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「未来が予測できない」ことに怯える必要はあるのか
VUCA(Volatility, Uncertainty, Complexity, Ambiguity)という言葉が経営の現場で定着して久しい。技術革新のスピードは加速し、パンデミックや地政学リスクが事業環境を一変させ、AI の急速な進化が産業構造を根底から揺さぶっている。
こうした環境の中で「5年後の市場予測」を求められるビジネスパーソンは、深刻なジレンマに直面している。予測しなければ戦略は立てられない。しかし、予測の精度は限りなく低い。
この矛盾にどう向き合うべきか——従来の経営学は、より高度な分析手法やデータ収集によって予測精度を高めることで応えようとしてきた。しかし、Sarasvathy はまったく異なる回答を提示する。「未来は予測できない」のではなく、「予測する必要がない」 のだ、と(Sarasvathy, 2001, p. 252)。この姿勢の認識論的根拠については「予測の論理と統制の論理」で詳しく論じている。
予測に依存してきた私たちの思考の限界
この主張は、初めて聞くと直感に反するように思える。予測なしにどうやって意思決定を行うのか。予測なしに投資判断はできるのか。予測なしに事業戦略を立てることなど可能なのか。こうした疑問を持つのは自然なことである。
私たちは教育の過程で、そしてビジネスの実務を通じて、「優れた意思決定とは、正確な予測に基づくものである」という信念を深く内面化してきた。天気予報に基づいて傘を持ち、経済予測に基づいて投資し、市場予測に基づいて新製品を開発する。
この「予測→計画→実行」のサイクルは、あまりに当然のものとして私たちの思考を支配している。しかし、Sarasvathy の研究が明らかにしたのは、もっとも成功した起業家たちがこのサイクルとは根本的に異なるロジックで意思決定を行っているという事実であった(Sarasvathy, 2008, pp. 83–84)。
飛行機のパイロットの原則:予測からコントロールへの転換
「コントロールできる限り、予測する必要はない」
飛行機のパイロットの原則(Pilot in the Plane Principle)の核心は、Sarasvathy の以下の命題に集約される。“To the extent we can control the future, we do not need to predict it”——「未来をコントロールできる限りにおいて、私たちは未来を予測する必要がない」(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
この命題を理解するために、パイロットのメタファーを考えてみよう。飛行機のパイロットは、出発前にフライトプランを作成し天候を確認するが、飛行中に予期せぬ乱気流に遭遇することは珍しくない。優れたパイロットは、乱気流を正確に「予測」できたから優れているのではない。乱気流に遭遇したとき、手元の計器を読み、操縦桿を握り、リアルタイムで状況に対応できるから優れているのである。パイロットが依拠するのは**「予測の精度」ではなく「コントロールの能力」** である(Sarasvathy, 2008, pp. 84–86)。
起業家も同様である。熟達した起業家は、市場の未来を正確に予測できたから成功したのではない。自らの行動によって市場を形成し、顧客を創造し、産業の方向性に影響を与えることで、未来を自ら創り出したから成功したのである。
非予測的コントロール(Non-Predictive Control)の概念
Wiltbank et al.(2006)は、この考え方を「非予測的コントロール(non-predictive control)」として理論化した。彼らは戦略のアプローチを「予測(Prediction)」と「コントロール(Control)」の2軸で整理し、以下の4象限を提示している(Wiltbank et al., 2006, pp. 983–985)。
高予測・高コントロール(Visionary): 未来を予測し、かつ環境をコントロールしようとするアプローチ。大企業のR&D戦略が典型例である。
高予測・低コントロール(Planning): 未来を予測するが、環境への働きかけは限定的なアプローチ。伝統的な戦略計画がこれに該当する。
低予測・低コントロール(Adaptive): 予測もコントロールもせず、環境の変化に適応するアプローチ。リアルオプション戦略やリーン・スタートアップの一部がここに位置づけられる。
低予測・高コントロール(Transformative): 予測に頼らず、しかし環境を積極的にコントロールし変革しようとするアプローチ。これがエフェクチュエーションに対応する象限である。
Wiltbank et al.(2006)の重要な指摘は、不確実性が高い環境ではコントロール重視のアプローチが予測重視のアプローチよりも有効であるということである(Wiltbank et al., 2006, pp. 993–995)。予測が当たらない環境で予測に基づく戦略を立てることは、地図なき地形で古い地図を頼りに進むようなものだからである。
5原則の統合としてのパイロット原則
飛行機のパイロットの原則は、エフェクチュエーションの5原則の中で特別な位置を占めている。それは、他の4原則を貫く世界観——「未来は予測するものではなく創造するものである」——を明示的に宣言する原則だからである(Sarasvathy, 2008, pp. 87–90)。
手中の鳥の原則(Bird in Hand)は、予測不能な未来ではなく「今ある手段」を出発点にすることで、予測への依存を回避する。許容可能な損失の原則(Affordable Loss)は、予測不能な期待リターンではなく「失っていい範囲」を基準にすることで、予測に頼らない投資判断を可能にする。レモネードの原則(Lemonade)は、予測を裏切る偶発的な出来事を機会として活用することで、予測の失敗を成功の素材に変える。クレイジーキルトの原則(Crazy Quilt)は、パートナーのコミットメントを通じて環境を能動的に形成することで、予測ではなくコントロールによって不確実性を縮減する。
パイロット原則は、これら4つの原則を**「予測からコントロールへ」という統一的な枠組み**の中に位置づけることで、エフェクチュエーション理論の全体像を完成させている(Sarasvathy, 2008, pp. 89–90)。
明日から実践できる「パイロット思考」の3つの転換
パイロット原則を日常の意思決定に取り入れるための具体的な転換を3つ示す。
- 「この予測は正しいか」を「何をコントロールできるか」に置き換える: 事業判断の場面で予測の精度に不安を感じたとき、問いを変える。「市場は成長するか」ではなく「この市場に自分が働きかけることで何を変えられるか」を考える
- 影響の輪を描く: 自分が直接影響を与えられる要素(コントロール可能な要素)を書き出す。顧客との関係、パートナーシップ、自社の製品品質、自分のスキル向上——これらはすべてコントロール可能な変数である。予測不能な要素(景気変動、規制変更、競合の動き)とコントロール可能な要素を区別し、後者に集中する
- 週次で「操縦桿レビュー」を行う: 毎週30分、自分が今コントロールしている変数の状態を確認する。うまくいっていない部分があれば、予測を修正するのではなく、コントロールの方法を変える
こんな状況にいる人に特に有効である
実践の現場では、「未来は予測できないから動けない」と感じる瞬間は誰にでもある。しかし起業家の多くが直面するのは、予測の不確かさではなく「コントロールできることをまだやり切っていない」という事実である。
飛行機のパイロットの原則は、以下のような状況にいる人にとくに有効である。
- 未来の不確実性に対する漠然とした不安を抱えている人: 「予測できないから動けない」という思考パターンから、「コントロールできることから動く」へと転換するための論理的な根拠を得られる
- 経営企画や戦略立案の担当者: 予測精度の限界を認識しつつも、それに代わる意思決定の枠組みが見つからずにいた人にとって、非予測的コントロールの概念は実務的な指針となる
- エフェクチュエーション理論を体系的に学びたい人: パイロット原則を理解することは、他の4原則を統合的に理解することにつながる。5原則の全体像を把握する上での鍵となる原則である
- 組織変革やイノベーションの推進を任されている人: 未来を予測して適応するのではなく、自ら未来を創造するという姿勢は、変革を主導するリーダーにとって不可欠のマインドセットである
操縦桿を握るのは、あなた自身である
飛行機のパイロットの原則は、エフェクチュエーション理論の根幹をなす世界観を凝縮している。未来は予測すべき所与の対象ではなく、自らの行動によって創造すべき構築物である。この世界観の転換は、「不確実性が高いから行動できない」という思考を**「不確実だからこそ、自分の行動が未来を形づくる余地がある」**という思考へと変える(Sarasvathy, 2008, p. 90)。
エフェクチュエーションの5原則——手中の鳥、許容可能な損失、レモネード、クレイジーキルト、そして飛行機のパイロット——は、不確実な環境の中で行動するための一貫した論理体系を構成している。この5原則を意識して日常の意思決定に取り入れることから始めてみることを勧める。操縦桿を握っているのは、いつも自分自身なのである。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Wiltbank, R., Dew, N., Read, S., & Sarasvathy, S. D. (2006). What to do next? The case for non-predictive strategy. Strategic Management Journal, 27(10), 981–998.