目次
「市場が存在するかどうか分からない」というジレンマ
新規事業開発に携わる人間は、必ずある根本的な問いに直面する。「この市場は本当に存在するのか?」という問いである。従来の事業開発アプローチでは、TAM(Total Addressable Market)、SAM(Serviceable Available Market)、SOM(Serviceable Obtainable Market)といったフレームワークで市場規模を推定し、市場調査によって顧客ニーズを検証することが求められる。投資家やステークホルダーは、精緻な市場分析に基づく事業計画書を要求し、「エビデンスのない市場」に投資することを拒む。
しかし、ここに根本的なパラドックスがある。本当に「新しい」市場には、分析すべき既存のデータが存在しないのである。iPhone が登場する前に「スマートフォンアプリ市場」を調査することは不可能であった。Airbnb が創業される前に「個人間宿泊共有市場」の TAM を算出した調査会社は存在しなかった。Uber が生まれる前に「ライドシェア市場」のトレンドを分析したレポートは、どこにもなかったのである。
市場調査は、既存の市場を分析する道具としては有効である。しかし、まだ存在しない市場を「発見」するための道具としては、原理的に機能しない。では、新しい市場はどこから来るのか。この問いに対して、起業家精神研究(Entrepreneurship Research)は長年にわたり激しい論争を続けてきた(Alvarez & Barney, 2007, p. 11)。
存在論的論争:発見か、創造か
起業家が「機会(Opportunity)」とどのように関わるかという問題は、単なる方法論の選択ではなく、存在論的(ontological)な問いである。市場機会は起業家の行動とは独立に客観的に存在するものなのか、それとも起業家の行動によって主観的に構築されるものなのか。この問いに対する回答の違いが、起業家研究における最大の理論的分岐点を形成してきた。
カーズナーの「アラートネス」——発見理論
オーストリア学派の経済学者 Israel Kirzner は、市場機会を「客観的に存在するもの」として描いた。Kirzner(1973)によれば、市場には常に不均衡が存在しており、ある財やサービスの価格が「あるべき水準」からずれている状態が生じている。起業家の役割は、この不均衡を鋭い注意力——「アラートネス(alertness)」——で察知し、裁定取引(arbitrage)を通じて市場を均衡に導くことである。
Kirzner のモデルにおいて、起業家は「均衡化(equilibrating)」の担い手である。市場機会は地面に落ちている100ドル紙幣のようなものであり、起業家は他の人が見落としている紙幣に気づく鋭い目を持った人物として位置づけられる。メタファーとして言えば「山登り」に近い。山はすでにそこに存在しており、霧がかかって見えないだけである。起業家は霧を晴らし、山を見つけ、登頂するのである(Kirzner, 1973, pp. 35-47)。
この発見理論(Discovery Theory)は、Shane & Venkataraman(2000)のアントレプレナーシップ研究の枠組みにも大きな影響を与えた。彼らは「起業機会は客観的に存在し、特定の個人がそれを発見する」というモデルを提示し、アントレプレナーシップ研究のパラダイムを形成した。
シュンペーターの「創造的破壊」
一方、Joseph Schumpeter は起業家をまったく異なる存在として描いた。Schumpeter(1934)にとって、起業家は市場の不均衡を修正する存在ではなく、むしろ既存の均衡を積極的に破壊する存在である。彼は「新結合(Neue Kombination)」という概念を提唱し、起業家を新しい生産方法、新しい製品、新しい市場、新しい供給源、新しい組織形態を創出する革新者として位置づけた。
Schumpeter の描く起業家は、既存の秩序を創造的に破壊する英雄的な個人である。彼らは常人とは異なる洞察力とリーダーシップで、経済の構造そのものを変革する。しかし、この「シュンペーター的起業家」は、天才的なビジョナリーとしての色彩が濃い。創造的破壊は特別な資質を持つ少数の人間にしか実行できない——というのが、この理論の暗黙の前提であった(Schumpeter, 1934, pp. 74-94)。
エフェクチュエーションの「創造」——山を造る
Sarasvathy & Dew(2005)は、発見と創造の二項対立を超える第三の視座を提示した。エフェクチュエーションの立場では、市場は起業家の行動とは独立に「そこに存在する」ものでもなければ、天才的なビジョナリーが一気に創出するものでもない。市場は、起業家とステークホルダーの社会的相互作用の結果として、事後的に構築(construct)されるものである(Sarasvathy & Dew, 2005, p. 543)。
Sarasvathy が用いるメタファーは**「山造り」である。山を発見して登るのではなく、土を運び、石を積み、少しずつ山を造っていく。最初から完成形が見えている必要はない。手元にある材料で積み上げていくうちに、それが「山」と呼べるものになるのである。シュンペーター的な創造が「天才によるビッグバン」だとすれば、エフェクチュエーション的な創造は「手持ちの手段からの漸進的な積み上げ」**である。
以下の比較表で、三者の立場を整理する。
| 観点 | 発見理論(カーズナー) | 創造的破壊(シュンペーター) | エフェクチュエーション |
|---|---|---|---|
| 機会の存在論 | 客観的に存在する | 起業家が破壊と創造で生み出す | 相互作用を通じて構築される |
| 起業家の役割 | 不均衡の発見者 | 創造的破壊者 | 手段の組み合わせによる構築者 |
| 市場のメタファー | 山を発見して登る | 革命で地形を変える | 土を盛って山を造る |
| 必要な能力 | アラートネス(注意力) | ビジョンとリーダーシップ | 手段の棚卸しと交渉 |
| 再現可能性 | 注意力は鍛えられる | 天才の特権 | 学習可能なプロセス |
人工物の科学としての市場
エフェクチュエーションの市場創造理論は、Herbert Simon の「人工物の科学(The Sciences of the Artificial)」から強い影響を受けている。Simon(1996)は、人工物(artifact)を「内部環境と外部環境のインターフェース」として定義した。時計は、歯車やバネといった内部環境と、時間を知りたいという人間のニーズ(外部環境)のインターフェースとして設計された人工物である。
Sarasvathy はこのフレームワークを市場に適用する。**市場もまた、自然界に自生する「自然物」ではなく、人間が設計・構築する「人工物」**である。市場の「内部環境」は、企業の資源、技術、組織能力といった手段の集合であり、「外部環境」は、顧客のニーズ、社会的コンテキスト、制度的枠組みといった条件の集合である。市場はこの両者のインターフェースとして「設計」されるものなのである(Sarasvathy, 2008, pp. 215-228)。
この視座は、市場の「発見」に固執するアプローチに対する根本的な批判を含んでいる。自然科学が自然法則を「発見」するのに対して、工学やデザインは人工物を「設計」する。市場が人工物であるならば、それは発見の対象ではなく設計の対象である。科学者のように市場を「調べる」のではなく、デザイナーのように市場を「創る」べきなのである。
変換(Transformation)としての市場創造
Sarasvathy & Dew(2005)は、市場創造のメカニズムとして**「変換(Transformation)」**という概念を提唱した。変換とは、既存の現実を入力として受け取り、エフェクチュアルな手段を通じてその意味や機能を書き換え、新しい現実を出力するプロセスである(Sarasvathy & Dew, 2005, pp. 544-548)。
Airbnb の事例がこの「変換」を鮮明に示している。Airbnb の創業者たちが行ったことは、「個人の空き部屋」という既存の現実を「宿泊施設」という新しい現実に変換することであった。物理的には何も変わっていない。同じ部屋、同じベッド、同じ建物である。しかし、その意味と機能が根本的に書き換えられた。「友人が泊まりに来たときに使う部屋」は、「見知らぬ旅行者が対価を支払って宿泊する施設」へと変換されたのである。
この変換は、既存の宿泊市場を「発見」した結果ではない。「個人間宿泊共有市場」は、Airbnb が変換を行う前には存在しなかった。TAM を推定しようにもデータがなかった。市場調査を行おうにも調査対象が存在しなかった。市場は Airbnb のエフェクチュアルなプロセス——手持ちの手段から出発し、ステークホルダーとの交渉を通じて拡張していくプロセス——の結果として、事後的に出現したのである。
アロセントリック vs イディオセントリック——認知フレームの転換
Sarasvathy & Dew(2005)は、発見と創造の対比をさらに深めるために、「アロセントリック(allocentric)」と「イディオセントリック(idiocentric)」という認知フレームの概念を導入した。
アロセントリックな認知フレームは、主体の外部に客観的な参照点を設定し、その参照点を基準に世界を認識するアプローチである。発見理論はアロセントリックな認知フレームに基づいている。市場機会は起業家の外部に客観的に存在しており、起業家はそれを正確に認識する——つまり「発見する」——ことが求められる。地図を使って宝の在り処を探すようなものである。
一方、イディオセントリックな認知フレームは、主体自身を参照点として世界を認識するアプローチである。エフェクチュエーションはイディオセントリックな認知フレームに立脚している。市場の形は、起業家が何者であるか、何を知っているか、誰を知っているかによって決まる。同じ「手段の集合」を持つ起業家は二人としていないため、同じ環境にいても構築される市場は異なるのである(Sarasvathy & Dew, 2005, pp. 540-543)。
この議論は、Karl Weick のイナクトメント(enactment)理論とも深く接続している。Weick(1995)は、組織が環境を認識する際に、単に外部環境を「知覚」しているのではなく、自らの行為を通じて環境を「制定(enact)」していると論じた。起業家もまた、市場を外部から観察しているのではなく、自らの行動を通じて市場を制定しているのである。「この部屋を宿泊施設として貸し出す」という行為そのものが、「個人間宿泊共有」という市場を制定するのである。
コミットメントによる市場の具現化
エフェクチュエーションの市場創造理論において、「コミットメント」は決定的に重要な概念である。Sarasvathy(2008)は、市場が具体的な形を持ち始めるのは、ステークホルダーが具体的なコミットメント——時間、資金、専門知識、ネットワークなどの提供——を行った瞬間であると論じている(Sarasvathy, 2008, pp. 67-82)。
顧客の前払いは、市場が存在する最初の物理的証拠である。しかし注意すべきは、この前払いは「発見された市場」に対する反応ではないということである。前払いを行った顧客は、起業家のビジョンに共感し、まだ完成していない製品やサービスに対して資源を投じる**「共創者(co-creator)」**である。クラウドファンディングは、この市場創造メカニズムの制度化された形態と言える。Kickstarter で目標金額を達成したプロジェクトは、「市場が発見された」のではなく、**出資者たちのコミットメントによって「市場が構築された」**のである。
このコミットメントの連鎖は、「探索(Search)」ではなく「変容(Transformation)」のプロセスである。市場調査によって「市場はここにある」と探し当てるのではなく、**ステークホルダーとの交渉・協働を通じて「市場をここに作る」**のである。各ステークホルダーのコミットメントは新たな手段をもたらし、その新たな手段がさらに多くのステークホルダーを引きつけ、市場の輪郭は徐々に明確になっていく。
イノベーションの民主化——創造は学習可能である
Schumpeter の創造的破壊モデルには、重要な限界がある。創造的破壊を実行できるのは、特別なビジョンとリーダーシップを持つ「天才的起業家」に限られるという暗黙の前提を内包している点である。このモデルは、Henry Ford、Steve Jobs、Elon Musk といった英雄的起業家の物語とは整合するが、「普通の人が新しい市場を創ることはできるのか」という問いに対しては悲観的な回答を示唆する。
エフェクチュエーションは、この前提を根本から覆す。市場創造は天才的なビジョンの産物ではなく、学習可能なスキルの集合として記述できる。手持ちの手段から出発し、許容可能な損失の範囲内で行動し、ステークホルダーとの交渉を通じてコミットメントを獲得し、偶然の出来事をてこにしながら漸進的に積み上げていくプロセスである(Sarasvathy, 2008, pp. 225-233)。
Sarasvathy(2001)は、エフェクチュエーションの各原則が相互に補強し合いながら市場創造プロセスを駆動すると論じている。手中の鳥の原則が出発点を提供し、許容可能な損失の原則がリスクを管理し、クレイジーキルトの原則がステークホルダーを巻き込み、レモネードの原則が偶然を活用し、飛行機のパイロットの原則が主体的なコントロールの姿勢を維持する。この5つの原則を意識的に実践することで、誰もが市場創造のプロセスに参加できる。エフェクチュエーションは、イノベーションを「天才の特権」から「学習可能な実践」へと民主化するのである(Sarasvathy, 2001, pp. 259-262)。
市場を「探す」のをやめて「作る」行動を始めよう
ここまで論じてきた理論的枠組みは、実務においてどのような行動変容を促すのか。最も重要な転換は、「市場を探す」という姿勢から「市場を作る」という姿勢への移行である。
以下のアクションは、今日から実行可能である。
- 市場調査を「検証」から「対話」に変える: 市場規模を推定するためのデスクリサーチに時間を費やすのではなく、潜在的なステークホルダーとの対話を通じて、彼らが何にコミットする意思があるかを確認する
- 最初の顧客を「発見」するのではなく「共創」する: 完成した製品を市場に投入して反応を見るのではなく、開発段階から顧客を巻き込み、共に市場を構築する
- 事業計画書を「予測」から「行動原則」に置き換える: 5年後の売上予測を精緻化するのではなく、手持ちの手段の棚卸し、許容可能な損失の設定、最初のコミットメント獲得のための行動計画を記述する
市場は、地中に埋まっている鉱脈のように「発見される」のを待っているわけではない。市場は、人間の行動と相互作用を通じて「創造される」人工物である。Sarasvathy & Dew(2005)が明らかにしたように、変換のプロセスは、既存の現実を入力として新しい現実を出力する。あなたの手元にある素材——あなたが何者であるか、何を知っているか、誰を知っているか——こそが、次の市場を創造するための入力なのである。
関連記事として「飛行機のパイロットの原則」、「メイカブル・マーケットとエフェクチュエーション」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D., & Dew, N. (2005). New market creation through transformation. Journal of Evolutionary Economics, 15(5), 533–565.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Alvarez, S. A., & Barney, J. B. (2007). Discovery and creation: Alternative theories of entrepreneurial action. Strategic Entrepreneurship Journal, 1(1-2), 11–26.
- Kirzner, I. M. (1973). Competition and Entrepreneurship. University of Chicago Press.
- Schumpeter, J. A. (1934). The Theory of Economic Development. Harvard University Press.
- Simon, H. A. (1996). The Sciences of the Artificial (3rd ed.). MIT Press.
- Weick, K. E. (1995). Sensemaking in Organizations. Sage Publications.
- Shane, S., & Venkataraman, S. (2000). The promise of entrepreneurship as a field of research. Academy of Management Review, 25(1), 217–226.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.