目次
導入——消えゆく産業から新たな価値を創り出す
2000年代初頭、デジタルカメラの普及により写真フィルムの需要は急速に消滅した。世界最大のフィルムメーカーであったKodakは2012年に経営破綻した。同じ危機に直面した富士フイルムは、なぜ生き残れたのか。
その答えは、写真フィルムの製造過程で蓄積された技術を全く異なる分野に転用したことにある。化粧品、医薬品、高機能材料——これらの新事業はいずれも、フィルム技術という「手中の鳥」から始まった。エフェクチュエーション理論の「手中の鳥」原則が、この構造転換を明快に説明する。
企業・人物の概要——フィルム技術の知的資産
富士フイルム(旧・富士写真フイルム)は1934年に設立された。写真フィルム、印画紙、映画用フィルムの製造を主力事業とし、コダックに次ぐ世界第2位のフィルムメーカーとして成長した。
写真フィルムの製造は、外部からは「化学の塊」であることが見えにくい。しかし実態は、コラーゲン(ゼラチン)の精製、抗酸化剤の配合、ナノレベルでの微粒子分散、精密薄膜塗布など、高度な化学技術と精密加工技術の集積体であった。
2003年に社長(後にCEO兼会長)に就任した古森重隆は、デジタル化の波を見据え、**「第二の創業」**を宣言した。フィルム事業の縮小を受け入れつつ、蓄積された技術資産を新たな成長領域に振り向ける戦略的転換を主導した。
イノベーションの経緯——フィルム技術からヘルスケアへ
技術の棚卸し
古森は就任直後、社内の技術資産を徹底的に棚卸しすることを指示した。写真フィルムの製造に関わる約20万件の特許と技術知見が洗い出された。
この棚卸しの結果、写真フィルムの技術が複数の成長分野に転用可能であることが明らかになった。特に注目されたのは以下の技術群であった。コラーゲン(ゼラチン)の精製・加工技術、抗酸化技術、ナノ分散技術、精密薄膜塗布技術である。
化粧品事業「ASTALIFT」の立ち上げ
写真フィルムの主原料であるゼラチンはコラーゲンから作られる。コラーゲンは肌の弾力を維持する成分でもある。富士フイルムはフィルム製造で培ったコラーゲンの精製・安定化技術を化粧品に転用した。
さらに、写真の退色を防ぐ抗酸化技術は、肌の老化(酸化)を防ぐスキンケアに直結する。ナノ分散技術は、有効成分を肌の奥まで届ける技術に応用された。
2007年、**スキンケアブランド「ASTALIFT」**が発売された。写真フィルムメーカーが化粧品を売るという違和感は、「フィルムも肌も、コラーゲンと抗酸化がカギ」という技術的本質を理解すれば合理的であった。
医薬品・医療機器への展開
富士フイルムは化粧品にとどまらず、医薬品・再生医療分野にも進出した。2008年には富山化学工業を買収し、医薬品事業に本格参入した。
さらに、精密薄膜塗布技術は内視鏡や診断機器のレンズ技術に転用され、富士フイルムメディカルの基盤となった。X線フィルムの技術はデジタル画像診断システムに進化した。
高機能材料分野
液晶ディスプレイに使用される**偏光板保護フィルム(TACフィルム)**は、もともと写真フィルムのベースフィルム技術から派生したものである。富士フイルムは世界シェアの約70%を占めるに至った。
エフェクチュエーション原則の分析——「手中の鳥」が企業存続を決めた
Who I am:化学技術の集積体としてのアイデンティティ
Sarasvathy(2001)が定義する「手中の鳥」の第一要素——「自分は誰か」——において、富士フイルムの自己認識の転換が決定的であった(Sarasvathy, 2001, p. 250)。
古森が行ったのは、「自分たちは写真フィルムメーカーである」から「自分たちは高度な化学技術の集積体である」へのアイデンティティの再定義であった。同じ技術基盤を持ちながらKodakが破綻したのは、アイデンティティを「フィルムメーカー」から転換できなかったことが一因とされる。
What I know:20万件の特許に結実した技術知識
富士フイルムの最大の「手中の鳥」は、70年以上にわたるフィルム製造で蓄積された化学技術の知識であった。コラーゲン精製、抗酸化、ナノ分散、精密塗布——これらの知識は、フィルム市場が消滅しても消えない。
Sarasvathy(2008)が指摘する通り、エフェクチュエーション的起業家の「知識」は行動の出発点となる(Sarasvathy, 2008, p. 16)。富士フイルムの場合、技術知識の「棚卸し」という行為自体が、新たな事業機会の発見を可能にした。
Whom I know:既存のサプライチェーンと顧客関係
富士フイルムは化学メーカー、精密機械メーカー、医療機関など、多様な産業との取引関係を持っていた。化粧品事業への参入においても、原料調達のサプライチェーンや品質管理体制は既存の関係性を活用できた。
Sarasvathy(2008)の「クレイジーキルトの原則」——既存のステークホルダーからコミットメントを引き出す——が、異分野への進出を支えたのである(Sarasvathy, 2008, pp. 15–16)。
因果論との対比
因果論的アプローチであれば、まず化粧品市場や医薬品市場の規模と成長性を分析し、参入障壁を評価し、ターゲットセグメントを設定してから技術開発に着手する。富士フイルムはまず自社の技術を棚卸しし、その技術が活かせる市場を探した。市場から出発するのではなく、手段から出発する——Sarasvathy(2001)が定義するエフェクチュエーションの本質そのものである(Sarasvathy, 2001, p. 245)。
実務への示唆——「技術の再定義」が生存戦略になる
富士フイルムの事例が実務家に提示する教訓は3つある。第一に、アイデンティティの再定義は最も重要な戦略的行為である。「写真フィルムメーカー」から「化学技術企業」への転換は、保有する手段は同じでも、そこから見える可能性を根本的に変えた。自社を何者と定義するかが、手持ちの手段の活用範囲を規定する。
第二に、技術の「棚卸し」は能動的な経営行為である。富士フイルムの技術資産は棚卸し以前から存在していたが、体系的に可視化することで初めて転用先が見えた。手持ちの手段は、意識的に整理しなければ「手中の鳥」として機能しない。
第三に、市場の消滅は技術の消滅を意味しない。写真フィルム市場は消えたが、フィルム製造技術は化粧品・医薬品・高機能材料という新たな市場で価値を生んでいる。既存の手段を「別の文脈で使えないか」と問い直すことが、危機を転機に変えるエフェクチュエーション的思考である。
「手中の鳥の原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- 古森重隆 (2013). 『魂の経営』東洋経済新報社.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- 富士フイルムホールディングス (2023). 『統合報告書2023』.