人物

ハーバート・サイモン

限定合理性の概念で1978年ノーベル経済学賞を受賞。Sarasvathyの博士課程の指導教員であり、エフェクチュエーション理論の知的基盤を形成した。

目次
English
Herbert A. Simon
肩書
教授(故人)
所属
カーネギーメロン大学
役割
研究者ノーベル賞受賞者指導教員

「人間は合理的に判断できる」という前提は正しいのか

ビジネスの世界では、合理的な意思決定が当然のように求められる。市場データを収集し、費用対効果を分析し、最適な選択肢を選ぶ。経営学の教科書はこのプロセスを「合理的意思決定モデル」として教え、MBAプログラムはその実践力を鍛えることを目的としている。しかし、現実の経営者は本当に完全に合理的な判断を行っているのだろうか。情報が不完全で、時間が限られ、認知能力に制約がある中で、「最適解」を求めることは果たして可能なのか。ハーバート・A・サイモン(Herbert A. Simon)は、この問いに正面から取り組み、経済学と経営学の根本的前提を覆した研究者である。そして彼の知的遺産は、弟子であるSaras Sarasvathyを通じてエフェクチュエーション理論へと結実する。

限定合理性——20世紀の社会科学を変えた概念

サイモンは1916年にアメリカ・ミルウォーキーに生まれ、シカゴ大学で政治学の博士号を取得した。1947年に出版された主著 Administrative Behavior(邦題『経営行動』)において、彼は「限定合理性(Bounded Rationality)」という概念を提唱した(Simon, 1947)。

古典的経済学は「経済人(homo economicus)」を前提としていた。すなわち、人間は利用可能なすべての情報を収集し、すべての選択肢を比較評価し、効用を最大化する選択を行う合理的主体であるという仮定である。サイモンはこの仮定を根本から問い直した。現実の人間は、情報収集能力にも、計算能力にも、時間にも制約がある。したがって、人間が実際に行うのは「最適化(optimizing)」ではなく「満足化(satisficing)」——すなわち、十分に良い選択肢を見つけた時点で意思決定を行うというプロセスである(Simon, 1947, pp. 76–84)。

この「限定合理性」の概念は、経済学、経営学、政治学、心理学、人工知能研究など、社会科学の広範な分野に影響を及ぼした。1978年、サイモンはこの研究業績によりノーベル経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)を受賞した。

人工科学と設計の論理

サイモンのもう一つの重要な著作が、1969年に初版が出版された The Sciences of the Artificial(邦題『システムの科学』)である(Simon, 1996は第3版)。この著作でサイモンは「人工物の科学(sciences of the artificial)」という概念を提唱した。自然科学が「あるがままのもの(things as they are)」を対象とするのに対し、人工科学は「あるべきもの(things as they might be)」を対象とする。工学、建築学、医学、経営学などの専門職は、現状を分析するだけでなく、望ましい状態を設計し実現する営みである。

この「設計の論理」は、エフェクチュエーション理論の重要な知的基盤となっている。Sarasvathy(2008)は、エフェクチュエーションを「予測の論理(predictive logic)」ではなく「設計の論理(design logic)」に基づく意思決定アプローチとして位置づけているが、この枠組みはサイモンの人工科学の思想を直接的に継承するものである。

Sarasvathyの指導教員として

サイモンとエフェクチュエーション理論の関係は、純粋に知的影響にとどまらない。サイモンは、カーネギーメロン大学においてSaras Sarasvathyの博士課程の指導教員であった(Sarasvathy, 2008, p. ix)。Sarasvathyがエフェクチュエーション理論を構築する過程で、サイモンの存在は決定的であった。

限定合理性の概念は、エフェクチュエーション理論の論理的出発点となっている。もし人間が完全に合理的であるならば、起業家は市場のあらゆる情報を収集・分析し、最適な事業計画を立案して実行すればよい。しかし、サイモンが示したように人間の合理性は限定されている。さらに、起業の文脈では市場そのものがまだ存在しないか、形成途上にあるため、収集すべき情報自体が存在しない。このような状況で、熟達した起業家はどのような意思決定ロジックを用いるのか——これがSarasvathyの博士論文の中核的問いであり、その答えがエフェクチュエーション理論であった。

サイモンの「限定合理性」は問題の所在を明らかにし、Sarasvathyの「エフェクチュエーション」はその問題に対する起業家の実践的解を体系化した。師から弟子へと続くこの知的系譜は、20世紀後半から21世紀にかけての意思決定研究における最も生産的な学問的継承の一つである。

多領域にわたる知的遺産

サイモンの貢献は意思決定理論にとどまらない。彼はAllen Newellとともに人工知能研究の先駆者でもあり、初期のコンピュータプログラム “Logic Theorist”(1955年)や “General Problem Solver”(1957年)の開発に携わった。認知科学、組織理論、計算機科学、経済学という複数の分野にまたがる彼の業績は、「学際性」という言葉が日常的に使われるようになる遥か以前から、学問の境界を超えた思考の模範を示していた。2001年にサイモンが逝去した後も、その知的遺産は弟子や後続の研究者を通じて発展し続けている。

こんな人にサイモンの研究は示唆を与える

  • エフェクチュエーション理論の知的ルーツを理解したい人: 限定合理性の概念なくしてエフェクチュエーション理論は生まれなかった
  • 意思決定の質を高めたいビジネスパーソン: 「最適解を求める」から「十分に良い解を迅速に見つける」へと発想を転換できる
  • 人工知能や認知科学に関心を持つ研究者: サイモンはこれらの分野の創始者の一人である

サイモンの思想を学ぶために

まず Simon(1947)の Administrative Behavior を読み、限定合理性の概念を理解することを勧める。次に Simon(1996)の The Sciences of the Artificial で設計の論理を学ぶ。その上で Sarasvathy(2008)を読むと、師から弟子へと受け継がれた知的系譜が鮮明に見えてくる。サイモンを知ることは、エフェクチュエーション理論が「なぜそのような形で生まれたのか」を根本から理解することに他ならない。サラス・サラスバシーの研究がどのようにサイモンの知的遺産を継承し発展させたかは、エフェクチュエーション研究全体を理解する上で不可欠な視点である。


引用・参考文献

  • Simon, H. A. (1947). Administrative Behavior: A Study of Decision-Making Processes in Administrative Organization. Macmillan.
  • Simon, H. A. (1996). The Sciences of the Artificial (3rd ed.). MIT Press.
  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.