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きょようかのうなそんしつ
「いくら儲かるか」で判断して、動けなくなっていないか
新規事業やスタートアップに取り組む際、多くの人が最初に考えるのは「どれくらいのリターンが見込めるか」という問いである。市場規模を調べ、売上予測を立て、期待リターンが投資額を上回るかどうかを計算する。これは財務理論における正統的なアプローチであり、既存市場への参入や設備投資の判断においては極めて合理的な方法である。しかし、市場が存在するかすら分からない不確実性の高い状況では、この「期待リターン最大化」のアプローチが深刻な問題を引き起こす。予測の前提となるデータが存在しないため、どれだけ精緻に計算しても数字に根拠がなく、結局「リターンが読めないから投資できない」という意思決定の麻痺に陥るのである(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
熟達した起業家は「いくらまでなら失えるか」で考える
Sarasvathy(2008)がシンク・アラウド・プロトコル実験で27名の熟達した起業家を観察した結果、彼らの多くは期待リターンではなく、「自分がいくらまでなら失っても大丈夫か」を基準に意思決定を行っていた(Sarasvathy, 2008, pp. 35–50)。ある起業家は「最悪このお金を全額失っても、家族を養えるし、次の挑戦もできる」と語り、別の起業家は「半年分の生活費は確保してあるから、それ以外は全部賭けられる」と述べた。彼らに共通していたのは、不確実な未来のリターンを見積もるのではなく、確実に把握できる「現在の自分が許容できる損失」を起点に行動していたことである。
許容可能な損失の原則とは何か
許容可能な損失の原則(Affordable Loss Principle)は、エフェクチュエーションの5つの原則の一つであり、投資の意思決定において「期待リターンの最大化」ではなく「許容可能な損失の最小化」を基準とする考え方である(Sarasvathy, 2008, p. 35)。この原則の核心は、不確実な状況では「いくら儲かるか」を正確に予測することが原理的に不可能であるため、予測可能な「自分が失っても耐えられる範囲」を基準にすべきだという点にある。
損失を測る3つの軸
Dew et al.(2009)は、許容可能な損失を評価する際に考慮すべき3つの軸を提示している。
- 金銭的損失(Financial Loss): 投資する資金のうち、全額を失っても生活や事業継続に支障をきたさない金額。貯蓄の何割までを投入するか、月々のキャッシュフローにどの程度の余裕があるかで判断する
- 時間的損失(Time Loss): そのプロジェクトに費やす時間が失われた場合の機会費用。たとえば6ヶ月をフルタイムで投じるなら、その6ヶ月で他に得られたはずのキャリア経験や収入を考慮する
- 評判・社会関係資本の損失(Reputational Loss): 失敗した場合に自身の評判や人間関係に生じるダメージ。特に社内起業の場合、プロジェクトの失敗が昇進や社内での信頼に影響するかどうかが重要な判断材料となる
これら3つの軸は相互に関連しており、たとえば金銭的な損失が小さくても、評判の損失が大きければ許容範囲を超えることがある(Dew et al., 2009, pp. 290–292)。
期待リターン・アプローチとの本質的な違い
伝統的な投資理論では、期待リターン=(成功確率 x 成功時リターン)-(失敗確率 x 失敗時損失)という計算式に基づいて意思決定を行う。この計算が有効に機能するのは、成功確率と各シナリオの金額を合理的に推定できる場合のみである。Knight(1921)が定義した「リスク」の領域——すなわち確率分布が既知の状況——では、期待リターン・アプローチが最適解を導く。
しかし、Knight が「真の不確実性」と呼んだ領域——確率分布すら推定できない状況——では、期待リターンの計算そのものが成り立たない。エフェクチュエーションの許容可能な損失の原則は、まさにこの「ナイトの不確実性」に対応するために設計されたものである(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
許容可能な損失を実践に活かす3つのステップ
- 損失の棚卸し: 金銭・時間・評判の3軸について、現在の自分が失っても許容できる上限を具体的な数字で書き出す。「貯蓄の20%まで」「週末の10時間まで」「社外プロジェクトなので評判リスクはゼロ」といった具体性が重要である。この棚卸し作業は、手中の鳥の原則における手段の確認と組み合わせて行うと効果的である
- 許容範囲内での最初の一歩を設計する: 棚卸しした許容範囲の中で実行可能な最小限のアクションを決める。たとえば「5万円と週末2回で、プロトタイプを作ってターゲット顧客5人にヒアリングする」というように、損失上限から逆算して行動を設計する
- 学びに基づいて許容範囲を再評価する: 最初の行動から得られた学びに基づいて、追加投資の可否を判断する。ポジティブなフィードバックが得られれば許容範囲を広げ、ネガティブであれば損失を確定させて撤退する
この原則が特に有効な人
- 新規事業を検討しているが「リターンが読めない」ことを理由に踏み出せていない人
- 限られた資金で起業を考えている個人や学生起業家
- 社内新規事業で投資稟議の数字に根拠を持てず苦労しているイントレプレナー
- 副業やサイドプロジェクトとして小さく始めたいビジネスパーソン
- 起業家教育に携わり、リスクテイクの考え方を教えたい教育者
まず「失える範囲」を書き出してみよう
今すぐノートを開き、金銭・時間・評判の3つについて「ここまでなら失っても大丈夫」という具体的な数字を書き出してみることを勧める。この作業には10分もかからないが、「動けない」状態を「動ける」状態に変える強力な効果がある。許容範囲が明確になった瞬間、不確実性は恐怖ではなく実験のフィールドに変わるのである。
引用・参考文献
- Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.