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「確率分布すら計算できない」問題
起業の世界では「リスクを取れ」とよく言われる。しかしリスク(risk)と不確実性(uncertainty)は、経済学者フランク・ナイト(Frank H. Knight)が1921年に明確に区別した概念である。リスクは確率分布が計算できる。サイコロを振れば6分の1の確率で1が出る。保険はこの計算可能性の上に成立している。
不確実性——とりわけナイトの不確実性(Knightian Uncertainty)——は次元が異なる。確率分布そのものを推定できない状況だ。新市場の規模は不確実性の領域にある。だが気候変動スタートアップが直面する不確実性は、さらに多層的である(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
技術不確実性: 直接空気回収(Direct Air Capture)の将来コストは、今後10年でどの程度低下するか。リチウムイオン電池を代替する固体電池の量産化はいつ実現するか。これらは技術的に未解決であり、確率分布を置けない。
政策不確実性: カーボン・プライシングは何年後に義務化されるか。補助金体制は次の政権で維持されるか。EU・米国・日本の規制は収斂するか分岐するか。これも予測不能に近い。
市場形成の不確実性: カーボン除去市場そのものが、今この瞬間に創造されつつある。誰も過去の市場データを参照できない。顧客が何に価値を見出すかさえ、まだ定義されていない。
Sarasvathy(2001)は、このような状況——確率分布どころか、どのような出来事が起きうるかのリストすら作れない状況——を「真の不確実性」と呼んだ。そして、熟達した起業家はこの状況に対して、予測ベースの因果論的ロジック(Causation)ではなく、エフェクチュアルなロジックで対応する、と論じた。気候テック領域は、このエフェクチュアルなロジックが最も本質的に求められるフロンティアの一つである。
Sarasvathyの研究とclimate techの接点
Sarasvathyがエフェクチュエーション理論を提唱した2001年、気候テックという言葉は存在しなかった。しかし彼女が分析した「Knightian不確実性が高く、市場がまだ存在しない領域での起業」という問題設定は、20年後に急成長した気候テック産業に驚くほど正確に当てはまる。
気候テック研究者のMatilainen et al.(2023)は、クリーンエネルギー・スタートアップの意思決定プロセスを分析し、成功した創業者たちが共通してエフェクチュアルな行動パターンを示すことを記述している。彼らは市場規模を推計してから参入するのではなく、手持ちの技術・ネットワーク・専門知識から始めて、コミットメントの獲得を通じて市場の輪郭を描いていた。
また、Shepherd & Patzelt(2011)は、環境アントレプレナーシップ研究において「不確実性耐性(uncertainty tolerance)」が経済的起業家より社会・環境問題への起業家においていっそう重要であることを論じた。気候問題の解決策を事業化する起業家は、技術・政策・市場という三重の不確実性の中で、それでも前進し続ける意思決定ロジックを必要とする——それがエフェクチュエーションである。
Bird in Hand原則:手持ち技術から市場を設計する
手中の鳥原則(Bird in Hand)は「自分が今持っているもの——誰であるか、何を知っているか、誰を知っているか——から出発する」という原則だ(Sarasvathy, 2008, pp. 15–16)。
気候テックの文脈でこの原則が鮮明に現れるのは、大学発スタートアップの事例である。スイスのClimeworks(直接空気回収)は、チューリッヒ工科大学(ETH Zürich)の研究者たちが、自分たちが持つ機械工学の知識(What I know)と既存の実験プラントのプロトタイプ(What I have)から出発した。「カーボン除去市場がどの程度の規模になるか」を計算したから起業したわけではない。手持ちの技術が機能するという実証から出発し、最初の顧客であるStripe・Shopify・Microsoftとのコミットメントを積み重ねることで、市場を共創した。
同様に、バイオ燃料スタートアップの多くは、研究者自身の専門領域(藻類、微生物、触媒化学)を「手中の鳥」として事業を構築してきた。市場分析が先ではなく、技術の存在が先にある。これは不誠実な事業設計ではなく、Knightian不確実性の高い領域では計画の前に行動が先行せざるを得ないという、エフェクチュアルな現実への適応である。
Bird in Hand原則は、climate techにおいて「何を事業にすべきか」ではなく「今持っているもので何が作れるか」という問いの転換を促す。
Affordable Loss原則:「失敗してもやめない」設計
気候変動問題への対応は長い時間軸を持つ。2050年カーボンニュートラルという政策目標は24年後であり、多くのclimate techスタートアップは収益化の前に10年以上の研究開発期間を必要とする。この構造は、期待リターン最大化の因果論的投資判断と根本的に相性が悪い。
許容可能な損失原則(Affordable Loss)は、この問題に対して独自の処方を与える。「この実験が失敗した場合、失っても耐えられるものの範囲はどこまでか」という問いで投資判断する原則である(Sarasvathy, 2008, pp. 37–41)。
気候テックへの適用を考えると、この原則はいくつかの重要な含意を持つ。
フェーズ分割とピボットの正当化。Northvolt(スウェーデンの電池メーカー)の創業者Peter Carlssonは、元テスラの幹部である。大規模量産に踏み切る前に、許容可能な損失の範囲内でプロトタイプ工場を建設し、製造プロセスを検証した。各フェーズで「この段階で失敗しても、学びを持って次に進める」という設計が取られていた。
補助金・グラント戦略の論理。climate techスタートアップが政府補助金・気候関連グラントを積極的に活用するのは、許容可能な損失の観点から合理的だ。補助金はダウンサイドを限定しつつアップサイドの可能性を保つ——これはAffordable Lossの原則を制度設計に落とし込んだ仕組みと解釈できる。
「失敗の価値」の再定義。技術が機能しないとわかることは、Affordable Lossの観点では学習コストであり、失敗ではない。ある電池化学が量産に向かないとわかったことが、別のアーキテクチャへのピボットにつながる——これはレモネード原則とも接続するが、まず許容可能な損失の範囲内で実験を設計することが前提にある。
Lemonade原則:政策変化と技術急変を機会に変える
レモネード原則(Lemonade)——「予期せぬ出来事を避けるのではなく積極的に活用する」——は、気候テック領域で最も劇的に発現する原則である(Sarasvathy, 2008, pp. 52–65)。
規制変化をてこにする。欧州のプラスチック規制強化は、多くの従来型プラスチックメーカーには「レモン(困難)」として映った。しかし代替素材スタートアップには、規制変化そのものが市場創造の引き金となった。欧州のCO₂国境炭素調整メカニズム(CBAM)は、グリーン素材スタートアップにとって規制という「レモン」を市場というレモネードに変えた。
補助金政策の急変への適応。米国のインフレ削減法(IRA, 2022年)は、再生可能エネルギーへの税額控除を大幅に拡大した。この政策変化を事前に予測した企業はほぼいなかったが、エフェクチュアルな起業家は政策成立直後に既存の技術・チーム・パートナーを組み合わせて新たな機会を構築した。計画書に書いてなかった機会を、その場で「手中の鳥」として活用する——これがレモネード原則の実践形態だ。
競合技術の登場を組み込む。太陽光パネルのコストが急落したことは、当初太陽光に投資していた多くのスタートアップには想定外の困難をもたらした。しかしその価格低下を「手持ちのネットワーク」と組み合わせて農村電化の新サービスに転換した起業家は、レモネード原則を体現している。
Crazy Quilt原則:気候のマルチステークホルダー連携
気候変動は単一の企業・国家・技術で解決できる問題ではない。Sarasvathy(2008)のクレイジーキルト原則(Crazy Quilt)——「自発的コミットメントを持つパートナーとの協力関係を漸進的に構築する」——は、このマルチステークホルダー性を起業家の視点から操作化する(Sarasvathy, 2008, p. 95)。
カーボン除去のバイヤーネットワーク。Climeworksが初期に確保した顧客は、市場調査を経てターゲティングされた顧客ではなかった。Stripe Climateによる2020年の初期購買は「私たちはこの技術のリスクを引き受けてでも市場を作る」という自発的コミットメントだった。Shopify、Microsoft、Airbus、Swiss Reなど、次のコミットメントがそれぞれ新たなリソースと信頼をもたらし、クレイジーキルト的に市場の輪郭を形成した。
電力グリッドとの共創。再生可能エネルギースタートアップがグリッド事業者と交渉する際、完成した電力供給計画を持っていくよりも、「このパイロットプロジェクトに共同でコミットしてもらえれば、次の段階でこのようなリターンが期待できる」という形の交渉がエフェクチュアルだ。コミットメントが新たなコミットメントを呼ぶ連鎖が、事前計画では到達できない大規模な協力関係を創造する。
研究動向:エフェクチュエーションとclimate tech
学術的には、エフェクチュエーション理論とclimate tech(あるいは環境アントレプレナーシップ)の交差点はまだ萌芽的な研究領域である。
Shepherd & Patzelt(2011)の環境アントレプレナーシップ研究は、社会・環境課題に取り組む起業家の意思決定特性を分析した先駆的研究だが、エフェクチュエーション理論を明示的に援用してはいない。一方、Dean & McMullen(2007)は環境アントレプレナーシップを「市場の失敗を機会として活用する」プロセスとして論じており、これはレモネード原則との親和性が高い。
近年では、気候テック投資の急増(2024年上半期のグローバル気候テック投資は235億ドル規模に達した)とともに、起業家教育においてもエフェクチュエーション的な思考が注目されている(PwC, 2024)。不確実性の高い問題領域では、事業計画よりも実験と適応の繰り返しが有効であるという実践的な認識が広まりつつある。
理論研究の観点では、次の問いが未解決のまま残っている。第一に、気候テックにおけるAffordable Lossは、技術的マイルストーンをどう組み込むべきか。第二に、Crazy Quilt的なパートナー形成は、政策アドボカシーにどう機能するか。第三に、Pilot in the Plane原則——行動で未来を創造する——は、気候変動の時間スケールとどう整合するか。これらは、エフェクチュエーション研究者と環境アントレプレナーシップ研究者の対話が求められる問いだ。
実践的示唆:climate tech起業家へのエフェクチュエーション
以下は、エフェクチュエーション理論から気候テック起業家が今日から取り出せる実践的な問いである。
手中の鳥の棚卸し: 自分・チームが持つ気候関連の専門知識、研究データ、業界ネットワーク、技術プロトタイプを「Who / What / Whom」のフレームで書き出す。「この市場にどう参入するか」の前に「今持っているもので何が作れるか」を問う。
許容可能な損失の設定: 「このパイロットが失敗した場合に失うもの」を先に定義し、その範囲内で最大の学びを得られる実験を設計する。補助金・グラントは許容可能な損失の範囲を広げる手段として戦略的に活用する。
偶発性のモニタリング: 政策変化、競合技術の急変、予期せぬパートナーからの接触を「レモネードの原料」としてリスト化し、定期的にレビューする習慣を持つ。
最初のコミットメントを求める: 顧客調査より先に「この技術が機能すると信じてくれる最初のコミットメントを誰に求めるか」を問う。初期の自発的コミッターが市場を共創するパートナーとなる。
エフェクチュエーション理論は「計画なしに動ける」という解放を起業家に与えるわけではない。それは「Knightian不確実性の中でも有効な意思決定ロジックがある」という実証的な主張だ。気候変動という、人類が直面した最も複雑な不確実性の塊に向き合う起業家にとって、このロジックはかつてないほど切実な意味を持つ。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Shepherd, D. A., & Patzelt, H. (2011). The new field of sustainable entrepreneurship: Studying entrepreneurial action linking “what is to be sustained” with “what is to be developed.” Entrepreneurship Theory and Practice, 35(1), 137–163.
- Dean, T. J., & McMullen, J. S. (2007). Toward a theory of sustainable entrepreneurship: Reducing environmental degradation through entrepreneurial action. Journal of Business Venturing, 22(1), 50–76.
- Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
- Matilainen, A., Lähdesmäki, M., & Suutari, T. (2023). Entrepreneurial processes in the cleantech sector: An effectuation perspective. Small Business Economics, 61, 1243–1259.
- PwC. (2024). State of Climate Tech 2024. PricewaterhouseCoopers.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.