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京セラ——セラミック技術の職人が多角的テクノロジー企業を築くまで

稲盛和夫がセラミック技術の専門知識と少数の仲間との人脈を手段に、京セラを町工場から多角的テクノロジー企業へ成長させた事例をエフェクチュエーションの「手中の鳥」原則で分析する。

約9分
目次

導入——「ファインセラミックスしか知らない男」の出発

京セラは今日、電子部品、通信機器、太陽電池、宝飾品まで手がける売上高2兆円超の多角的テクノロジー企業である。しかし1959年の創業時、創業者・稲盛和夫が持っていたのはファインセラミックスに関する専門知識と、彼を信じる7人の仲間だけであった。

事業計画の緻密さでも、市場機会の発見でもなく、手持ちの技術と人間関係から全てが始まった。エフェクチュエーション理論の「手中の鳥(Bird in Hand)」原則——「自分は誰か」「何を知っているか」「誰を知っているか」という手段からの出発——が、京セラの創業と成長のプロセスを的確に説明する。

企業・人物の概要——鹿児島から京都へ

稲盛和夫は1932年、鹿児島県に生まれた。鹿児島大学工学部応用化学科でファインセラミックスの研究に取り組み、1955年に卒業した。

最初の就職先は京都の碍子メーカー・松風工業であった。設備の貧弱な研究室で、稲盛はフォルステライト(ケイ酸マグネシウム系セラミックス)の合成に日本で初めて成功した。この成果は、松下電器(現パナソニック)のブラウン管テレビの絶縁材料として採用される。

しかし、研究の方向性をめぐる経営陣との対立から退職を決意。稲盛を慕う7人の同僚が「あなたと一緒に仕事がしたい」と辞表を出した。1959年、支援者の出資を得て京都セラミック株式会社(現・京セラ)が設立された。資本金300万円、従業員28名の町工場であった。

イノベーションの経緯——セラミックから多角化への道

ブラウン管部品からの出発

京セラの最初の製品は、**テレビのブラウン管に使用するセラミック製絶縁部品(U字ケルシマ)**であった。稲盛が松風工業で開発した技術をそのまま事業化したものである。

最初の顧客は松下電器であった。松風工業時代の取引関係が、そのまま京セラの最初の売上を生んだ。壮大な営業戦略ではなく、既存の人間関係が出発点であった。

ICパッケージへの展開

1960年代後半、半導体産業が急成長し始めた。IC(集積回路)にはセラミック製のパッケージが必要であった。稲盛はセラミックスの焼成・加工技術を応用し、ICパッケージの製造に参入した。

当初はアメリカのFairchild Semiconductorとの取引から始まった。セラミック焼成の精密制御という「手持ちの技術」が、半導体産業という急成長市場への参入切符となった。京セラはICセラミックパッケージで世界トップシェアを獲得するに至る。

多角化の論理

京セラの多角化は、一見すると脈絡がないように見える。電子部品、太陽電池、プリンター、宝飾品(再結晶宝石)、ホテル経営、通信事業(KDDI)——しかし、これらの多くはセラミック技術の応用か、経営手法(アメーバ経営)の横展開として説明可能である。

太陽電池はセラミック焼成技術の延長線上にあり、宝飾品は再結晶セラミック技術の応用である。手持ちの手段を起点に、その手段が活かせる「隣の領域」へ順次展開した結果としての多角化であった。

第二電電(DDI)の設立

1984年の通信自由化に際し、稲盛は第二電電(DDI、現KDDI)を設立した。**セラミック技術とは無関係に見えるが、「動機善なりや、私心なかりしか」**という自問から始まったと稲盛自身が述べている。

しかしエフェクチュエーション的に見れば、京セラグループの経営能力、稲盛個人の政財界人脈、そして通信機器メーカーとしての技術基盤という手段が、通信事業参入を可能にした。完全に手段から逸脱した飛躍ではなく、広義の「手中の鳥」の活用であった。

エフェクチュエーション原則の分析——「手中の鳥」が多角化を導いた

Who I am:セラミック技術者としてのアイデンティティ

Sarasvathy(2001)が定義する「手中の鳥」の第一要素——「自分は誰か」——において、稲盛のアイデンティティは「セラミック技術の専門家」であった(Sarasvathy, 2001, p. 250)。

重要なのは、このアイデンティティが**「セラミックしかできない」という制約ではなく、「セラミックから始められる」という出発点**として機能した点である。アイデンティティは可能性の制限ではなく、可能性の起点となった。

What I know:ファインセラミックスの焼成・加工技術

稲盛が持っていた知識——セラミック原料の調合、焼成温度の制御、精密加工の技法——は、松風工業での研究と実務で培われたものであった。

この技術知識は汎用性が高かった。Sarasvathy(2008)が指摘する通り、エフェクチュエーション的起業家の「知識」は固定的ではなく、新たな文脈に適用されることで拡張される(Sarasvathy, 2008, p. 16)。ブラウン管部品の知識がICパッケージに、ICパッケージの知識が太陽電池に——知識は応用のたびに深化・拡張された。

Whom I know:「一緒にやりたい」と言った7人

京セラ創業の直接的契機は、7人の同僚が稲盛と共に松風工業を辞めたことであった。この人脈は戦略的に構築されたものではなく、日々の仕事の中で育まれた信頼関係の結果である。

Sarasvathy(2008)の「クレイジーキルトの原則」——既存のステークホルダーのコミットメントから事業を形成する——が、創業メンバー7人の決断に象徴されている(Sarasvathy, 2008, pp. 15–16)。彼らのコミットメントがなければ、京セラは存在しなかった

因果論との対比

因果論的アプローチであれば、まず成長市場を特定し、参入戦略を策定し、必要な経営資源を調達してから事業を開始する。稲盛はセラミック技術という手段から出発し、その技術が求められる市場を順次見つけていった。Sarasvathy(2001)の表現を借りれば、**「手段から出発し、その手段の組み合わせから可能な結果を模索する」**典型例である(Sarasvathy, 2001, p. 245)。

実務への示唆——「手中の技術」を起点にした成長

京セラの事例が実務家に提示する教訓は3つある。第一に、**専門技術は「制約」ではなく「出発点」**である。セラミックスしか知らなかった稲盛は、セラミックスを起点に多角的企業を築いた。狭い専門性は、深い専門性でもある。深さが汎用性を生むのである。

第二に、「隣の領域」への段階的展開がリスクを抑える。ブラウン管部品→ICパッケージ→太陽電池→再結晶宝石——各ステップは既存技術の延長線上にあり、完全な未知への飛躍ではなかった。手持ちの手段が活かせる範囲で拡張を繰り返すことが、結果として大きな多角化を実現した。

第三に、人の「コミットメント」が手段の中で最も重要である。稲盛が最も重視したのは技術でも資金でもなく、人間の信頼関係であった。「あなたと一緒に仕事がしたい」という7人のコミットメントが京セラの出発点であったように、事業の根幹は人間関係にある。

「手中の鳥の原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。


引用・参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • 稲盛和夫 (2014). 『燃える闘魂』毎日新聞出版.
  • 稲盛和夫 (2004). 『生き方——人間として一番大切なこと』サンマーク出版.
  • Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.

参考書籍

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