目次
導入——「副作用」が年間20億ドルの市場を創った
製薬業界において、臨床試験で期待した効果が得られないことは日常的に起こる。多くの場合、そのような化合物は開発中止となり、研究費は回収不能の損失として処理される。
しかし、Pfizer社のシルデナフィル(後のバイアグラ)は、狭心症治療薬としての臨床試験で「失敗」しながらも、その副作用を新たな治療領域に転換することで年間20億ドル規模の売上を誇るブロックバスター医薬品となった。エフェクチュエーション理論におけるレモネード原則——予期せぬ事態を梃子として活用する思考法——の製薬業界における代表的事例である。
企業・人物の概要——Pfizerと心血管研究チーム
Pfizer——世界最大級の製薬企業
Pfizer社は1849年にニューヨークで設立された世界有数の製薬企業である。1990年代初頭、同社は心血管疾患領域での新薬開発に注力しており、英国サンドイッチ研究所がその拠点であった。
シルデナフィルの開発チーム
シルデナフィルの研究は、Pfizerの英国サンドイッチ研究所でIan OsterlohやNicholas Terrettらの研究者によって進められていた。当初の開発目的は、PDE5(ホスホジエステラーゼ5型)阻害による狭心症および高血圧の治療であった。
この化合物は「UK-92480」というコードネームで呼ばれ、心血管疾患の新しい治療選択肢として大きな期待が寄せられていた。
イノベーションの経緯——「失敗」から「発見」へ
狭心症治療薬としての挫折(1991-1992)
1991年から開始された臨床試験において、シルデナフィルは狭心症に対する有効性が期待を下回るという結果を示した。血管拡張作用は認められたものの、既存の狭心症治療薬と比較して優位性を示すことができなかった。
通常の製薬プロセスであれば、この時点で開発は中止される。数百万ドルの研究開発費は埋没費用として処理され、研究チームは次の化合物の開発に移るのが合理的判断である。
予期せぬ「副作用」の報告(1992-1993)
しかし、臨床試験に参加した被験者から予期せぬ報告が上がってきた。男性被験者の多くが、シルデナフィル服用後に勃起機能の改善を経験したと報告したのである。さらに、試験終了後に余った錠剤の返却を拒む被験者が続出した。
この「副作用」は、心血管研究の文脈では無関係な現象であった。しかし、研究チームはこの報告を無視しなかった。被験者の予想外の反応の中に、新しい治療可能性を見出したのである。
ED治療薬への戦略的転換(1993-1998)
Pfizerは大きな決断を下した。シルデナフィルの適応症を狭心症から勃起不全(ED)治療に転換し、新たな臨床試験を開始したのである。これは製薬業界においてきわめて異例のピボットであった。
ED治療の臨床試験では、シルデナフィルは顕著な有効性を示した。1998年3月、米国食品医薬品局(FDA)はシルデナフィルを「バイアグラ」の商品名でED治療薬として承認した。発売初年度から10億ドルを超える売上を記録し、製薬史上最も成功した製品転換の一つとなった。
市場の創造と社会的影響
バイアグラの登場は、ED治療に対する社会的タブーの壁を打ち破った。それまでEDは恥ずかしい症状として医療機関への相談すら避けられていたが、バイアグラの広範な報道により、多くの男性が治療を求めるようになった。Pfizerは既存市場を奪ったのではなく、新しい治療市場そのものを創造したのである。
エフェクチュエーション原則の分析——「レモネード」の製薬における展開
「副作用」を「主作用」に転換する思考
Sarasvathy(2001)は、レモネード原則について「予期せぬ出来事を回避すべきリスクとしてではなく、活用すべき機会として捉える」と述べている(Sarasvathy, 2001, p. 252)。バイアグラの事例は、この原則を製薬の文脈で最も劇的に体現している。
臨床試験の「副作用」は、通常は薬剤の安全性リスクとして管理・最小化される対象である。しかし、Pfizerの研究チームは副作用の中に新しい治療可能性を認識し、それを主作用として再定義した。レモン(狭心症治療の失敗と副作用)をレモネード(ED治療薬)に転換した、きわめて明確な事例である。
埋没費用の再活用
Sarasvathy(2008)の「許容可能な損失(affordable loss)」の原則とも関連するが、バイアグラの事例で特筆すべきは、狭心症治療薬としての研究開発投資が「無駄」にならなかった点である(Sarasvathy, 2008, pp. 15-16)。
通常の因果論的アプローチでは、狭心症治療に失敗した化合物への投資は埋没費用となる。しかし、エフェクチュエーション的な思考により、既に投資された研究成果(臨床データ、安全性データ、製造プロセス)を新しい適応症に再活用することが可能となった。
被験者の声を「手段」として活用
Read et al.(2016)は、エフェクチュエーション的な意思決定において、ステークホルダーからの予期せぬフィードバックが新しい方向性を示す手がかりとなると論じている。バイアグラの事例では、臨床試験の被験者——本来は狭心症の患者として参加していた人々——が、意図せずして**新しい市場の「最初の顧客」**となった。
錠剤の返却を拒む被験者の行動は、市場調査では把握できないリアルな需要シグナルであった。この声を傾聴し、事業の方向性を根本的に転換する判断は、レモネード原則の実践そのものである。
社会的タブーの「レモン」を機会に
ED治療という領域は、社会的タブーにより市場が見えにくい状態にあった。Sarasvathy(2008)の枠組みでは、このタブーは「不確実性」の一形態であり、従来のマーケティング手法では市場規模の予測が困難であった(Sarasvathy, 2008, pp. 55-60)。
しかし、Pfizerはこのタブーを障壁ではなく機会として捉えた。治療薬の存在自体が社会的タブーを打破し、潜在需要を顕在化させたのである。これは「市場の発見」ではなく「市場の創造」であり、エフェクチュエーション理論が予測するプロセスと一致する。
実務への示唆——「失敗した開発」を再定義する
バイアグラの事例から、実務家は以下の示唆を得ることができる。
第一に、開発プロジェクトの「失敗」を、別の角度から再評価する仕組みを設けることである。Pfizerの研究チームが被験者の副作用報告を見逃さなかったように、当初の目的とは異なる結果の中にも事業機会が潜んでいる可能性がある。定期的な「失敗プロジェクト再評価会議」のような制度が有効であろう。
第二に、顧客・ユーザーの予期せぬ行動や反応に注意を払うことである。錠剤の返却を拒む被験者の行動は、定量的な有効性データ以上に重要な市場シグナルであった。フォーマルなフィードバック以外の行動観察が、新しい市場機会の発見につながりうる。
第三に、社会的なタブーや「見えない市場」の中にこそ大きな機会があることを認識すべきである。タブーの存在は参入障壁であると同時に、その障壁を突破した場合の先行者利益も大きい。レモネード原則は、社会的障壁をも「レモン」として捉え直す視点を提供する。
「レモネードの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243-263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Osterloh, I. (2004). How I discovered Viagra. Cosmos Magazine, 5, 60-64.
- Ghofrani, H. A., Osterloh, I. H., & Grimminger, F. (2006). Sildenafil: From angina to erectile dysfunction to pulmonary hypertension and beyond. Nature Reviews Drug Discovery, 5(8), 689-702.