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音楽ビジネスの異端児が航空業界に挑んだ理由
1984年、レコード会社Virgin Recordsの創業者として知られていたRichard Bransonは、まったく畑違いの航空業界への参入を宣言した。当時の航空業界はBritish AirwaysやPan Amといった巨大企業が支配する寡占市場であり、新規参入者が生き残る確率はきわめて低いと見なされていた。
にもかかわらず、Bransonは航空事業に踏み切った。その意思決定の背景には、「失敗しても許容できる範囲にリスクを抑える」という明確な戦略があった。この戦略は、Sarasvathy(2001)が定式化した「許容可能な損失の原則(Affordable Loss Principle)」の実践例として、エフェクチュエーション研究において繰り返し引用される事例である。
本稿では、Virgin Atlantic創業の経緯を詳細に追い、なぜBransonが航空業界で生き残れたのかをエフェクチュエーションの視点から分析する。
リチャード・ブランソンという起業家
Richard Bransonは1950年、英国で生まれた。16歳で学生向け雑誌『Student』を創刊し、20歳でメール・オーダーのレコード販売事業を開始した。その後、Virgin Recordsとしてレコードレーベルを立ち上げ、Mike OldfieldやSex Pistolsといったアーティストの成功により、音楽業界で確固たる地位を築いていた。
Bransonの起業スタイルには一貫した特徴がある。新しい事業に参入する際、既存の成功事業を全額賭けるようなことは決してしないという点である。Virgin Recordsで得た資金と信用を基盤にしながらも、各事業は独立した法人として運営し、一つの事業の失敗が他の事業に波及しない構造を意識的に構築していた。
この時期のBransonが持っていた手段を整理すると、「自分は誰か(Who I am)」としてはリスクを恐れない冒険的起業家、「何を知っているか(What I know)」としてはブランド構築とマーケティングの経験、「誰を知っているか(Whom I know)」としてはメディア関係者や金融機関とのネットワークが挙げられる。
Virgin Atlantic創業の経緯——1機のリースから始まった航空事業
きっかけは「欠航」だった
Virgin Atlantic創業のきっかけは、ある日Bransonが搭乗予定だったプエルトリコ行きの便が欠航になったことだとされている。代替便を確保するためにチャーター機を手配した経験が、航空ビジネスの可能性に気づく契機となった。
しかし、気づきがあったからといって即座に巨額投資に踏み切ったわけではない。Bransonが最初に取った行動は、Boeing 747を1機だけリースする契約を交渉することであった。
「1年契約・返却可能」という条件
Bransonが航空業界への参入にあたって交渉した条件は、きわめて巧妙であった。Boeing社との間で「1年間のリース契約」を締結し、事業がうまくいかなければ1年後に機体を返却できるという条項を盛り込んだのである。
この条件は、通常の航空会社設立とは根本的に異なるアプローチであった。一般的な航空会社の新規参入では、複数の機体購入、乗務員の大量採用、空港のスロット確保、整備施設の建設といった巨額の初期投資が必要となる。Bransonはこれらの固定費を極限まで削減し、「もし失敗しても機体を返せばよい」という状況を作り出した。
段階的な拡大
Virgin Atlanticはロンドン・ガトウィック空港からニューヨーク・ニューアーク空港への1路線からスタートした。最初からグローバルなネットワークを構築しようとはしなかった。1路線で需要を確認し、利益が出ることを実証してから次の路線を追加するという、段階的な拡大戦略を採用した。
運航開始後、Virgin Atlanticは既存の航空会社にはないサービスの差別化に注力した。エコノミークラスにも個人用テレビを設置し、ビジネスクラスでは当時画期的だったフルフラットシートを導入した。こうした差別化は、Bransonが音楽業界で培った**「顧客体験を中心に据えたブランド構築」のノウハウの応用**であった。
British Airwaysとの激しい競争(いわゆる「ダーティ・トリック」事件)を経ても、Virgin Atlanticは成長を続けた。1機のリースから始まった事業は、最終的に40機以上の機材を保有する国際航空会社へと発展した。
エフェクチュエーション原則の分析——なぜ「1機リース」は合理的だったのか
許容可能な損失の原則の適用
Bransonの意思決定を、Sarasvathy(2008)の許容可能な損失の原則で分析する。この原則の核心は、「期待リターンの最大化」ではなく、「最悪の場合に失うものが許容範囲内であるか」を判断基準にすることにある(Sarasvathy, 2008, pp. 37-41)。
Bransonのケースで「許容可能な損失」を構成していたのは以下の3要素である。
金銭的損失の限定。 1機のリース料は、Virgin Records事業全体の収益に比べれば限定的な金額であった。仮に航空事業が完全に失敗しても、リース契約の終了とともに損失は確定し、それ以上拡大しない構造になっていた。
時間的損失の限定。 1年間のリース契約という期限を設けたことで、「いつまで続けるか」という出口の判断基準が最初から明確であった。ダラダラと赤字を垂れ流し続けるリスクを構造的に排除していた。
社会的損失の限定。 BransonはすでにVirgin Recordsで成功した起業家としての評判を確立していた。航空事業が失敗しても、「挑戦的な起業家」というブランドイメージにはむしろプラスに働く可能性すらあった。
期待リターン最大化との対比
伝統的な因果論(Causation)的アプローチでは、航空事業への参入判断は以下のように行われる。市場規模を推定し、競合分析を実施し、5年間の収益予測を立て、NPV(正味現在価値)がプラスであれば投資を実行する。
しかし、Dew et al.(2009)が指摘するように、1984年時点でBransonのような新規参入者が航空市場の将来を正確に予測することは原理的に不可能であった(Dew et al., 2009, pp. 108-110)。規制緩和の進展、燃料価格の変動、テロリスクなど、予測不能な変数が多すぎたのである。
Bransonは「いくら儲かるか」ではなく、「失敗した場合に何を失うか」から逆算して投資規模を決定した。 これはまさにSarasvathyが描く熟達した起業家の行動パターンである(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
手中の鳥の原則との相互作用
許容可能な損失の原則は、単独で機能したわけではない。Bransonは音楽業界で培ったブランド構築力という「手中の鳥」を航空事業に転用した。Virgin Recordsの顧客基盤とメディア露出力を活用し、新規の航空会社としては異例の高い認知度を短期間で獲得した。
Sarasvathy(2008)が論じるように、エフェクチュエーションの各原則は相互に連関しながら起業家の意思決定を形成する(Sarasvathy, 2008, p. 101)。Bransonの事例は、許容可能な損失と手中の鳥の原則が組み合わさることで、一見無謀に見える異業種参入が合理的な意思決定となることを示している。
実務への示唆——「失敗しても大丈夫な構造」を先に設計する
Virgin Atlanticの事例から得られる実務的な教訓は明確である。
第一に、「撤退条件」を事業開始前に設定すること。 Bransonの1年リース契約は、事業の開始と同時に撤退条件を定めた好例である。新規事業を始める際には、「何が起きたら撤退するか」「いつまでに成果が出なければやめるか」を明文化しておくことが重要である。
第二に、固定費を変動費に転換する工夫をすること。 機体の購入ではなくリースを選択したように、初期投資を可能な限り変動費化することで、失敗時の損失を限定できる。現代のビジネスにおいても、クラウドサービスの活用やサブスクリプション型の契約は同じ原理に基づいている。
第三に、既存事業の資産を新事業に転用すること。 Bransonのブランド力やマーケティング・ノウハウが航空事業の立ち上げを加速したように、「自分がすでに持っているもの」の棚卸しが、許容可能な損失の範囲内で事業を始める鍵となる。
「クレイジーキルトの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Branson, R. (1998). Losing My Virginity: The Autobiography. Virgin Books.