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ネスレ アンバサダー——「売らずに広がる」仕組みでオフィスコーヒー市場を創った

高岡浩三がオフィスコーヒー市場を個人の「アンバサダー」制度で創出した事例をエフェクチュエーションの「飛行機のパイロット」原則で分析。従来の流通を迂回し、新しい市場を自らの手で形成した過程を追う。

約9分
目次

導入——流通チャネルを「発明」する

日本のオフィスにおけるコーヒー消費は、自動販売機と缶コーヒーが長年支配してきた。**「淹れたてのコーヒーをオフィスで手軽に飲む」**という体験は、カフェに行くか自分でドリッパーを持ち込むしかなかった。

ネスレ日本の高岡浩三社長(当時)は、この課題を既存の流通チャネルで解決しようとはしなかった。「アンバサダー」と呼ばれる個人を起点とした、全く新しい流通の仕組みを発明した。エフェクチュエーション理論の「飛行機のパイロット」原則——自らの行動で未来を形成する——の、日本の消費財業界における革新的な実践例である。

企業・人物の概要——「イノベーションのジレンマ」との格闘

高岡浩三は1983年にネスレ日本に入社し、マーケティング部門でキャリアを積んだ。2010年に代表取締役社長兼CEOに就任した。

就任当時のネスレ日本は、インスタントコーヒー「ネスカフェ」ブランドで圧倒的なシェアを持っていたが、市場全体が縮小傾向にあった。家庭でのインスタントコーヒー消費は減少し、若年層はカフェやコンビニのカウンターコーヒーに流れていた。

高岡が直面したのは典型的な**「イノベーションのジレンマ」**であった。既存の流通チャネル(スーパーマーケット、コンビニ)を通じた販売だけでは、新しい消費シーンを創出できない。しかし新しいチャネルの開拓には、既存の流通パートナーとの関係を損なうリスクがあった。

イノベーションの経緯——「人」を流通チャネルにする

「ネスカフェ アンバサダー」の着想

高岡の着眼点はオフィスという消費空間であった。日本には約400万のオフィスがあるが、そのほとんどはネスレの既存チャネル(小売店)ではリーチできない。一つひとつのオフィスに営業担当を配置するのもコスト的に不可能であった。

そこで高岡が考案したのが**「アンバサダー」制度であった。各オフィスでコーヒー好きの社員一人にバリスタ(コーヒーマシン)を無料で貸し出し**、その人がオフィスのメンバーにコーヒーを提供する。コーヒーカプセルの購入費用はオフィスのメンバーで分担する。

アンバサダーは従業員ではなく、報酬も受け取らない。自発的にコーヒーを広める「伝道師」である。この仕組みにより、ネスレは営業コストをほぼゼロにしながら、数十万のオフィスにリーチすることが可能になった。

2012年の本格展開

2012年にアンバサダー制度が本格始動すると、応募は予想を大きく上回った。開始1年で約10万人のアンバサダーが登録し、その後も増加を続けた。

成功の要因は、アンバサダーにとっての動機が「報酬」ではなく「感謝されること」であった点にある。オフィスにおいしいコーヒーを持ち込むことで同僚から感謝される——この社会的報酬が無料の営業力として機能した。

高岡は市場調査でこの動機を「発見」したのではない。アンバサダー制度という仕組みを実際に動かす中で、人間の社会的動機が流通力になるという現象を「創出」したのである。

ビジネスモデルの革新

アンバサダー制度は単なるマーケティング施策ではなく、ビジネスモデルの根本的な変革であった。従来のモデルは「メーカー → 卸売 → 小売 → 消費者」という直線的な流通であった。アンバサダー制度では**「メーカー → アンバサダー → オフィスメンバー」**という新しいチャネルが形成された。

中間流通を完全にスキップし、消費者(アンバサダー)が流通機能を担う。これは既存のマーケティング理論には存在しなかったモデルであった。

数字で見るインパクト

アンバサダー制度は2020年代には約50万台のマシンが稼働するまでに成長した。ネスレ日本のコーヒー事業は、家庭用市場の縮小にもかかわらず、オフィス市場という新しい収益源によって成長を維持した。高岡が「発見」したのではなく「創出」したオフィスコーヒー市場は、日本のコーヒー産業の地図を塗り替えた。

エフェクチュエーション原則の分析——「飛行機のパイロット」の流通革命

市場を「発見」するのではなく「構成」する

Sarasvathy(2008)は「飛行機のパイロット」原則の核心を、**「未来は発見されるものではなく、作られるものである」**と述べている(Sarasvathy, 2008, p. 91)。オフィスコーヒー市場は高岡が行動する前には「市場」として認識されていなかった。

需要調査をしても「オフィスで淹れたてコーヒーを飲みたいですか?」に対する有意義な回答は得られなかっただろう。消費者は体験したことのないものを「求めている」とは回答できない。高岡はアンバサダー制度という行動を通じて、潜在的な需要を顕在化させ、市場を構成した。

流通チャネルの「発明」

Sarasvathy(2001)は、エフェクチュエーション的起業家が**「既存の環境を変える行動を取る」**ことを強調している(Sarasvathy, 2001, p. 252)。高岡は既存の流通チャネル(小売店)に依存する代わりに、消費者自身を流通チャネルに変えるという全く新しい仕組みを発明した。

これは流通環境を所与として受け入れるのではなく、流通の構造そのものを自らの行動で変える行為である。飛行機のパイロットが新しい航路を開拓するように、高岡は新しい流通の道筋を創った。

人間の動機の活用

アンバサダー制度の成功は、金銭的報酬ではなく社会的報酬(感謝・承認)が人を動かすという洞察に基づいている。しかしこの洞察は事前の分析から得られたものではなく、制度を実際に運用する中で確認された。Sarasvathy(2008)の表現を借りれば、**「行動が洞察を生み、洞察がさらなる行動を導く」**というエフェクチュエーション的サイクルの典型例である(Sarasvathy, 2008, p. 92)。

実務への示唆——「売る」以外の方法で市場を作る

ネスレ アンバサダーの事例が実務家に示す教訓は三つある。第一に、既存の流通チャネルに依存しない選択肢を常に模索すべきである。「小売店で売る」「営業が訪問する」以外にも、消費者自身を流通の一部にする方法がある。飛行機のパイロットは既存の空港だけを使うのではなく、必要なら滑走路を自ら作る。

第二に、人間の社会的動機は強力な事業資源である。感謝されたい、認められたい、役に立ちたいという動機は、金銭的インセンティブよりも持続的に機能する場合がある。この動機をビジネスモデルに組み込むことで、低コストで広範囲に展開できる仕組みが生まれる。

第三に、「体験させること」が最強のマーケティングである。オフィスで淹れたてコーヒーを体験した人は、その価値を認識する。広告で訴求するのではなく、体験を通じて市場を創る。未来は広告によって「予測」されるのではなく、体験によって「構成」されるのである。

「飛行機のパイロットの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。


引用・参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • 高岡浩三 (2016).『ネスレの稼ぐ仕組み——自宅と職場をカフェにした、マーケティングの真髄』KADOKAWA.
  • 高岡浩三 (2020).『イノベーション道場——極限まで思考し、最速で価値を生む方法論』日経BP.
  • Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.

参考書籍

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