目次
なぜ既存の「エフェクチュエーション・サイクル」の理解では不十分なのか
エフェクチュエーション・サイクルは、手段→構想→相互作用→新手段→目標収束という循環モデルとして広く紹介されている。このモデルは、起業家がいかにして「計画なき行動」から事業を立ち上げるかを描写したものであり、Sarasvathy(2008)の理論的貢献の中核に位置する。しかしながら、このサイクルを単純な循環プロセスとして理解するだけでは、事業創造の本質的なメカニズムを見落とすことになる。
表面的な理解では、サイクルは「人に会い、仲間を増やし、手段が増え、やがて事業が生まれる」という素朴な拡大プロセスに見える。だが実際には、サイクルの内部では相反する2つのメカニズムが同時に作動している。一方は利用可能な手段と可能性を増大させる「拡張(Expanding)」の力であり、他方はコミットメントに伴う制約によって方向性を絞り込む「収束(Converging)」の力である(Sarasvathy, 2008, Chapter 9; Sarasvathy & Dew, 2005)。この二重構造を理解しなければ、「なぜ、いつ、どのようにして漠然としたアイデアが具体的な事業へと結晶化するのか」という問いに答えることができない。可能性が広がるだけでは事業にならない。制約が増えるだけでは行き詰まる。拡張と収束の動的な均衡こそが、エフェクチュエーション・サイクルの真の駆動原理なのである。
事業の方向性が「勝手に定まっていく」経験
新しい事業に取り組んだ経験がある者ならば、次のような感覚を覚えたことがあるのではないだろうか。最初は「何でもできる」と思えた。技術者の友人に構想を話したら、「それなら一緒にやりたい」と言ってくれた。資金を出してもいいという知人も現れた。可能性はどんどん広がっていく。ところが同時に、気がつくと方向性がかなり絞り込まれている。技術者の友人が持つスキルセットに合わせてプロダクトの仕様が決まり、投資家の条件に合わせて事業モデルが限定された。最初に夢想していた10の可能性のうち、もはや3つしか残っていない。しかし、その3つは最初の漠然とした10よりもはるかに具体的で、実現可能性が高い。
この現象——パートナーが増えるほど可能性が広がる一方で方向性が絞り込まれていく——こそが、拡張と収束の同時進行の実体験的な表れである。Sarasvathy はこのプロセスを理論的に定式化し、エフェクチュエーション・サイクルの核心に据えた(Sarasvathy, 2008, pp. 115-120)。本稿では、この二重サイクルのメカニズムを分解し、その理論的意義と実践的含意を明らかにする。
プロセスの始点:相互作用への移行
エフェクチュエーション・サイクルの起点は、起業家個人の手持ちの手段である。「自分は何者か(Who I am)」「何を知っているか(What I know)」「誰を知っているか(Whom I know)」——この3つの手段カテゴリが、すべてのプロセスの出発点となる(Sarasvathy, 2008, pp. 15-16)。しかし、手段を確認し可能な効果を構想するだけでは、サイクルは回転しない。サイクルが実際に動き始めるのは、起業家がその構想を他者に共有し、相互作用(interaction)を開始した瞬間である。
この「相互作用への移行」は単なるステップではなく、質的な転換点である。個人の内的プロセス(手段の確認→効果の構想)から、社会的プロセス(他者との対話→コミットメントの交渉)への移行が起こる。Read et al.(2016, p. 89)が指摘するように、エフェクチュエーションは本質的に「社会的プロセス」であり、起業家一人の頭の中だけでは事業は生まれない。他者に働きかけた瞬間から、拡張と収束の二重サイクルが同時に回転を開始するのである。
資源の拡張サイクル(Expanding Cycle of Resources)
二重サイクルの第一の要素は、資源の拡張サイクルである。これはポジティブ・フィードバック・ループとして機能する。起業家が構想を語り、それに共感した人物がステークホルダーとしてコミットすると、その人物が持つ手段——技術、資金、人脈、情報、販路——が起業家の利用可能な手段の集合に加わる。手段が増えれば構想可能な効果の範囲も広がり、その拡大した構想がさらに新たなステークホルダーを引きつける(Sarasvathy, 2008, Chapter 9)。
具体的な例で説明しよう。あるソフトウェアエンジニアが、飲食業界向けの業務効率化ツールを構想していたとする。最初の手段は、自らのプログラミングスキル(What I know)と飲食店経営者の知人数名(Whom I know)である。知人の一人に構想を話したところ、その人物は「飲食業界に強いデザイナーを紹介する」と申し出た。デザイナーが参加したことで、手段のセットは「技術+デザイン」に拡張された。これにより、当初は考えもしなかった「ブランディング込みのSaaS」という構想が可能になる。さらにそのデザイナーが、飲食チェーンの経営幹部を紹介し、手段は「技術+デザイン+業界コネクション」に拡張される。
この過程は、ネットワーク効果にも似た指数関数的な拡大を見せることがある。ステークホルダーの数が増えるほど、各人が持ち込む手段の組み合わせの数は乗数的に増大する。Sarasvathy & Dew(2005, p. 543)は、このプロセスを**「変換(transformation)」**と呼び、既存の手段が新たなステークホルダーとの相互作用を通じて質的に変容していく過程として理論化している。重要なのは、単にリソースの「量」が増えるだけではなく、リソースの「種類」と「組み合わせ」が変わることで、まったく新しい可能性空間が開かれるという点である。
制約の収束サイクル(Converging Cycle of Constraints)
二重サイクルの第二の要素は、制約の収束サイクルである。拡張サイクルとは逆のメカニズム——ネガティブ・フィードバック(構造化)ループ——として機能する。ステークホルダーがコミットメントを行うとき、そのコミットメントには必ず条件や制約が付随する。投資家は「B2B向けに集中すること」を条件に資金を出す。技術者は「このプログラミング言語で開発すること」を前提に参加する。販売パートナーは「特定の地域にフォーカスすること」を期待して協力する(Sarasvathy, 2008, pp. 115-120)。
こうした制約は、一見すると事業の可能性を狭めるネガティブな要素に見える。しかし実際には、**制約こそが事業に「形」を与える骨格(skeleton)**である。制約がなければ、起業家は無限の可能性に漂い続け、何一つ具体化することができない。彫刻家がブロックから石を削り落とすことで形を生むように、各ステークホルダーの制約が可能性空間から不要な部分を削り取ることで、事業の輪郭が浮かび上がるのである。
このプロセスにおいて、Sarasvathy(2008, p. 116)が「目標の曖昧さ(Goal Ambiguity)」と呼ぶ状態は、段階的に解消されていく。最初は「食に関する何か」という漠然とした方向性であったものが、ステークホルダーのコミットメントと制約の蓄積を通じて「飲食店向けAI需要予測SaaS」という具体的な事業へと**結晶化(Crystallization)**する。この結晶化は、誰か一人が「決めた」のではない。複数のステークホルダーの制約が交差する共通領域として、自然に立ち現れてくるものである。無限の「あり得る未来」が、コミットメントという現実の力によって、実現可能な一つの方向へと収束していく——これが収束サイクルの本質である。
二重サイクルの相互作用
拡張サイクルと収束サイクルは、別々に作動するのではなく、同時進行する不可分のメカニズムである。起業家がステークホルダーとの相互作用を通じてコミットメントを獲得するたびに、手段の増加(拡張)と制約の増加(収束)が同時に発生する。そして、拡張された手段と新たな制約の組み合わせが次の行動を規定し、その行動がさらなるステークホルダーとの接点を生む。
この相互作用のメカニズムを整理すると、以下のようになる。
| 要素 | 機能 | メカニズム | 結果 |
|---|---|---|---|
| ステークホルダーのコミットメント | サイクルの駆動力 | 手段と制約を同時にもたらす | プロセスの進展 |
| 資源の拡張 | 可能性空間の拡大 | ポジティブ・フィードバック | 新たな構想の創発 |
| 制約の収束 | 方向性の絞り込み | ネガティブ・フィードバック | 目標の結晶化 |
| 反復(Iteration) | 学習と調整 | 試行→フィードバック→修正 | 人工物の精緻化 |
| 偶発性の活用 | 創造的転換 | レモネード原則の作動 | 予期せぬ方向への展開 |
この反復(Iteration)のプロセスの中で、起業家は抽象的なアイデアから具体的な「人工物(artifact)」——プロダクト、サービス、組織——を漸進的に作り上げていく(Sarasvathy, 2008, p. 119)。各反復において、前回の結果が新たな手段であり同時に新たな制約でもあるという二重性が、プロセスを前進させる原動力となる。重要なのは、このプロセスが直線的な進行ではなく、拡張と収束を繰り返す螺旋的な運動であるという点である。
コンバージェンス(収束):エフェクチュアルからコーザルへの移行
移行のトリガー
二重サイクルが繰り返されるなかで、あるタイミングでプロセスの性質そのものが変化する。エフェクチュエーション的な「創造的探索」モードから、コーゼーション的な「計画的実行」モードへの移行が起こるのである。この移行を引き起こすトリガーは複数存在する。
第一のトリガーは、目標の結晶化である。収束サイクルが十分に進行し、事業の方向性が明確になった段階で、もはや「何をすべきか」を探索する必要がなくなる。目標が明確であれば、その達成に最適な手段を逆算する因果論的アプローチが合理的になる。第二のトリガーは、不確実性の低減と市場の安定化である。Abernathy & Utterback(1978)が論じた「ドミナント・デザインの確立」のように、業界標準が定まると予測可能性が高まり、コーゼーション的アプローチの有効性が増す。第三のトリガーは、組織の成長に伴う慣性と説明責任の発生である。投資家への報告、従業員への給与支払い、取引先との契約遵守——組織が大きくなるほど計画的な管理が求められるようになる。
なぜ移行するのか
移行が起こる根本的な理由は、効率性とスケーラビリティにある。エフェクチュエーション的プロセスは、新しい可能性を探索する局面では極めて有効である。しかし、発見した機会を大規模に展開する局面では、予測に基づく計画と体系的な資源配分が必要になる。端的に言えば、「0から1を生む」にはエフェクチュエーションが適しており、「1を100にスケールする」にはコーゼーションが適している(Read et al., 2016, p. 156)。
March(1991)の「探索(Exploration)と深化(Exploitation)」の枠組みは、この移行を組織学習の観点から説明する鍵を提供している。探索とは新しい可能性を発見するための活動であり、変異・リスクテイク・実験・柔軟性を特徴とする。深化とは既存の知識を洗練・拡張する活動であり、改善・選択・効率性・実行を特徴とする。エフェクチュエーションは探索に、コーゼーションは深化に対応すると考えることができる。March が指摘したように、組織の長期的な存続にはこの両方のバランスが不可欠である。
ハイブリッドな構成と両利きの経営
ここで重要なのは、エフェクチュエーションからコーゼーションへの移行は、完全な切り替えではなく、両者の「混合比率の変化」として理解すべきだという点である。Sarasvathy 自身が繰り返し強調しているように、エフェクチュエーションとコーゼーションは対立概念ではなく補完概念であり、現実の起業プロセスでは常に共存している(Sarasvathy, 2008, p. 73)。
スタートアップの初期段階では、エフェクチュエーション的な要素が90%、コーゼーション的な要素が10%という比率かもしれない。事業が成熟するにつれて、この比率は逆転していく。しかし、完全にコーゼーション100%になることは稀である。なぜなら、市場環境の変化、技術の破壊的革新、規制の変更などによって不確実性が再び高まると、組織は再びエフェクチュエーション的なモードに回帰する必要があるからである。
この**「両利きの経営(Ambidexterity)」**の視点は、O’Reilly & Tushman(2013)が提唱した組織理論とも整合する。成熟した企業が既存事業の深化と新規事業の探索を同時に行う必要があるという洞察は、エフェクチュエーションとコーゼーションの共存というSarasvathy の議論と理論的に接続している。二重サイクルは、スタートアップ期だけの現象ではなく、環境変化に応じて繰り返し回帰する循環的プロセスなのである。
二重サイクルを意識した実践
二重サイクルの理論的理解は、実践においてどのように活用できるのだろうか。以下に、具体的なアクションを提示する。
第一に、拡張と収束を意識的に区別することである。ステークホルダーとの対話の中で、「この人の参加によってどんな新しい手段が加わるか」(拡張の視点)と「この人のコミットメントによってどんな制約が発生するか」(収束の視点)を明示的に把握する。両方の力を認識してこそ、プロセスの現在地と方向性を理解することができる。
第二に、拡張と収束のバランスを調整することである。事業の方向性がまだ見えない初期段階では、多様なステークホルダーとの対話を優先し、拡張サイクルを意識的に加速させるべきである。一方、ある程度の方向性が見えてきた段階では、コミットメントの深い少数のパートナーとの関係を強化し、収束サイクルによる結晶化を促進するべきである。
第三に、コーゼーションへの移行タイミングを見極めることである。目標が明確になり、不確実性が低減した局面では、エフェクチュエーション的な探索を継続するよりも、コーゼーション的な計画と実行に切り替えるほうが効率的である。ただし、環境が再び不安定化した場合には、躊躇なくエフェクチュエーション的モードに回帰する柔軟性を保持すべきである。
第四に、二重サイクルを「記録」することである。誰がどんなコミットメントをし、それによって何が拡張され何が制約されたかを時系列で記録しておくと、事後的な振り返りと組織的な学習が可能になる。エフェクチュエーションは個人の暗黙知に依存しがちであるが、二重サイクルの枠組みを用いて形式知化することで、チーム全体で共有可能なプロセスとなる。
拡張と収束の二重サイクルは、エフェクチュエーション理論の中でも最も動的で実践的な概念である。手元にある手段を確認し、今日できる小さな一歩を踏み出すこと——その一歩が最初のステークホルダーとの相互作用を生み、拡張と収束の螺旋が回転を始める。明日ではなく今日、構想を語る相手を一人見つけること。そこからサイクルは動き出すのである。
関連記事として「エフェクチュエーション・サイクル」、「エフェクチュエーションとは何か」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Sarasvathy, S. D., & Dew, N. (2005). New market creation through transformation. Journal of Evolutionary Economics, 15(5), 533–565.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- March, J. G. (1991). Exploration and Exploitation in Organizational Learning. Organization Science, 2(1), 71–87.
- Abernathy, W. J., & Utterback, J. M. (1978). Patterns of industrial innovation. Technology Review, 80(7), 40–47.
- O’Reilly, C. A., & Tushman, M. L. (2013). Organizational Ambidexterity: Past, Present, and Future. Academy of Management Perspectives, 27(4), 324–338.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.