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ヘルスケアスタートアップが直面する「三重の不確実性」
ヘルスケア・医療分野でのスタートアップは、一般的な事業創造と比較して質的に異なる不確実性に直面する。
第一は規制の不確実性である。薬事法・医療機器承認・個人情報保護法の改正サイクルは予測困難であり、製品開発の途中でルールが変わることは珍しくない。第二はエビデンスの不確実性である。臨床試験・倫理審査・有効性の証明には長期間を要し、「本当に効果があるか」という問いへの答えが得られるまでに数年から十数年かかることもある。第三は市場の不確実性である。患者・医療機関・保険者・規制当局という複数のステークホルダーの思惑が複雑に絡み合い、誰が「顧客」で誰が「決裁者」かが明確でない。
この三重の不確実性は、Sarasvathy(2001)が「エフェクチュエーションが最も有効に機能する領域」として示した「ナイトの不確実性(Knightian Uncertainty)」の典型的な状況である。
なぜ従来のビジネスプランアプローチが機能しにくいか
従来のコーゼーション(Causation)的アプローチ——市場規模を推計し、競合を分析し、資金調達計画を立て、PMF(Product-Market Fit)を目指す——は、ヘルスケア分野では複数の理由から機能しにくい。
市場規模の推計が困難: 保険収載されるかどうかで市場規模が劇的に変わる。規制当局の判断に依存する部分が大きく、財務モデルの精度に本質的な限界がある。
顧客の意思決定が複雑: 医療機器・デジタルヘルスプロダクトを「使う人」(患者)、「薦める人」(医師)、「買う人」(病院・保険者)が分離している。誰のニーズを中心に据えるかによって、プロダクト設計が根本から変わる。
長い開発リードタイム: 承認取得まで5〜10年以上かかるケースもある医療機器・医薬品領域では、「3〜5年後の市場予測」自体が虚構に近い。
Read et al.(2016, p. 78)が指摘するように、「予測不可能な状況でコーゼーション的アプローチを強行することは、精度のない計算への過信を招く」。ヘルスケアスタートアップはその典型的な適用領域だ。
5原則のヘルスケアへの応用
手中の鳥原則:規制専門家ネットワークを最初の手段とする
ヘルスケアスタートアップにおける「Who I know(誰を知っているか)」の中で最も価値が高いのは、規制当局(PMDA・厚生労働省)との対話経験を持つ専門家ネットワークである。大学病院の臨床研究者、元規制当局職員、専門弁護士——これらの人々との関係を「最初の手段」として整理することが、手中の鳥の原則の具体的な実践となる。
「What I know(何を知っているか)」では、自社チームの医学的・工学的・事業的な専門知識の組み合わせが鍵となる。例えば、医師・エンジニア・規制コンサルタントが創業チームにいるスタートアップは、それだけで「他社にない手段の組み合わせ」を持つ。この手段の棚卸しから事業構築を始めることが、長期的に見てヘルスケアスタートアップを成功に導く最初のステップとなる。
許容可能な損失原則:PoC(概念実証)の段階設計
ヘルスケアスタートアップが陥りやすい罠は、最終製品の完成を目指して莫大なリソースを投下し続けることである。臨床試験の設計、薬事申請の準備、GMP準拠の製造体制——すべてを完璧に整えてから市場に出ようとする姿勢は、「予測できる時にリターンを最大化する」コーゼーション的発想である。
許容可能な損失の原則に従えば、問うべきは「全力投資した場合のリターン」ではなく「今の段階で失って耐えられる範囲はどこか」である。デジタルヘルス分野では、薬事申請が不要なソフトウェアから始め、データと知見を積み上げてから医療機器化するというアプローチが、この原則の実践例として機能している。
レモネード原則:規制変更を機会として捉える
ヘルスケア規制の変化——マイナ保険証の普及、医療DX推進、プログラム医療機器(SaMD)の審査指針整備——は、多くのスタートアップにとって「リスク」として認識される。しかしレモネードの原則の観点からは、この変化はむしろ「先行者が優位に立てるタイミング」として捉えることができる。
Sarasvathy(2001, p. 254)が示すように、熟達した起業家は予期しない外部環境の変化を「情報」として即座に取り込み、現在の事業戦略に組み込む。規制変更の予兆を察知した段階で、規制当局との対話を始め、パイロットプログラムへの参加機会を探ることが、レモネード原則の具体的実践となる。
クレイジーキルト原則:病院・保険者との早期コミットメント
ヘルスケアスタートアップにとって、病院・クリニック・保険者との関係構築は販売チャネルの問題ではなく、事業の方向性そのものを定める共創プロセスである。クレイジーキルト原則が示すように、早期のコミットメントを持つパートナーを形成することが、製品開発の不確実性を縮減する。
具体的には「共同研究契約」「パイロット導入覚書」「アドバイザリーボードへの参画」などの形でコミットメントを言語化し、署名をもらうことが重要である。このコミットメントは「顧客候補」との関係を超え、共同で市場を創造するパートナーシップへと発展することがある。
飛行機のパイロット原則:臨床エビデンスの段階的蓄積
ヘルスケアスタートアップの最大の課題の一つは「臨床エビデンスがなければ採用されない、しかし採用してもらわないとエビデンスが積めない」というジレンマである。このジレンマへの処方箋は、飛行機のパイロット原則——「予測に基づいて最適解を選ぶ」のではなく「今できる行動で状況を変えていく」——にある。
研究者主導の特定臨床研究から始め、Real World Data(RWD)を蓄積し、保険未収載でも自費診療や企業契約から実績を積む——この段階的なアプローチが、エフェクチュエーション的な「行動による未来の形成」である(Sarasvathy, 2008, pp. 145–152)。
実践的含意:ヘルスケアスタートアップが今日始めること
原典では起業家の意思決定一般を対象としているエフェクチュエーション理論だが、実務に翻訳すると、ヘルスケア分野のスタートアップにとっては特に以下の3点が行動の起点となる。
- 今週、規制・臨床・事業の3領域の専門家を一人ずつリストアップする: これが手中の鳥の棚卸しの第一歩
- 「承認取得前に始められること」をリストアップする: 教育コンテンツ、患者コミュニティ、データ収集のための調査など、規制の外側で行動できる領域は思いのほか広い
- 病院・研究機関の一人の意思決定者と「一緒に考える関係」を作る: 覚書や契約は後でよい。まず「この課題に関心がある」というコミットメントを引き出すことから始まる
エフェクチュエーションの全体像を踏まえたうえでこれらの実践を試みると、ヘルスケアという特殊な文脈でのエフェクチュエーションの有効性がより具体的に感じられるはずである。
引用・参考文献
- Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- 吉田満梨 (2018).『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』ダイヤモンド社.