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AirAsiaのエコシステム・エフェクチュエーション——航空会社からデジタル企業への転身

フリート98%地上待機からデジタルライフスタイル企業へ転換したAirAsiaの事例を分析。エコシステム・エフェクチュエーションの新概念を解説。

約15分
目次

航空産業の需要「蒸発」とAirAsiaの危機的状況

COVID-19パンデミックによる国境封鎖と移動制限は、航空産業に対して需要の「減少」ではなく「蒸発」をもたらした。2020年4月時点で、東南アジア最大のLCC(格安航空会社)であるAirAsiaは、保有フリートの98%が地上待機という事態に直面し、本業である航空輸送からの収入が事実上途絶した(Radziwon et al., 2022)。

多くの航空会社がこの危機に対して取った対応は、コーゼーション(因果論的アプローチ)に基づく縮小均衡戦略であった。大規模な人員削減、路線の大幅縮小、政府支援への依存といった、既存ビジネスモデルの延長線上での損失最小化である。しかしAirAsiaは、この極限的な状況において、全く異なる道を選択した。コスト削減による耐え忍びではなく、「デジタル・ライフスタイル企業」への転換という急進的な事業再定義を断行したのである。

Radziwon et al.(2022)がこの事例を学術的に分析した論文は、スタートアップだけでなく既存の巨大企業(インカンベント)がエフェクチュエーションを適用しうることを実証した点で、エフェクチュエーション研究の理論的射程を大きく拡張するものとなった。

エコシステム・エフェクチュエーションという新概念

Radziwon et al.(2022)が本事例の分析を通じて提示した**「エコシステム・エフェクチュエーション(Ecosystem Effectuation)」は、エフェクチュエーション理論の発展において画期的な概念である。従来のエフェクチュエーション研究は、個々の起業家や単一企業の意思決定プロセスに焦点を当ててきた。エコシステム・エフェクチュエーションは、この分析単位を企業を取り巻くエコシステム全体**に拡張する。

エコシステム・エフェクチュエーションの核心は、単一企業の枠組みを超えて、サプライヤー、パートナー企業、顧客、地域コミュニティ、さらには競合企業をも含む多様なステークホルダーとの相互作用のなかで、エフェクチュエーションの諸原則が作動するメカニズムを捉える点にある。AirAsiaの事例は、この概念の最も包括的な実践例として位置づけられる。

許容可能な損失のエコシステム的管理

AirAsiaの危機対応の第一段階は、許容可能な損失(Affordable Loss)原則のエコシステム的適用であった。同社は第2四半期までに航空会社の運営費を72%削減するという大胆なコスト構造の再設計を実行した。

しかし、この削減は単なる一方的な切り詰めではなく、リース会社や債権者とのシビアな再交渉を通じて実現されたものである。航空機リースの支払い条件の見直し、債務の再スケジューリング、運営コストの段階的縮小は、AirAsia単独の意思決定ではなく、エコシステムを構成する関係者間の相互依存性の再確認と共有のプロセスであった。

リース会社にとっても、AirAsiaの倒産は航空機の引き取り先を失うことを意味する。債権者にとっても、清算よりも事業継続のほうが回収額が大きい。この相互依存性の認識に基づく交渉は、許容可能な損失原則を個別企業の意思決定からエコシステム全体のサバイバル戦略へと昇華させた点で、従来のエフェクチュエーション研究にはなかった視座を提供している。

Redbeat Academy——手中の鳥の文字通りの転用

AirAsiaの危機対応で最も独創的かつ象徴的な施策の一つが、Redbeat Academyを通じた人的資本のリスキリング(再教育)である。

パイロットからデジタル人材へ

航空会社にとって最も価値の高い人的資産の一つがパイロットである。フリートの98%が地上待機となった状況では、パイロットは文字通り「飛べない鳥」となった。コーゼーション的な対応であれば、需要回復までの一時解雇(レイオフ)が合理的な選択肢となる。しかしAirAsiaは、エフェクチュエーションの手中の鳥原則(Bird-in-Hand)——ここでは文字通りの「パイロット・イン・ザ・プレーン」原則でもある——を適用し、パイロットを含む乗務員やスタッフをデジタル人材として再教育する道を選んだ。

Redbeat Academyは、データ分析、デジタルマーケティング、Eコマース運営、プログラミングといったスキルの習得プログラムを提供し、航空事業の人的資源をデジタル事業の推進力へと転換した。この施策は、「自分が誰で(Who I am)、何を知っていて(What I know)、誰を知っているか(Whom I know)」を起点とする手中の鳥原則の、最もスケールの大きな実践例の一つである。

リスキリングの戦略的意義

この人的資本の転用には、短期的なコスト削減を超えた戦略的意義がある。パイロットや客室乗務員は、高度な訓練を受けた人材であり、採用・育成コストが極めて高い。一時解雇した場合、需要回復時の再雇用が困難となり、長期的には航空事業の競争力が毀損される。Redbeat Academyによるリスキリングは、許容可能な損失の範囲内で人的資本を維持しながら、新規事業の担い手として活用するという二重の合理性を備えていた。

クレイジーキルトによるエコシステムの開放

AirAsiaのエコシステム・エフェクチュエーションの核心は、クレイジーキルト原則に基づく自社プラットフォームの外部開放にある。同社は航空事業で蓄積した技術基盤と顧客基盤を活用して、複数の新規事業を同時に展開した。

Ourshop——1週間で1,000社のエコシステム構築

Eコマースプラットフォーム「Ourshop」は、外部の中小企業(SME)に対してAirAsiaのデジタルインフラを開放するプロジェクトとして立ち上げられた。注目すべきは、ローンチからわずか1週間で1,000社以上のSMEが加盟したというスピードである。

このスピードは、AirAsiaがすでに保有していた顧客基盤(数千万人の航空券予約データベース)、決済インフラ、モバイルアプリのユーザーベースといった既存の手段があったからこそ実現した。ゼロからEコマースプラットフォームを構築するのではなく、「手元にある手段で何が創れるか」を問い直すエフェクチュエーション的思考の産物である。

Teleport、BigPay、Santan——多角的なリソース転用

Teleportは、航空貨物のインフラとネットワークを転用したラストマイル配送サービスである。パンデミックによってEコマースの配送需要が爆発的に増加するなか、AirAsiaの物流ケイパビリティは航空貨物から地上配送へとシームレスに転用された。

BigPayは、航空事業で取得していた金融ライセンスとフィンテック技術を活用したデジタル決済サービスである。東南アジアでは銀行口座を持たない人口(アンバンクト層)が多く、モバイル決済への潜在的需要は大きい。航空券の予約・決済で培ったノウハウが、金融サービスという全く異なるドメインへと転用された。

Santanは、機内食の開発・提供で蓄積した食品製造のノウハウを地上レストランとして展開する事業である。航空機が飛ばない状況下で、機内食のサプライチェーンとレシピ開発能力は遊休資源となっていた。この遊休資源を地上の飲食事業へ転用することで、新たな収益源を創出した。

Massa & Tucciのビジネスモデルデザイン理論との接続

Massa & Tucci(2013)のビジネスモデル理論によれば、企業のビジネスモデルに対するアプローチは大きく二つに分類される。既存のビジネスモデルの**「再構成(Reconfiguration)」と、ゼロからの「デザイン(Design)」**である。通常、大企業は前者——既存モデルの漸進的な修正——にとどまり、後者——白紙からの設計——はスタートアップの領域とされてきた。

AirAsiaの事例が学術的に画期的であるのは、大企業がビジネスモデルの「ゼロベースのデザイン」をエフェクチュエーションを通じて実現した点にある。航空会社というビジネスモデルの枠組みが崩壊したという巨大な「レモン」を、東南アジアのデジタル経済圏における総合プラットフォーマーへの飛躍という「レモネード」へと変容させた。

インカンベントのエフェクチュエーション適用における理論的示唆

この事例は、エフェクチュエーション理論の適用範囲に関する重要な理論的示唆を含んでいる。Sarasvathy(2001)が当初提示したエフェクチュエーションは、熟練した起業家(expert entrepreneurs)の意思決定論理として概念化された。その後の研究においても、分析対象は主にスタートアップやSMEに限定される傾向があった。

AirAsiaの事例は、エフェクチュエーションがスタートアップの専売特許ではなく、危機下のインカンベントにおいても、さらにはエコシステム全体の戦略としても適用可能であることを実証した。ただし、大企業がエフェクチュエーションを適用する際には、スタートアップとは異なる固有の条件が存在する。大規模な既存資産(フリート、人材、ブランド、顧客基盤)の存在は手中の鳥原則の適用スケールを拡大する一方で、組織の慣性(inertia)や既存のルーティンへの依存が、柔軟な意思決定を阻害するリスクも伴う。

AirAsiaがこの障壁を克服できた要因の一つは、創業者トニー・フェルナンデスの起業家的リーダーシップであると考えられる。同氏はLCCという事業モデル自体が伝統的な航空業界のディスラプションであり、創業以来、不確実性下での意思決定に習熟していた。Korber & McNaughton(2018)のフレームワークにおける第1ストリーム——起業家の心理的資本としてのレジリエンス——が、エコシステム・エフェクチュエーションの起動条件として機能したと解釈できる。

エコシステム・エフェクチュエーションの一般化可能性

AirAsiaの事例から抽出されるエコシステム・エフェクチュエーションの概念は、航空産業固有の現象にとどまるものではない。自社のプラットフォームやインフラを外部に開放し、多様なステークホルダーとの共創によって新たな価値ネットワークを構築するというアプローチは、あらゆる産業において適用可能な戦略的フレームワークである。

ただし、エコシステム・エフェクチュエーションの実践には、単一企業のエフェクチュエーションにはない固有の課題も存在する。エコシステム参加者間の利害調整、プラットフォームのガバナンス設計、価値分配のメカニズムといった課題は、クレイジーキルト原則の適用においてより高度な調整能力を要求する。

AirAsiaのケースは、パンデミックという極限的な状況がこれらの調整コストを劇的に低下させたという特殊条件のもとで実現した側面もある。「生存」という共通目標がエコシステム参加者の利害を一致させ、平時であれば数か月から数年を要する交渉プロセスが、数日から数週間に圧縮されたのである。この観察は、エコシステム・エフェクチュエーションが最も効果的に機能する条件——高い不確実性と共通の危機感——についての示唆を含んでいる。

「クレイジーキルトの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。


参考文献

  • Radziwon, A., Bogers, M., Chesbrough, H., & Minssen, T. (2022). Ecosystem effectuation: Creating new value through open innovation during a pandemic. R&D Management, 52(2), 376–390.
  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Massa, L., & Tucci, C. L. (2013). Business model innovation. In M. Dodgson, D. M. Gann, & N. Phillips (Eds.), The Oxford Handbook of Innovation Management (pp. 420–441). Oxford University Press.
  • Korber, S., & McNaughton, R. B. (2018). Resilience and entrepreneurship: A systematic literature review. International Journal of Entrepreneurial Behavior & Research, 24(7), 1129–1154.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.

参考書籍

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