熟達した起業家27名の大多数が取るアプローチはこれとは逆だったということだ。彼らは「目標から逆算する」のではなく、**「今持っている手段から、可能な未来を発散させる」**という思考順序で動いていた。これが手中の鳥(Bird in Hand)原則の核心である。
この棚卸しワークシートは、Sarasvathy(2008, pp. 15–16)が定義した3つの手段カテゴリ——Who I am(自分は何者か)/ What I know(何を知っているか)/ Whom I know(誰を知っているか)——を体系的に棚卸しするためのフレームワークである。
棚卸しを始める前の準備
用意するもの: A4用紙3枚(またはデジタルノート)、ペン、30〜60分の集中できる時間
マインドセットの確認: このワークシートに「正解」はない。現時点で自分が持つすべてのものを、判断せずに書き出すことが目的である。「こんなことが役に立つのか」という評価は後で行う。まず量を出すことを優先する。
Section 1:Who I am(自分は何者か)
1-1. 価値観と信念
自分が大切にしている価値観・信念を書き出す。「自分が絶対に妥協しないこと」「仕事において最も重視すること」を問いとして使うと書きやすい。
例: 誠実さ・透明性・継続的な学習・ユーザー中心の設計・長期的な関係構築
ここに書き出す:
1-2. 強みと得意なこと
「他の人よりも自然にうまくできること」を書き出す。他者から褒められること、苦労なくできること、自分では当たり前だと思っているが周囲から感謝されることも含む。
例: 複雑な情報を整理してシンプルに伝える / 初対面の人と素早く関係を築く / データの裏にあるストーリーを読む
ここに書き出す:
1-3. 情熱と関心領域
長時間取り組んでも苦にならないテーマ・分野・活動を書き出す。趣味・副業・社外活動も含める。「もし自由な時間が3倍あったら何をするか」という問いも有効。
例: 教育テクノロジー / 地域農業 / 音楽制作 / ヘルスケアの仕組み改善 / 言語学習
ここに書き出す:
1-4. アイデンティティと経験の軌跡
これまでの人生経験で「自分を形作った」と感じる出来事・転換点を3〜5つ書く。それぞれが自分の視点・感覚・アプローチにどう影響しているかも書き添える。
例: 大学時代の留学経験 → 異文化適応の感覚 / 前職でのプロジェクト失敗 → リスク感知の精度が上がった
ここに書き出す:
Section 2:What I know(何を知っているか)
2-1. 専門知識・業界知識
公式の教育・資格・職歴を通じて得た知識を書き出す。「自分の専門領域」として他者に説明できる知識。
例: マーケティング / 機械学習 / 医療法規制 / M&A・財務モデリング / 食品製造の品質管理
ここに書き出す:
2-2. 暗黙知・経験則
言語化しにくいが確かに持っている知識——業界の「空気感」、顧客が言葉にしないニーズ、うまくいかないパターンの直感的な察知——を書き出す。Sarasvathy(2008, p. 16)はこの暗黙知(tacit knowledge)を手段の中で特に価値が高いものと位置づけている。
例: 大手企業の新規事業審査がどこで止まるかのパターンが分かる / 医師がどの情報チャネルを信頼するかを知っている
ここに書き出す:
2-3. スキルセット
実際に使えるスキルを書き出す。ソフトスキル(交渉・ファシリテーション・プレゼンテーション)とハードスキル(プログラミング・デザイン・財務分析)の両方を含める。
例: Python / Figmaでのプロトタイピング / 英語での商談 / ワークショップファシリテーション
ここに書き出す:
2-4. 市場・顧客理解
特定の顧客群・市場・課題について深く理解していると言えることを書き出す。「〇〇のことなら誰よりも顧客の気持ちが分かる」という自信のある領域。
例: 30代女性の健康管理に関する意思決定プロセス / 中小製造業の在庫管理の現場課題
ここに書き出す:
Section 3:Whom I know(誰を知っているか)
吉田(2018, p. 87)は、「Whom I know」が3つの手段カテゴリの中で最も即効性が高いことを実務的観点から指摘している。ここが最も丁寧に棚卸しすべき領域である。
3-1. 専門家ネットワーク
特定の専門性を持つ人で、直接連絡できる人を書き出す。業界専門家、技術者、研究者、医師、弁護士、会計士など。
記載項目: 名前(またはイニシャル)/ 専門領域 / 関係性の強さ(強/中/弱)
ここに書き出す:
3-2. 資源・インフラへのアクセス
製造設備、研究室、資金、スペース、メディア・PR、特定のプラットフォームなど、「自分の知人を通じてアクセスできるリソース」を書き出す。直接持っていなくても、知人が持っているものを含める。
例: 知人がコワーキングスペースを運営している / 友人が大手EC会社の購買担当で、テスト販売の相談ができる
ここに書き出す:
3-3. 潜在的な初期顧客
今すぐ価値を提供できるとしたら、最初に話しかける人のリストを書く。「自分のことを信頼してくれていて、新しい試みに付き合ってくれそうな人」が理想の初期顧客候補である。
例: 前職の同僚で現在〇〇業界にいる人 / 大学時代の友人で〇〇の課題を持っている人
ここに書き出す:
3-4. アドバイザー・メンター候補
自分の取り組みに対して、建設的なフィードバックをくれそうな人を書き出す。「憧れの人」ではなく「実際に連絡できる人」が対象。
ここに書き出す:
Section 4:統合と可能性の発散
3つのセクションの棚卸しが終わったら、以下の問いで統合する。
問い1: 自分の手段の中で「組み合わせると面白いことが起きそうな組み合わせ」はあるか?
問い2: 今すぐ連絡して「一緒に何かを始めませんか」と言える人は誰か?
問い3: 今日から始めるとしたら、許容可能な損失(時間・お金・エネルギー)の範囲で、最初にできることは何か?
これら3つの問いへの答えが、エフェクチュエーション的な行動の出発点となる。Sarasvathy(2001, p. 252)が示した「手段→可能な目標」という思考の順序を、このワークシートを通じて体感することが目的である。
手段の棚卸しは一度やれば終わりではない。四半期ごと、または大きな変化があった時に更新することで、「自分が今何を持っているか」の精度が上がり、エフェクチュエーション的行動の質が向上する。
手中の鳥の原則の理論的背景とエフェクチュエーションとは何かも合わせて読むと、このワークシートの意味がより深く理解できる。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.
- 吉田満梨 (2018).『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』ダイヤモンド社.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.