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日本の大企業イントレプレナーシップとエフェクチュエーション — 制度的制約下での実践論

日本の大企業特有の組織文化・制度的制約の下で、エフェクチュエーション理論がイントレプレナーシップにどのように適用できるかを論じる。稟議文化・年功序列・事業計画主義への実践的対処法を解説する。

約12分
目次

「稟議が通らない」という壁の正体

日本の大企業でイノベーションに取り組む担当者から繰り返し聞かれる言葉がある。「アイデアはある。でも稟議が通らない」「上が動いてくれない」「失敗が許されない文化だから、リスクのある提案ができない」——これらの訴えに共通するのは、問題が個人の能力ではなく構造にあるという認識だ。

稟議制度に代表される多段階承認プロセス、年功序列に基づく権限集中、「失敗は個人の責任」という規範、計画達成度を重視する評価システム——これらはいずれも、Sarasvathy(2008)が論じたコーゼーション的な意思決定ロジックと親和的だ(pp. 15–50)。

コーゼーション的組織では、「詳細な計画→上位者の承認→実行」というプロセスが支配的となる。このプロセスは、予測可能な環境での効率的な資源配分には適しているが、Knight(1921)が定義した「真の不確実性」の領域——つまりイノベーションが起きる場所——では機能しない(Sarasvathy, 2001, p. 243)。

日本的組織とエフェクチュエーション理論

日本企業のイントレプレナーシップ研究では、組織的制約と個人の起業家的行動のギャップが繰り返し論じられてきた(Kusunoki & Numagami, 1998)。しかし、このギャップをエフェクチュエーション理論の視点から分析した研究は相対的に少ない。

Phan et al.(2009)が大企業のコーポレートイノベーション研究で示したように、大企業内でのイノベーションが困難な根本原因は「コーゼーション的なプロセスへの過剰依存」にある(pp. 200–203)。この分析は、日本の大企業に特に鋭く当てはまる。なぜなら、日本の企業組織は「計画の精緻化と承認のプロセス」をコーゼーション的に洗練させてきた歴史を持つからである。

しかし、この認識は悲観的な結論を意味しない。エフェクチュエーション理論が示唆するのは、日本の大企業内でもエフェクチュエーション的なアプローチが機能しうるという可能性である。ただし、それには「コーゼーション型システムの内側でエフェクチュエーション的に動く」という実践的な技法が必要になる

手中の鳥原則:大企業の資源を「手段」として再定義する

日本の大企業のイントレプレナーに対してエフェクチュエーション理論が提供する最初の示唆は、組織内の資源を「制約」ではなく「手中の鳥」として捉え直すことである(Sarasvathy, 2008, pp. 20–25)。

大企業に勤めるイントレプレナーが持つ「手中の鳥」を3軸で整理すると、次のことが見えてくる。

Who I am(組織内でのアイデンティティと信頼): 大企業に長く勤めた人間が持つ「この会社での信頼残高」は、スタートアップの起業家が持ちえない資産である。「あの部署のあの人が言うなら」という文脈的な信頼は、新しい提案を組織内に通す上で最も重要な資源の一つである。

What I know(業界知識と顧客理解): 大企業の従業員は、長年の経験を通じてその業界・顧客・技術について深い知識を蓄積している。この知識は、スタートアップが市場調査で得ようとするものを、すでに持っているということを意味する。

Whom I know(社内外のネットワーク): 大企業内部の人的ネットワーク——他部署の担当者、取引先企業のキーパーソン、業界団体の知人——は、イノベーションのコミットメントを形成する上で即座に活用できる資産である。

この3軸の棚卸しを行うことで、「自分には何もない」という無力感から「自分には意外に多くの手段がある」という認識への転換が可能になる

許容可能な損失:稟議文化の内側での小さな実験

日本の大企業において、エフェクチュエーション理論が最も実践的な示唆を与えるのが許容可能な損失の原則である。Dew et al.(2009)が示したように、許容可能な損失の原則は「全額失っても耐えられる範囲で先に動く」という発想を基本とする(pp. 108–112)。

日本企業の稟議文化に対してこの発想を適用すると、重要な逆説が見えてくる。「上の承認を得てから動く」という文化が強い組織であっても、「承認なしに動ける小さな行動の空間」は必ず存在する

その空間の具体例を以下に示す。

承認不要の情報収集: 顧客へのインタビュー、同業他社の調査、業界カンファレンスへの参加——これらは多くの場合、正式な稟議なしに行える活動である。「全額が無駄になっても組織に影響のない時間と費用」の範囲でできることから始める。

業務の隙間での原型作り: 本来の業務の合間に、アイデアの最小限の原型(プロトタイプ)を作る。これは「副業的行動」ではなく「既存業務の改善案の検証」として位置づけることで、組織内の許容範囲に収まることが多い。

非公式の社内コミットメント収集: 正式な稟議書を提出する前に、同僚・隣接部署・上位者に非公式に「こういうアイデアについてどう思うか」を問う。この非公式の探索は、正式な提案書の精度を高め、承認プロセスでの否決リスクを低減する。

日本の大企業文化の中でエフェクチュエーション的に動くとは、「稟議なしに大きな決断をする」ことではなく「稟議が不要な小さな実験を積み重ねて、稟議が通りやすい状態を作る」ということである

クレイジーキルト原則:社内同盟の形成

日本の大企業でのイノベーションが成功するためには、多くの場合、複数の部門・階層のステークホルダーからの支持が必要となる。この現実は、クレイジーキルトの原則(Crazy Quilt)の適用が直接的に有効であることを示している(Sarasvathy, 2008, pp. 70–85)。

コーゼーション的なアプローチでは、「この提案に賛成してくれそうな人を説得する計画を立て、順番に説得していく」という戦略を取る。一方、エフェクチュエーション的なアプローチでは「誰が自発的にコミットメントを示してくれるかを観察し、そのコミットメントを起点に輪を広げる」という戦略を取る。

この違いは、日本的な組織文化においては特に重要な含意を持つ。「説得する」というアプローチは、日本の組織文化では「押しつける」と解釈されがちである。一方、「この問題に関心のある人を見つけ、一緒に考える」というエフェクチュエーション的なアプローチは、日本的な「根回し」文化とも親和的である。ただし根本的な違いは、エフェクチュエーション的アプローチは自発的コミットメントを尊重する点にある。

レモネード原則:制度的制約を機会として読み替える

日本の大企業のイントレプレナーが直面する制度的制約——承認プロセスの遅さ、資源配分の硬直性、評価制度の保守性——は、コーゼーション的な視点からは「克服すべき障壁」である。しかし、レモネードの原則(Lemonade)の視点では、これらの制約が「機会の入口」として機能する可能性がある

例えば、承認プロセスの遅さは「その間に、より多くの情報を集め、仮説を精緻化する時間がある」という機会を生む。資源配分の硬直性は「限られた資源でどこまでできるかを証明することで、追加資源を引き出す説得力を得る」という機会を意味する。

Sarasvathy(2008)が論じたように、制約はそれ自体が情報であり、その情報を活用することがレモネード的思考の実践である(pp. 50–65)。

飛行機のパイロット原則:日本のイントレプレナーへの問い

飛行機のパイロットの原則(Pilot-in-the-Plane)は、「未来は予測するものではなく、行動によって創るもの」という姿勢を表す(Sarasvathy, 2008, pp. 90–110)。

日本の大企業文化では、「上が変わらなければ何もできない」「制度が変わるまで待つ」という受動的な姿勢が組織内に広まることがある。飛行機のパイロット原則は、この受動性への処方箋である。

「自分がコントロールできることに焦点を当てる」という問いを立てると、多くの場合、想定より広い行動の空間が見えてくる。完璧な条件を待つのではなく、今日できる最小の一歩を踏み出すことが、日本の大企業におけるエフェクチュエーション的実践の出発点である。


引用・参考文献

  • Knight, F. H. (1921). Risk, Uncertainty and Profit. Houghton Mifflin.
  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Phan, P. H., Wright, M., Ucbasaran, D., & Tan, W. L. (2009). Corporate entrepreneurship: Current research and future directions. Journal of Business Venturing, 24(3), 197–205.
  • Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.
  • Kusunoki, K., & Numagami, T. (1998). Interfunctional transfers of engineers in Japan: Empirical findings and implications for cross-functional integration. IEEE Transactions on Engineering Management, 45(3), 250–262.
  • Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
  • サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.

参考書籍

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