事例研究 | その他

電子レンジ——レーダー技術者のポケットで溶けたチョコレートバーの奇跡

Percy Spencerがレーダー研究中にポケットのチョコが溶けた偶然から電子レンジを発明。軍事技術の民生転用をレモネード原則で分析する。

約10分
目次

導入——軍事レーダーから生まれた台所革命

現代の家庭に欠かせない電子レンジは、年間1億台以上が世界で販売される主要家電製品である。しかし、この製品の起源は台所ではなく、第二次世界大戦中の軍事レーダー技術の研究室にあった。

1945年、Raytheon社のエンジニアPercy Spencerがマグネトロン(レーダー用真空管)の前に立っていた際、ポケットの中のチョコレートバーが溶けていたことに気づいた。この偶然の出来事を見逃さず、マイクロ波の加熱効果を調理に応用するという着想が電子レンジの誕生につながった。レモネード原則——予期せぬ事態を梃子として活用する思考法——の典型的な事例である。

企業・人物の概要——独学の天才エンジニア

Percy Spencer——学校教育なき発明家

Percy Spencer(1894-1970)は、米国メイン州出身のエンジニアである。幼少期に父を亡くし、叔父のもとで育ったSpencerは、正式な高校教育を受けていない。12歳で地元の製紙工場で働き始め、その後海軍に入隊して無線技術を独学で習得した。

Raytheon社に入社後、Spencerはマグネトロンの製造効率化において卓越した才能を発揮した。第二次世界大戦中、連合軍のレーダーシステムに不可欠なマグネトロンの生産量を、日産17個から2,600個に飛躍的に増加させた功績で知られる。Spencerは生涯で300件以上の特許を取得した。

Raytheon社——軍需企業の転換

Raytheon社は1922年設立の米国防衛・電子機器メーカーであり、第二次世界大戦中はレーダー技術の主要サプライヤーであった。戦後、軍需の縮小に直面した同社は、軍事技術の民生転用を積極的に模索していた。

イノベーションの経緯——チョコレートバーからの発想

偶然の発見(1945年)

1945年のある日、Spencerは稼働中のマグネトロンの近くで作業していた。その際、ポケットに入れていたチョコレートバー(ピーナッツクラスターバーとされる)が溶けていることに気づいた。

マグネトロンの近くで作業していた技術者は他にも多数いたが、チョコレートが溶ける現象に気づき、その原因をマイクロ波の加熱効果と結びつけたのはSpencerだけであった。**「なぜチョコレートが溶けたのか」**という問いを立てたことが、すべての始まりであった。

実験と検証

Spencerは仮説を検証するため、翌日にポップコーンの種をマグネトロンの前に置いた。種は弾けてポップコーンになった。次に卵を試したところ、内部から加熱されて爆発した(同僚の顔に飛び散ったという逸話が残っている)。

これらの実験により、マイクロ波が食品内部の水分子を振動させることで加熱が起こるというメカニズムが確認された。Spencerはこの原理を応用した調理装置の開発に着手し、1945年10月にマイクロ波調理装置の特許を出願した。

初代「Radarange」の誕生(1947年)

1947年、Raytheon社は世界初の商用電子レンジ**「Radarange」を発売した。しかし、初代モデルは高さ約1.8メートル、重量約340キログラム、価格5,000ドル**(現在の価値で約6万ドル相当)という巨大で高価な製品であった。

当初のターゲットは家庭ではなく、レストランや船舶の調理室など業務用途であった。家庭用電子レンジが普及するのは、1960年代後半にAmana社(Raytheonの子会社)が小型で手頃な価格のモデルを発売してからのことである。

家庭への普及

1967年にAmana社が495ドルのカウンタートップ型電子レンジを発売したことが転機となった。1970年代には急速に普及が進み、1986年までに**米国の家庭の約25%**が電子レンジを所有するに至った。現在では、先進国のほぼすべての家庭に電子レンジが設置されている。

エフェクチュエーション原則の分析——「レモネード」の技術転用

偶然の出来事を機会として認識する力

Sarasvathy(2001)は、レモネード原則において予期せぬ事態を回避すべきリスクとしてではなく、活用すべき機会として捉えることの重要性を論じている(Sarasvathy, 2001, p. 252)。Spencerの事例では、チョコレートが溶けるという日常的な出来事の中に、まったく新しい技術応用の可能性を見出した点がレモネード原則の核心である。

マグネトロンの熱によって周囲の物が温まること自体は、多くの技術者が経験していたはずである。しかし、そこに「調理への応用」という可能性を見出したのはSpencer一人であった。

軍事技術の「レモン」からの転換

Sarasvathy(2008)が論じるように、エフェクチュエーション的思考では、既存の手段から新しい目的を生み出すプロセスが重視される(Sarasvathy, 2008, pp. 15-16)。電子レンジの事例では、マグネトロンという軍事技術が「手段」であり、戦後の軍需縮小は「レモン」であった。

Raytheon社にとって、戦後の軍需縮小は事業継続の危機であった。しかし、マグネトロン技術を調理というまったく異なる用途に転用することで、新しい民生市場を創造した。軍事技術という「レモン」から、家電という「レモネード」を搾り出したのである。

「準備された心」と手段の認識

Read et al.(2016)は、既存の手段を新しい目的に結びつける能力が、エフェクチュエーション的思考の核心であると述べている。Spencerが正規の学校教育を受けていなかった事実は、むしろ既成の枠組みにとらわれない思考を可能にした要因であったかもしれない。

レーダー技術の専門家がマイクロ波を「兵器のための技術」としてのみ認識していたのに対し、Spencerは日常の観察と結びつける柔軟性を持っていた。チョコレートバーという日常的なものが、技術的発見のきっかけとなったのは偶然ではない。

段階的な市場創造

Sarasvathy(2008)が述べる市場創造のプロセスは、電子レンジの事例にも当てはまる(Sarasvathy, 2008, pp. 55-60)。最初は業務用、次に富裕層向け、そして一般家庭へと、市場は段階的に創造された。初期の巨大で高価な製品は「失敗」ではなく、市場を探索するための実験であったと解釈できる。

実務への示唆——技術の「別の使い方」を探す

電子レンジの事例から、実務家は以下の示唆を得ることができる。

第一に、自社の技術や能力の「別の使い方」を常に探索することである。Spencerがマイクロ波の加熱効果を調理に応用したように、ある領域で開発された技術が、まったく異なる領域で大きな価値を持つ可能性がある。技術の棚卸しと異業種への応用可能性の検討を、定期的に行うべきである。

第二に、日常的な観察を技術的思考と結びつける文化を育てることである。チョコレートが溶けるという日常的な現象を技術革新のきっかけに転換できたのは、Spencerの観察力と好奇心の賜物であった。組織内で「なぜ?」という問いを自由に発する文化が、偶然の発見を促進する。

第三に、初期市場と最終市場が異なることを許容することである。電子レンジは業務用から始まり、20年以上かけて家庭用市場に到達した。最初のターゲット市場が最終的な主力市場になるとは限らず、市場は段階的に発見・創造されるものである。

「レモネードの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。


引用・参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243-263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
  • Murray, A. (1958). Percy Spencer and his itch to know. Reader’s Digest, August 1958.
  • Osepchuk, J. M. (1984). A history of microwave heating applications. IEEE Transactions on Microwave Theory and Techniques, 32(9), 1200-1224.

参考書籍

関連する記事

  1. 01 エフェクチュエーションとファミリービジネス — 事業承継への応用
  2. 02 AirAsiaのエコシステム・エフェクチュエーション——航空会社からデジタル企業への転身
  3. 03 パンデミック下の飲食業ピボット——デジタルビアガーデンとファインダイニングの転身
  4. 04 ケブラー——「失敗作」の液晶ポリマーが防弾チョッキを生んだ逆転劇
  5. 05 Post-it Notes——「失敗した接着剤」が世界的文房具を生んだ逆転劇
  6. 06 バイアグラ——狭心症の「副作用」が生んだ巨大市場