目次
導入——二度の「失敗」が二つの成功企業を生んだ起業家
ソフトウェア業界では、ピボット——事業の方向転換——は珍しくない。しかし、同じ起業家が二度ゲーム開発に失敗し、その都度「副産物」から世界的な企業を生み出した事例は極めて稀である。
Stewart Butterfieldは、ゲーム「Game Neverending」の失敗からFlickrを、そして「Glitch」の失敗からSlackを生み出した。特にSlackは、企業のコミュニケーションのあり方を根本的に変え、2019年の上場時には時価総額200億ドルを超えた。エフェクチュエーション理論のレモネード原則を、まさに体現する事例である。
企業・人物の概要——連続ピボッターButterfieldの軌跡
Stewart Butterfield——「失敗の天才」
Stewart Butterfieldはカナダ出身の起業家であり、ブリティッシュコロンビア大学で哲学を学んだ後、ケンブリッジ大学で認知科学の修士号を取得した。2002年に共同創業者と共にLudicorp社を設立し、大規模多人数参加型オンラインゲーム「Game Neverending」の開発を開始した。
このゲームは商業的に成功しなかったが、ゲーム内の写真共有機能がユーザーに好評であったことから、Flickrとして独立させた。Flickrは2005年にYahoo!に買収され、Butterfieldは「失敗からの転換」で最初の成功を収めた。
Tiny Speck社とGlitch
2009年、ButterfieldはTiny Speck社を設立し、再びオンラインゲーム「Glitch」の開発に着手した。約1,700万ドルの資金を調達し、独特のアートスタイルと非戦闘型のゲームプレイで注目を集めたが、2012年11月にサービスを終了した。ユーザー数が持続的な収益を生むには不十分であった。
イノベーションの経緯——ゲームの廃墟からの再生
Glitchの終焉と「残ったもの」(2012)
Glitchの閉鎖は、Butterfieldにとって二度目のゲーム開発の失敗であった。しかし、Tiny Speck社にはゲーム開発の過程で構築された社内コミュニケーションツールが残されていた。
Glitchの開発チームは米国とカナダの複数拠点に分散しており、既存のコミュニケーションツールでは効率的な協働が困難であった。そこで、IRCを基盤としたカスタムのチャットシステムを自社開発していたのである。このツールは、チャンネル機能、検索機能、ファイル共有機能を備え、チーム全体のコミュニケーション履歴を一元管理できた。
「副産物」の価値認識(2012-2013)
Glitch終了後、Butterfieldはチームメンバーと共に次の事業を検討した。その際、自分たちが日常的に使っていた社内チャットツールが、他の企業にとっても価値があるのではないかという仮説が浮上した。
Butterfieldは後に「Glitchで失敗したとき、私たちが持っていた最も価値あるものは、ゲームそのものではなく、ゲームを作るために構築したコミュニケーションの仕組みだった」と振り返っている。これは、ゲーム開発という「レモン」から、ビジネスツールという「レモネード」を抽出した瞬間であった。
Slackの急成長(2013-2014)
2013年8月、社内ツールを製品化した**Slack(Searchable Log of All Conversation and Knowledge)**がプレビュー版として公開された。口コミで急速に広がり、公開初日に8,000チームが登録。24時間以内にさらに8,000チームが加わった。
2014年2月の正式ローンチ後も成長は加速し、テクノロジー業界最速でDAU(デイリーアクティブユーザー)100万人を達成した。Slackはビジネスコミュニケーションの標準ツールとなり、電子メールに代わる新しいコミュニケーション手段としての地位を確立した。
Salesforceによる買収
2021年、SalesforceがSlackを約277億ドルで買収した。ゲーム開発の「副産物」が、ソフトウェア業界史上最大級の買収案件の対象となったのである。
エフェクチュエーション原則の分析——「レモネード」の反復的実践
二度のレモネード転換
Sarasvathy(2001)が述べるレモネード原則——予期せぬ事態を回避すべきリスクではなく活用すべき機会として捉える——を、Butterfieldはキャリアを通じて二度実践した(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
Game NeverendingからFlickrへ、GlitchからSlackへ。いずれもゲーム開発の「失敗」から、その過程で生まれた副産物を製品化した事例である。一度目の転換が偶然であったとしても、二度目は明らかに意図的であった。Butterfieldはレモネード原則を学習し、予期せぬ事態を機会に転換するスキルを身につけていたと解釈できる。
手段ドリブンの製品開発
Sarasvathy(2008)は、エフェクチュエーション的な起業家が「自分は誰か」「何を知っているか」「誰を知っているか」という既存の手段から出発すると述べている(Sarasvathy, 2008, pp. 15-16)。Slackの事例では、Butterfieldが持っていた手段は以下の通りであった。
「自分は誰か」:二度のピボット経験を持つ起業家。「何を知っているか」:分散チームのコミュニケーション課題と、その解決方法。「誰を知っているか」:Glitchの開発チーム(エンジニア集団)と、投資家ネットワーク。これらの手段の組み合わせから、Slackという製品が生まれた。
失敗の組織的活用
Harmeling(2011)は、偶発性が起業家にとっての資源であると論じているが(Harmeling, 2011, p. 293)、Slackの事例は組織全体の経験が偶発的な資源として機能した点で示唆的である。
Glitchの開発チームが実際に使い込んだコミュニケーションツールには、数年間の実運用から得られた知見が蓄積されていた。どのような機能が必要で、どのようなUIが使いやすいか——この「暗黙知」は、ゲーム開発の失敗過程で蓄積された意図せざる資産であった。
市場の創造
Sarasvathy(2008)が論じる「市場の創造」の観点からも、Slackは興味深い(Sarasvathy, 2008, pp. 55-60)。2013年時点で、ビジネスチャットの市場は明確には存在していなかった。電子メール、社内SNS、グループウェアなどは存在したが、「チームコミュニケーション」という独立したカテゴリーはSlackが創造したものである。
実務への示唆——「副産物」に目を向ける
Slackの事例から、実務家は以下の示唆を得ることができる。
第一に、事業開発の過程で生まれる「副産物」の価値を定期的に棚卸しすることである。製品やサービスを開発する過程では、社内ツール、プロセス、ノウハウなど様々な副産物が蓄積される。これらの副産物が外部市場で価値を持つ可能性を、意識的に評価すべきである。
第二に、過去の失敗経験をパターンとして蓄積することである。Butterfieldが二度目のピボットを成功させたのは、一度目の経験から「失敗の中にある機会を発見するパターン」を学んでいたからである。組織としても、失敗プロジェクトからの転換事例を記録・共有する仕組みが有効であろう。
第三に、自社が日常的に使っている社内ツールやプロセスの中に、外部に提供可能な価値がないかを検討することである。自社の課題を解決するために開発したソリューションは、同様の課題を抱える他社にとっても価値がある可能性が高い。
「レモネードの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243-263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Harmeling, S. (2011). Contingency as an entrepreneurial resource. Journal of Business Venturing, 26(3), 293-305.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Kim, E. (2015). The full inside story of how Slack got started. Business Insider, March 23, 2015.