目次
ねごしえいてっど・こみっとめんと
目標を「発見する」のではなく「交渉する」
起業家の意思決定を論じるとき、目標は所与のものとして扱われることが多い。市場を調査し、達成すべき目標を確定し、そのための手段を探索する——これがコーゼーション的な発想である。しかしSarasvathy(2001)は、熟達した起業家が実際に行っていることはまったく逆だと論じた。「エフェクチュアル・プロセスにおいて、目標は事前の選好順序としてではなく、ステークホルダー・コミットメントの交渉的残余物(negotiated residuals)として扱われる」(Sarasvathy, 2001, p. 251)。
つまり起業家にとっての目標は、ステークホルダーとの対話を通じて事後的に結晶化するものだという主張である。この交渉的プロセスを通じて形成されるコミットメントを、ネゴシエイテッド・コミットメント(Negotiated Commitment)という。
「交渉」という言葉の意味
ここでいう「交渉(negotiation)」は、価格の値引き交渉や契約条件の駆け引きを指すのではない。Sarasvathy(2008)が意図するのは、起業家とステークホルダーが互いの手段(means)、期待、可能性のある将来を開示しあい、協力の形と方向性を共に形作っていくプロセスである(Sarasvathy, 2008, pp. 73–80)。
このプロセスには3つの特徴がある。
1. 非対称性の相互解消: 起業家はすべてを知っているわけではなく、潜在的なステークホルダーもそうである。ネゴシエイテッド・コミットメントの形成は、双方が情報と意向を開示することで不確実性を互いに解消していく過程である。
2. 可変性: コミットメントは一度形成されれば固定されるのではなく、状況の変化や新たなステークホルダーの参加に応じて再交渉(renegotiation)される(Sarasvathy, 2008, p. 75)。既存のコミットメントは常に暫定的であり、更新可能な合意として機能する。
3. 双方向の変容: 起業家のビジョンがステークホルダーへの対話によって変わるだけでなく、ステークホルダー自身の期待と意図も対話を通じて変容する。コミットメントは「起業家が確保するもの」ではなく「共同で生成されるもの」である。
コーゼーション的な契約との対比
コーゼーション的な意思決定プロセスでは、事業計画が先行し、計画の実行に必要なパートナーが選定・契約される。この場合のコミットメントは「計画の実行役として何を提供するか」という合意であり、計画に先行するパートナーの意向は原則として考慮されない。計画がコミットメントの形を決める、という論理構造である(Sarasvathy, 2001, pp. 247–249)。
ネゴシエイテッド・コミットメントはこれと逆の論理をとる。コミットメントが計画を決める。起業家がある方向性を持って接触した潜在パートナーが「私はこれを提供できる」「ただしこの条件であれば」と応じた瞬間、その内容が事業のアーキテクチャの一部となる。目標は交渉の残余として結晶化する。
エフェクチュアル・サイクルにおける位置づけ
Sarasvathy(2008)のエフェクチュアル・サイクルの図式において、ネゴシエイテッド・コミットメントはサイクルの駆動軸を担う。
サイクルは以下のように進行する。起業家は自分の手中の手段(who I am / what I know / whom I know)から出発し、潜在的なステークホルダーと対話する。対話を通じて相互のコミットメントが形成され、コミットメントによって起業家の利用可能な手段が拡張される。拡張された手段が新たな対話を可能にし、さらなるコミットメントが形成される(Sarasvathy, 2008, pp. 97–114)。
この反復を通じて事業の方向性と目標が徐々に輪郭を持ち始める。ネゴシエイテッド・コミットメントはこのサイクルを各イテレーションで推進するエンジンであり、クレイジーキルト原則を動作させる具体的な機構でもある。
コミットメントの「棄却」も設計に含まれる
Sarasvathy(2008)は、ネゴシエイテッド・コミットメントの形成プロセスにおいて、コミットメントが棄却されること(some may be rejected)も通常の機能として含まれると述べている(p. 76)。
すべての対話がコミットメントに至るわけではなく、交渉が決裂することもある。しかしこれは失敗ではない。棄却を通じて、起業家は「この方向では協力者が得られない」という情報を獲得する。棄却の積み重ねは事業の実行可能な方向性を絞り込む機能を果たし、計画外のルートが浮かび上がるきっかけにもなる。
この点はサプライズとしての機会(Surprise as Opportunity)の概念とも連動しており、予期しない棄却が創造的な方向転換を促すことをSarasvathy(2008)は複数の事例で示している。
プレコミットメントとの関係
ネゴシエイテッド・コミットメントとプレコミットメントは密接に関連しているが、強調点が異なる。
プレコミットメントは「不確実な段階での具体的なリソース投入の約束」という、コミットメントのタイミングと性質(不確実性下での資源投入)に焦点を当てた概念である。これに対してネゴシエイテッド・コミットメントは、コミットメントが形成されるプロセスと論理(交渉を通じた目標の生成)に焦点を当てた概念である。
実際の起業プロセスでは両者は不可分に絡み合う。ステークホルダーとの交渉(ネゴシエイテッド・コミットメント)によって、相手が「この段階で自分のリソースを投入する」という意思決定(プレコミットメント)が引き出される、という関係にある。
実践への示唆
起業において「対話の設計」が問われるのは、ネゴシエイテッド・コミットメントがそこで生まれるからだ。
コーゼーション的な思考は「完成した計画を売り込む」ことをパートナー獲得の起点とするが、エフェクチュエーション的な対話は逆の構造をとる——相手が何を持ち、何を期待しているかを聞き取り、自分の意図と相手の意向が重なる領域を共に発見していく。Sarasvathy(2008)がエフェクチュアル・アスクと呼ぶこの技法は、ネゴシエイテッド・コミットメントを引き出す実践的な手続きとして機能する。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Sarasvathy, S. D., Dew, N., Velamuri, S. R., & Venkataraman, S. (2003). Three views of entrepreneurial opportunity. In Z. J. Acs & D. B. Audretsch (Eds.), Handbook of Entrepreneurship Research (pp. 141–160). Kluwer Academic Publishers.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.