目次
導入——「市場が育つのを待つ」のではなく「育てる」
2001年の日本において、ブロードバンド(高速インターネット接続)の普及率は先進国の中で低位に沈んでいた。NTTはISDN(64kbps)の普及に注力しており、ADSL(数Mbps)への移行には消極的であった。**「ブロードバンドは日本ではまだ早い」**というのが通信業界の支配的な見解であった。
孫正義はこの見解を受け入れなかった。市場が成熟するのを待つのではなく、自らの行動でブロードバンド市場を強制的に創出した。エフェクチュエーション理論の「飛行機のパイロット」原則——未来を予測するのではなく、自らの手で未来を形成する——の、最も攻撃的な実践例の一つである。
企業・人物の概要——「デジタル情報革命」の体現者
孫正義は1957年、佐賀県に生まれた。カリフォルニア大学バークレー校在学中から起業し、帰国後1981年にソフトバンクを設立した。ソフトウェア流通から出発し、出版、インターネットポータル(Yahoo! Japan)と事業を拡大してきた。
孫の行動原理は**「デジタル情報革命で人々を幸せにする」**という信念であった。2000年代初頭、インターネットの可能性を最大限に引き出すにはブロードバンドの普及が不可欠であると確信した孫は、自ら通信事業に参入するという決断を下した。
当時、日本の通信市場はNTTグループがほぼ独占しており、新規参入のハードルは極めて高かった。しかし孫は「NTTが動くのを待つ」のではなく、自分がNTTの代わりに日本のブロードバンド化を推進するという道を選んだ。
イノベーションの経緯——常識を破壊する「力業」の連続
ADSLの価格破壊
2001年6月、Yahoo! BB は月額2,280円(後に2,880円に改定)という当時の相場の半額以下の料金でADSLサービスを発表した。8Mbpsの接続速度は、NTTのISDNの125倍であった。
この価格設定は「ビジネスとして成立しない」と業界から批判された。実際、初期は大幅な赤字であった。しかし孫の目的は短期的な収益ではなかった。ブロードバンドの普及速度を自らの行動で加速させることが戦略の核心であった。
モデム無料配布——「街頭での力業」
Yahoo! BB の最も象徴的な行動は、2001年秋から開始されたADSLモデムの街頭無料配布であった。駅前や繁華街でスタッフがモデムを手渡しし、「とりあえず使ってみてください」と呼びかけた。
この手法は通信業界の常識を完全に逸脱していた。通常、通信サービスは顧客が申し込み、工事を経て開通するという手順を踏む。Yahoo! BB はこのプロセスを逆転させ、**先にモデムを配布し、使い始めてもらうことで需要を「創造」**した。
業界やメディアからは「乱暴すぎる」「品がない」と批判されたが、この「力業」が日本のブロードバンド普及を一気に加速させたことは数字が証明している。
NTTの追随と市場構造の変化
Yahoo! BB の攻勢により、NTTはISDNからADSL・光ファイバーへの転換を加速せざるを得なくなった。フレッツADSLの料金も大幅に引き下げられた。他の通信事業者も競争に参入し、日本のブロードバンド料金は世界最安水準に急落した。
2001年にOECD最下位クラスだった日本のブロードバンド普及率は、わずか数年で世界トップクラスに躍進した。この構造変化を引き起こしたのは、技術革新でも政策変更でもなく、孫正義という一人の起業家の行動であった。
その後の展開
ブロードバンド事業での基盤構築は、ソフトバンクが2006年にボーダフォン日本法人を買収してモバイル通信に参入する布石となった。通信インフラを自ら構築・支配するという「飛行機のパイロット」的行動は、現在のソフトバンクグループの事業基盤を形成したのである。
エフェクチュエーション原則の分析——「飛行機のパイロット」の攻撃的展開
市場の「成熟」を待たない
Sarasvathy(2008)は「飛行機のパイロット」原則を、**「未来は予測されるものではなく、行為者の行動によって構成される」**と述べている(Sarasvathy, 2008, p. 91)。孫正義の行動はこの原則の極めて攻撃的な適用である。
「日本のブロードバンド市場はいつ成熟するか」という予測問題に対し、孫は**「自分の行動で成熟させる」と回答した。市場の成熟を待つのではなく、モデムの無料配布と価格破壊によって市場の成熟速度を自らの手でコントロール**したのである。
競合の行動を「強制」する
Sarasvathy(2001)は、エフェクチュエーション的起業家が自らの行動で環境を変えることを強調している(Sarasvathy, 2001, p. 252)。Yahoo! BB の価格破壊は、NTTという巨大企業の戦略変更を強制した。
NTTがADSL・光ファイバーへの移行を加速したのは、自社の分析や予測に基づくものではなく、Yahoo! BB の行動によって市場環境が変わったからである。孫は自社だけでなく、業界全体の行動を自らの行動で変えた。これは「飛行機のパイロット」原則の最も強力な発現形態である。
赤字を「コントロールの代価」として許容する
Yahoo! BB の初期の大幅赤字は、因果論的には「事業として失敗」と評価される。しかしエフェクチュエーションの観点からは、この赤字は未来をコントロールするための投資であった。Sarasvathy(2001)が述べる通り、エフェクチュエーション的起業家は**「許容可能な損失」の範囲内で行動し、その行動を通じて環境をコントロールする**(Sarasvathy, 2001, p. 252)。孫にとって、ブロードバンド普及を加速させるコストは「許容可能な損失」であったのである。
因果論との対比
因果論的にブロードバンド事業を始めるなら、日本の通信市場の成長予測、ARPU(ユーザーあたり収益)の試算、採算ラインの分析を行い、「適切なタイミング」を見極めるだろう。しかし孫は**タイミングを「見極める」のではなく「決める」**行動を取った。市場が準備できるのを待つのではなく、市場を準備させたのである。
実務への示唆——「環境を変える」行動力
Yahoo! BB の事例が示す教訓は三つある。第一に、市場の成熟を「待つ」のではなく「加速させる」ことが可能である。特にインフラ関連事業においては、先行投資によって市場の発展速度を自らコントロールできる場合がある。
第二に、業界のルールに従う義務はない。モデムの街頭配布は「非常識」とされたが、結果として市場創造の最も有効な手段となった。飛行機のパイロットは既定の航路に従うだけでなく、必要に応じて新しい航路を切り拓く。
第三に、短期的な赤字は、長期的なコントロール獲得のための投資と捉えることができる。Yahoo! BB の赤字はブロードバンド市場の支配権を獲得するためのコストであり、その投資はソフトバンクのその後の通信事業全体の基盤となって回収された。
「クレイジーキルトの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- 井上篤夫 (2012).『志高く——孫正義正伝 新版』実業之日本社.
- 大西孝弘 (2004).『Yahoo! BBの挑戦——ブロードバンドが変える日本の情報通信』日経BP社.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.