目次
交渉の「目標設定」から「手段の共有」へ
伝統的な交渉理論——とりわけ Harvard Negotiation Project が体系化した原則交渉法(Fisher & Ury, 1981)——は、交渉者が明確な利害関係と目標を持つことを前提とする。「自分は何を得たいか」を先に定め、BATNAを設定し、相手との利害の差異を調整することで合意に至る。このアプローチは、交渉の結果があらかじめ存在するゴールに対してどれだけ接近できるかを最適化する、因果論的な発想に基づく。
しかし現実の起業家的交渉——パートナー候補との初回ミーティング、潜在的な顧客との共同開発の提案、投資家との資金調達交渉——は、このモデルが前提とする「明確なゴール」を持ちにくい。市場が形成されていない段階では、何を求めるかそのものが不明確であり、相手が何を提供できるかも未知数である(Sarasvathy, 2008, pp. 75–90)。
エフェクチュエーション理論は、この状況に対して根本的に異なる交渉観を提示する。目標から逆算して交渉を設計するのではなく、 双方の手中にある手段を持ち寄り、そこから共に実現できる未来を構築する という発想の転換が核心である。
クレイジーキルト原則と交渉の関係
エフェクチュエーションの5原則のうち、交渉戦略に最も直結するのがクレイジーキルト原則(Crazy Quilt Principle)である。Sarasvathy(2008)は、熟達した起業家の交渉行動を「誰でも協力の意志がある人と契約する」(p. 95)と定式化し、ランダムに見えるこのアプローチが、実は事前計画よりも柔軟で強靭なネットワークを生む機制を持つと論じた。
クレイジーキルトの名称は、異なる布片を縫い合わせるアメリカの伝統的な工芸品に由来する。あらかじめデザインを決めてから切り出すのではなく、手元にある布片を組み合わせながらパターンを作っていく。この比喩が示すのは、 交渉の相手や条件を事前に固定するのではなく、コミットを示す相手との接触から新たな可能性を発見していく プロセスの正当性である(Sarasvathy, 2008, p. 90)。
自発的コミットメントの非対称性
Sarasvathy & Dew(2005)は、クレイジーキルト的な交渉における重要な概念として「自発的コミットメント(voluntary commitment)」を提示した。伝統的な交渉では、双方が合意に達した後にコミットメントが発生する。しかしエフェクチュアルな交渉では、コミットメントの表明そのものが交渉のリソースとなる。
相手が「この条件なら協力します」と表明した瞬間、その自発的なコミットメントは交渉空間を変容させる。その発言は単なる意向の表示ではなく、 共に構築しうる未来の輪郭を描くシグナル として機能するからである(Sarasvathy & Dew, 2005, p. 545)。このメカニズムを意識した交渉者は、相手のコミットメントを引き出すことに優先順位を置く。
不確実性下の交渉における3つのシフト
Brettel et al.(2012)は、エフェクチュエーション的な意思決定行動が交渉を含む多様なビジネス場面に応用されていることを実証的に示した。彼らの研究から導かれる、不確実性が高い場面での交渉における主要な認識論的シフトは以下の3点に整理できる。
シフト1:目標から手段へ
「この交渉で何を得るか」ではなく「自分が提供できるリソースは何か」を起点にする。自分のスキル・ネットワーク・資産・経験を棚卸しし、それらを相手に提示することで交渉の前提条件そのものを変えていく。この発想は、手中の鳥原則が交渉に適用された形態である。
シフト2:BATNAから許容損失へ
伝統的な交渉理論では、「この交渉が決裂した場合の最善の代替案(BATNA)」を設定することで自分の足元を強くするとされる(Fisher & Ury, 1981, p. 100)。エフェクチュアルな交渉では、これに加えて「この交渉で最悪どこまで失えるか」という許容可能な損失の観点が基準となる。
許容損失の観点を持つことで、交渉者は「失うことへの恐怖」から解放される。失っても耐えられる範囲が明確であれば、合意形成に向けた創造的な選択肢を生み出す余裕が生まれる。
シフト3:合意点の発見から合意点の創造へ
伝統的な交渉は、すでに存在する合意可能な空間(ZOPA:Zone of Possible Agreement)を探す作業である。エフェクチュアルな交渉は、相互のコミットメントを積み重ねることによって 新たな合意空間を創造する 作業である(Dew et al., 2008, p. 46)。この違いは、交渉を「パイの分配」ではなく「パイの共創」として捉える発想の転換に対応する。
実践的フレームワーク:4段階のエフェクチュアル交渉
第1段階:自己の手中を明確にする(Bird-in-Hand Audit)
交渉の開始前に、自分が提供できるリソースの棚卸しを行う。WHO(自分は誰か:専門性・評判・ネットワーク)、WHAT(何を知っているか:業界知識・技術・市場情報)、WHOM(誰を知っているか:紹介できる人脈・パートナー候補)の3軸で自己評価を行い、相手に対して提示できるものを整理する。
この作業の目的は「交渉での提供物を決める」ことではなく、 交渉空間で生み出せる可能性の幅を自分自身が把握する ことにある。
第2段階:相手のコミットメントを引き出す問いを設計する
「○○の条件で合意しますか」という Yes/No を求める問いではなく、「もし○○だったとしたら、どういう形での協力が考えられますか」という仮説的・探索的な問いを設計する。この問いの設計は、相手が「コミットの可能性」を表現しやすい文脈を作るためのものである。
Sarasvathy(2008)が指摘するように、熟達した起業家は交渉相手に「できること」を語らせることで、事前に想定していなかった協力の形を発見する技能に長けている(p. 96)。この技能の核心は問いの設計にある。
第3段階:コミットメントを積み重ねて交渉空間を拡張する
相手の自発的なコミットメントが得られたら、それを新たな「手中の手段」として活用する。「あなたが○○を提供してくれるなら、私は○○を加えることができる」という形で、双方のリソースを積み上げていく。このプロセスは一度の交渉セッションではなく、複数回のやり取りを経て展開する。
Wiltbank et al.(2006)は、エフェクチュアルな意思決定者が「予測と計画」より「行動とフィードバック」を優先する傾向を実証したが、これは交渉においても同様である。各やり取りから得られる反応をシグナルとして次の一手を設計する 反復的な合意形成プロセス が、エフェクチュアルな交渉の特徴である。
第4段階:許容損失の範囲で合意を確定する
交渉の最終段階では、積み重ねられたコミットメントを正式な合意として確定する。この際の判断基準は「最大のリターンが得られるか」ではなく「この合意から生まれうる損失は許容範囲内か」である。許容損失の観点から合意を評価することで、エフェクチュアルな交渉者は「好ましくない合意を急いで確定する」誤りを避けられる。
エフェクチュアル交渉が有効な場面
研究者や実務家の観察から、エフェクチュアルな交渉アプローチが特に高い効果を発揮する状況として以下が挙げられる(Read et al., 2016, pp. 115–130)。
新規市場の開拓交渉: 市場が存在しない段階では、双方が「何を求めるか」を明確にできないため、コミットメントの積み上げによる合意空間の創造が有効である。
多者間交渉: 複数のステークホルダーが関与する交渉では、一対一のBATNA設定より、各者のコミットメントを縫い合わせるクレイジーキルト的アプローチが実質的な合意に到達しやすい。
不完全情報下の交渉: 相手の利害や保有リソースが不明確な状況では、探索的な問いと仮説的な提案を通じて情報を収集しながら合意を設計するエフェクチュアルなアプローチが優位性を持つ。
因果論的交渉との統合的活用
エフェクチュアルな交渉アプローチは、因果論的な交渉理論を否定するものではない。Sarasvathy(2008)自身が論じるように、エフェクチュエーションとコーゼーション(因果論的意思決定)は相互排他的ではなく、 状況に応じて使い分けるべき補完的なロジック である(p. 17)。
目標が明確で合意可能な空間が存在することが事前にわかっている交渉——例えば既存の契約更新交渉や標準化された商品の価格交渉——では、BATNAを設定し利害を最大化する因果論的アプローチが有効である。市場創造的な交渉や多様なステークホルダーとの初期合意形成では、エフェクチュアルな発想が力を発揮する。
合意形成の新しい起点
エフェクチュエーション理論が交渉戦略に示す最も重要な示唆は、 合意とは「交渉によって発見される」ものではなく「コミットメントの積み重ねによって構築される」ものだ という認識の転換である。この転換は、不確実性の高い環境で新しいビジネスを立ち上げようとするすべての実践者にとって、強力な交渉上の武器となる。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Sarasvathy, S. D., & Dew, N. (2005). New market creation through transformation. Journal of Evolutionary Economics, 15(5), 533–565.
- Fisher, R., & Ury, W. (1981). Getting to Yes: Negotiating Agreement Without Giving In. Houghton Mifflin.
- Brettel, M., Mauer, R., Engelen, A., & Küpper, D. (2012). Corporate effectuation: Entrepreneurial action and its impact on R&D project performance. Journal of Business Venturing, 27(2), 167–184.
- Dew, N., Read, S., Sarasvathy, S. D., & Wiltbank, R. (2008). Outlines of a behavioral theory of the entrepreneurial firm. Journal of Economic Behavior & Organization, 66(1), 37–59.
- Wiltbank, R., Dew, N., Read, S., & Sarasvathy, S. D. (2006). What to do next? The case for non-predictive strategy. Strategic Management Journal, 27(10), 981–998.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.