目次
- English
- Phillip H. Phan
- 肩書
- アロンゾ・アンド・バージニア・デッカー戦略・起業家研究寄付講座教授
- 所属
- ジョンズ・ホプキンス大学ケアリー・ビジネス・スクール
- 役割
- 研究者教授ジャーナル編集者起業家教育者
大企業の中の「起業家的意思決定」を研究する
Sarasvathy(2008)が提唱したエフェクチュエーション理論は、熟達した起業家の認知パターンに基づいた意思決定論である。この理論の最も重要な応用課題の一つが、「大企業の内側でエフェクチュエーション的な意思決定が機能するための条件は何か」という問いである。この問いに実証的なアプローチで取り組んできた研究者が、フィリップ・ファン(Phillip H. Phan)である。
Phan は、ジョンズ・ホプキンス大学ケアリー・ビジネス・スクール(Johns Hopkins Carey Business School)のアロンゾ・アンド・バージニア・デッカー戦略・起業家研究寄付講座教授(Alonzo and Virginia Decker Professor of Strategy and Entrepreneurship)を務める。同大学の起業家研究・イノベーション研究の主要人物であり、コーポレートガバナンス、企業内起業(Corporate Entrepreneurship)、科学技術パーク研究の3領域に跨る幅広い研究実績を持つ(Phan, 2004, p. 617)。
経歴と研究的バックグラウンド
Phan は博士課程をカナダの大学で修了し、その後北米・アジアの複数の大学で教鞭を取ってきた。ジョンズ・ホプキンス大学に着任する以前には、ランソン・スクール・オブ・マネジメント(バージニア州)でも教授を務め、一貫して起業家的意思決定と組織イノベーションの研究を続けてきた。
研究手法の面では、Phan は大規模なパネルデータ分析と実証的な組織研究を得意とする。Journal of Business Venturing、Strategic Management Journal、Academy of Management Journal などの主要ジャーナルでの査読付き論文発表に加え、長年にわたってジャーナルの編集委員を務めてきた経歴を持つ。
主要研究1:企業内起業のエコシステム論
Phan et al.(2009)「Corporate Entrepreneurship: Current Research and Future Directions」(Journal of Business Venturing 24巻3号)は、大企業内でのイノベーションに関する文献を体系的にレビューした論文であり、企業内起業(Intrapreneurship / Corporate Entrepreneurship)研究のランドマーク的な位置づけを持つ(Phan et al., 2009, pp. 197–205)。
この研究の核心的な発見は、大企業の継続的なイノベーションに必要な条件が「個人レベルの起業家的行動」だけでは成立しないという点である。組織構造・インセンティブ設計・トップマネジメントの明示的なコミットメントという3要素が揃って初めて、持続可能な企業内起業が可能になる。
エフェクチュエーション理論との接点が特に鮮明なのは、「トップマネジメントによる許容可能な損失の公式設定」が、社内起業家の行動を促す決定的要因であるという発見である。「失敗した場合にどこまで許容するか」を経営陣が組織として明言することで、許容可能な損失の原則が組織的な意思決定の基準として機能するようになる(Phan et al., 2009, pp. 200–203)。この発見は、個人の起業家的意思決定論であるエフェクチュエーションを、組織設計論へと橋渡しする重要な研究貢献である。
主要研究2:サイエンスパーク・テクノロジーパーク研究
Phan & Siegel(2006)「The Effectiveness of University Technology Transfer」(Foundations and Trends in Entrepreneurship 2巻2号)は、大学・研究機関に付設されたサイエンスパーク・テクノロジーパークが、知識の移転と起業的活動の促進においてどの程度有効かを実証的に検討した研究である(Phan & Siegel, 2006, pp. 77–144)。
研究が示した最も重要な発見は、物理的な近接性(サイエンスパーク内にいること)よりも、ネットワークの質と相互作用のパターンが、知識移転の実効性を決定するという点であった。この知見は、手中の鳥の原則における「Whom I know(誰を知っているか)」の重要性と直接対応する。技術移転において機能するのは「場所の共有」ではなく「人的ネットワークを通じた信頼関係の共有」であるという実証的発見は、エフェクチュエーション理論の手段論を大学発ベンチャーの文脈で裏打ちする知見である。
主要研究3:コーポレートガバナンスと起業家的意思決定
Phan の研究の第3の柱は、コーポレートガバナンスが組織の起業家的意思決定能力に与える影響の分析である。取締役会の構成、経営者と株主の利益相反、監督メカニズムと起業家的自由度の緊張関係——これらのテーマは、大企業がなぜイノベーションに失敗するかという問いの制度的側面を照らし出す。
この研究群が示す含意は、エフェクチュエーション的な意思決定が大企業内で機能するためには、ガバナンス構造そのものが「実験と学習」を許容するよう設計されている必要があるという点である。取締役会が短期的な収益指標にのみ焦点を当てる場合、経営陣が許容可能な損失の原則に基づいた実験的意思決定を行うことは構造的に困難となる。
Sarasvathyとの学術的交流
Phan と Sarasvathy は、アントレプレナーシップ研究の主要学会(Academy of Management、Babson College Entrepreneurship Research Conference など)を通じて長年の交流を持つ。両者の研究は理論的アプローチで異なりながら、「大企業内でのイノベーション促進」という共通課題において相補的な関係にある。
Sarasvathy がエフェクチュエーションの心理的・認知的メカニズムを精緻化してきたのに対し、Phan は組織的・構造的・制度的な条件に焦点を当てている。「エフェクチュエーション的な起業家が大企業内で機能するためにはどんな組織設計が必要か」という問いへの答えを、Phan の研究は組織論・ガバナンス論の視点から提供する。
研究の実務的示唆
Phan の研究から得られる実務的示唆を、エフェクチュエーション理論の文脈で整理すると以下のようになる。
イントレプレナー(社内起業家)向け: 組織内でエフェクチュエーション的に動くためには、「トップマネジメントが許容可能な損失をどこに設定しているか」を把握することが重要である。明示されていない場合は、その明示化を働きかけることが、社内起業の安全地帯を作る第一歩となる。
組織設計担当者向け: イノベーションを組織の制度的条件から支えるためには、「失敗した場合のダウンサイドを組織として公式に設定し、その範囲内での実験に経営陣が明示的にコミットする」という構造が必要である。
大学・研究機関のイノベーション推進担当者向け: サイエンスパーク的な「場の提供」だけでは知識移転は起きない。信頼関係に基づく人的ネットワークの構築が、エフェクチュエーション的な知識活用の実質的な基盤となる。
引用・参考文献
- Phan, P. H. (2004). Entrepreneurship theory: Possibilities and future directions. Journal of Business Venturing, 19(5), 617–620.
- Phan, P. H., & Siegel, D. S. (2006). The effectiveness of university technology transfer. Foundations and Trends in Entrepreneurship, 2(2), 77–144.
- Phan, P. H., Wright, M., Ucbasaran, D., & Tan, W. L. (2009). Corporate entrepreneurship: Current research and future directions. Journal of Business Venturing, 24(3), 197–205.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.