目次
導入——「勝てないゲーム」のルールを変える
2005年、家庭用ゲーム機市場はソニーの PlayStation と Microsoft の Xbox が**処理能力とグラフィックの向上を競う「スペック戦争」**を繰り広げていた。任天堂の GameCube は性能面で両社に後れを取り、市場シェアは大きく落ち込んでいた。
しかし任天堂の岩田聡社長(当時)は、スペック競争で巻き返す道を選ばなかった。代わりに、競争の土俵そのものを変えた。「ゲーム人口の拡大」——すなわちゲームをしない人々を新たにゲーマーにするという戦略は、市場の未来を予測するのではなく、市場の定義を自ら書き換える行動であった。
企業・人物の概要——プログラマー社長の逆転発想
岩田聡は1959年、北海道札幌市に生まれた。東京工業大学在学中からゲームプログラマーとして活動し、HAL研究所に入社後、『星のカービィ』シリーズなど数々の名作を手がけた。
2000年、経営危機に陥っていたHAL研究所の社長に就任し、再建を果たした後、2002年に任天堂の代表取締役社長に就任した。42歳で創業家以外から初めて社長となった異例の人事であった。
就任当時、任天堂は GameCube の不振に加え、携帯ゲーム市場でもソニーの PSP の参入に直面していた。業界アナリストの多くは「任天堂はプラットフォーム事業から撤退し、ソフトウェア専業になるべき」と提言していた。岩田はこの予測を根本から覆す行動に出る。
イノベーションの経緯——「ゲームの再定義」への挑戦
ニンテンドーDS——二画面とタッチの実験
Wii に先立ち、2004年に発売されたニンテンドーDS は岩田の戦略の最初の実験場であった。二つの画面、タッチスクリーン、マイク入力という、従来の携帯ゲーム機の常識を覆す設計であった。
DS 向けソフト『脳トレ(Brain Age)』は象徴的であった。ゲームの「顧客」を若年男性から中高年層に拡張した。ゲームをしたことがない母親や祖父母が DS に触れるという光景が全国で見られた。これは市場調査の結果ではなく、「ゲームの定義を変える」という行動の結果として生まれた現象であった。
Wii のコンセプト——「家族全員がリビングに集まる」
2006年11月に発売された Wii は、意図的にスペック競争から離脱した。処理性能は PS3 や Xbox 360 を大きく下回った。その代わりに導入されたのがWii リモコン——テレビに向けて振る、傾ける、ポインティングするという直感的な操作デバイスであった。
岩田のビジョンは明快であった。「ゲーム機の電源を入れるだけで家族に嫌がられる」状況を変えること。Wii はゲーマーではなく、ゲームをしない家族全員を対象として設計された。
Wii Sports の破壊力
本体に同梱された『Wii Sports』は、ゲーム産業の歴史を変えるソフトとなった。テニス、ボウリング、ゴルフなど、Wii リモコンを振るだけで直感的にプレイできるスポーツゲームの集合体であった。
老人ホームで高齢者が Wii Sports のボウリングに興じる映像は世界中で話題となった。「ゲームは若者のもの」という前提が、Wii Sports の登場で崩壊した。任天堂はゲーム人口を予測したのではなく、自らの製品によってゲーム人口を拡大したのである。
商業的成功と業界への衝撃
Wii は発売後、世界的な品薄状態が続いた。最終的に全世界で1億台以上を出荷し、同世代の PS3 と Xbox 360 の販売台数を上回った。
しかし Wii の最大のインパクトは販売台数ではない。ソニーと Microsoft が「高性能化」という一方向に進む中、任天堂が「別の軸」を提示し、その軸で勝利したことが業界の前提を揺るがした。ゲーム市場の未来は、スペック向上の一直線上にあるのではなく、誰かが新しい方向を選択すれば変わりうることが証明された。
エフェクチュエーション原則の分析——「飛行機のパイロット」の戦略的転換
競争の「土俵」を自ら選ぶ
Sarasvathy(2001)は、エフェクチュエーション的起業家が**「環境を所与とせず、自らの行動で環境を形成する」**と述べている(Sarasvathy, 2001, p. 252)。岩田が行ったのは、「スペック競争で負けている」という環境認識に対して、競争のルールそのものを変える行動であった。
PS3 が Cell プロセッサの処理能力を武器にした一方、Wii は**「処理能力は重要ではない」という新しい前提**を市場に持ち込んだ。競争の土俵を変えることで、予測(「高性能機が勝つ」)を無効化したのである。
「顧客」の再定義
Sarasvathy(2008)は「飛行機のパイロット」原則において、**「市場は作られるものである」**と述べている(Sarasvathy, 2008, p. 91)。従来のゲーム市場は「ゲーマー(主に若年男性)」が顧客であった。
岩田は**「ゲーマー」という顧客定義を「ゲームを楽しむ全ての人」に拡張**した。この拡張は市場調査の結果ではなく、Wii リモコンと Wii Sports という具体的な製品を通じて実現された。顧客を「発見」したのではなく、自らの行動で顧客を「創造」したのである。
技術と体験の関係の逆転
因果論的なゲーム機開発では、「最先端技術 → 高品質な体験 → 市場の拡大」という因果連鎖が想定される。岩田はこの因果連鎖を逆転させた。**「どんな体験を提供するか → それに必要な技術は何か」**というアプローチである。
Sarasvathy(2001)の枠組みでは、因果論が**「目的から手段を選ぶ」のに対し、エフェクチュエーションは「手段から可能な目的を探る」**(Sarasvathy, 2001, p. 245)。Wii のケースでは、「直感的な操作」という体験目標が先にあり、技術はそれを実現する手段として従属的に位置づけられた。
実務への示唆——「勝てない競争」には参加しない
任天堂 Wii の事例が実務家に示す教訓は三つある。第一に、勝てない競争のルールに従う義務はない。スペック競争で勝ち目がないなら、スペック以外の軸で競争を定義し直す。飛行機のパイロットは暴風雨に突入するのではなく、航路を変えて目的地に到達する。
第二に、「顧客」の定義を拡張することで市場は劇的に広がる。「ゲーマーでない人をゲーマーにする」という発想は、既存市場のシェア争いとは根本的に異なるアプローチであった。自社の顧客が「誰であるべきか」を能動的に再定義することで、市場創造が可能になる。
第三に、技術的な「劣位」は必ずしも不利ではない。Wii の処理性能は PS3 の何分の一かであったが、消費者体験では圧倒した。技術の優劣ではなく、体験の設計こそが市場を形成する力を持つ。
「飛行機のパイロットの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- 岩田聡・宮本茂・糸井重里 (2019).『岩田さん——岩田聡はこんなことを話していた。』ほぼ日.
- Sheff, D. (1993). Game Over: How Nintendo Conquered the World. Vintage Books.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.