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気候変動対策がスケールしない理由
気候変動対策の現場には、奇妙なパラドクスがある。問題の深刻さは広く認識されているにもかかわらず、解決策の多くが小規模のパイロット段階で止まり、社会全体への普及(スケーリング)に至らない。政府や企業が大規模な資金を投じ、緻密な計画を立案しても、現実の気候システムの複雑さ、政策環境の変化、技術革新の予測困難性に計画が追いつかない事態が繰り返される。
問題の本質は、気候変動対策が「ナイト的不確実性(Knightian Uncertainty)」の領域にあることにある。Sarasvathy(2001)が定義するナイト的不確実性とは、確率分布すら推定できない不確実性である。リスクが「確率と結果の積」として計算可能であるのに対し、ナイト的不確実性の下では期待値計算そのものが成立しない(Sarasvathy, 2001, p. 252)。気候システムのフィードバックループ、政策の窓(Kingdon, 1984)の予測不能な開閉、技術コストの非線形的低下——これらはすべてナイト的不確実性の典型的な表れである。
この認識から導かれる結論は明快だ。予測に基づく因果論的(causal)アプローチでは、ナイト的不確実性の領域を制御できない。必要なのは別の論理である。
レモネード原則の構造
Sarasvathy(2008)が提唱するエフェクチュエーションの第4原則「レモネード(Lemonade)」は、予期せぬ事態への態度を根本的に転換する。原典では次のように定義される。
“Effectuators acknowledge surprise and treat it as a resource rather than a deviation.”
— Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar, p. 89.
因果論的アプローチでは、予期せぬ事態は計画からの「逸脱」であり、修正対象である。計画の精度を高め、バッファを確保し、リスクを最小化することが目標となる。レモネード原則はこの前提を逆転させる。予期せぬ出来事を、計画の失敗ではなく新たな資源の出現として積極的に活用する。
実務に翻訳すると、このアプローチは3つの具体的な態度として現れる。第一に、予期せぬ技術的ブレイクスルーや規制変更を「障害の除去」ではなく「新しい入力」として受け取る。第二に、当初の目標を手放す柔軟性を持ちつつ、それ以上の成果を生む機会として再構成する。第三に、サプライズの発生を「計画の失敗」と解釈せず、実験の成果として記録し次の行動に接続する。
気候変動対策における逆説の構造
気候変動対策が直面する「逆説」を整理すると、レモネード原則の適合性がより明確になる。
逆説1:精度の高い計画ほど、気候システムの変化に脆弱になる。因果論的アプローチでは、計画の前提となる気候モデルが高度化するほど、その前提が外れた際の脆弱性も増す。2015年のパリ協定で設定された1.5℃目標は、策定時点の最善の科学的知見に基づくが、ティッピングポイント(転換点)の発見によって前提は継続的に書き換えられている(IPCC, 2021)。
逆説2:急進的な解決策ほど、既存システムとの摩擦が大きい。スケーリングには既存の制度・インフラ・利害関係者との関係が不可欠だが、これらを所与として計画を最適化すると、根本的な変革が困難になる。
Sarasvathy & Dew(2005)は、エフェクチュアルな起業家が「共創されるステークホルダーネットワーク」によって不確実性を縮減することを示した。気候変動対策において、この洞察は特別な意味を持つ。不確実性の高い領域では、「誰と行動するか」がその活動の意義そのものを変容させるからである(Sarasvathy & Dew, 2005, p. 542)。
実践的含意:予期せぬ事態を資源に変える3つの動作
原典では抽象的に定義されるレモネード原則を、気候変動対策のスケーリング文脈に翻訳すると、以下の3つの実践的動作として具体化できる。
動作1:技術コスト崩壊を「計画外の条件変化」ではなく「新しい手段」として受け取る。
太陽光発電のコストは2010年から2023年の間に約90%低下した(IRENA, 2024)。このコスト崩壊は、多くの気候変動対策機関にとって「予測外」の出来事だった。因果論的アプローチでは、既存の計画(例:高コスト前提の分散型発電モデル)が陳腐化したことを意味する。しかしレモネード原則の観点では、コスト崩壊という「サプライズ」が、まったく異なるビジネスモデルと政策設計の可能性を開く新しい手段として機能する。
実務に翻訳すると、この動作は「技術ロードマップを固定しない」という設計原則に接続される。特定技術への長期コミットメントを避け、コスト崩壊が起きた時点でモデルを再設計できる余白を意図的に残すことが重要になる。
動作2:政策の窓が開いた瞬間に、準備済みの「手段の束」を接続する。
Kingdon(1984)の「政策の窓(Policy Window)」論は、政策変化が特定のタイミングに集中することを示す。大規模な自然災害、選挙後の政権交代、国際的な合意形成——これらは予測できないが、発生した時点で政策空間が一時的に開く。
因果論的アプローチでは、こうした窓の開閉を「外部変数」として扱い、開く時期を予測しようとする。レモネード原則の観点では、窓が開くことを前提とせず、開いた時に接続できる「手段の束」を事前に準備しておくことが戦略的意味を持つ。具体的には、規制環境が変わった際に即座に展開可能なパイロット事例、ステークホルダーとの既存のコミットメントネットワーク、実証済みのモデルの「部品」を個別に保持しておくことである。
動作3:失敗した実験を「コスト」ではなく「情報」として会計する。
スケーリングの失敗は多くの場合、「埋没費用(sunk cost)」として処理され、次の意思決定から切り離される。しかし Sarasvathy(2008)が強調する「許容可能な損失(Affordable Loss)」の視点では、小規模な失敗は情報の購入として再解釈できる。
気候変動対策の文脈では、特定地域での適応策の失敗は、地域の生態系・社会制度・利害関係者の構造に関する情報を含む。因果論的アプローチでは、この情報は「次の計画の修正」にのみ使われる。レモネード原則では、失敗自体が新しいステークホルダーとの対話を開く入り口として機能しうる。失敗を可視化し、その原因を開示するプロセスが、当初は想定していなかったアクターとのコミットメント形成につながる事例は、気候適応の現場に数多い(Reymen et al., 2015)。
コーゼーションとの対比:いつレモネード原則を使うか
重要な留意点として、Sarasvathy(2008)はエフェクチュエーションとコーゼーションを対立させるのではなく、文脈依存的に使い分けるべき補完的なロジックとして位置づけている(Sarasvathy, 2008, p. 12)。
気候変動対策における適用の目安は次のように整理できる。コーゼーション(因果論)が有効な場面:技術の実証段階が完了し、コストと効果の見積もりが信頼できる場合、規制環境が安定していて政策の前提が変わらない場合、スケールの目標(地理的範囲・対象人口)が明確な場合。
レモネード原則(エフェクチュエーション)が有効な場面:技術の成熟度が低く、コスト軌跡の予測が困難な場合、政策環境が流動的で利害関係者の連合が形成途中の場合、問題の定義そのものが交渉中で、解決策の輪郭が不明確な場合。
原典では「不確実性が高いほどエフェクチュアルなロジックが有効で、予測可能性が高まるにつれコーゼーションの比率が増す」という動的な関係が示されている(Sarasvathy & Dew, 2005, p. 543)。
まとめ:スケーリングを「設計」から「共創」へ
気候変動対策のスケーリングを「設計問題」として扱う限り、予測の限界が常に壁となる。Sarasvathy のレモネード原則が示すのは、スケーリングを「設計から共創へ」と転換するという別の可能性だ。
予期せぬ技術コスト崩壊、突発的な政策の窓、失敗した実験——これらを計画からの逸脱ではなく、新しいコミットメントと手段の源泉として積極的に活用する組織は、「計画通りに動く組織」より柔軟に、かつ深く、現実の気候システムの変化に接続できる。
原典では「熟達した起業家は予期せぬ出来事を歓迎する」と表現されている(Sarasvathy, 2008, p. 89)。気候変動対策の実践家にとって、この「歓迎」の姿勢は、単なる心理的態度ではなく、戦略的資源の獲得方法そのものである。
参考文献
- IPCC (2021). Climate Change 2021: The Physical Science Basis. Cambridge University Press.
- IRENA (2024). Renewable Power Generation Costs in 2023. International Renewable Energy Agency.
- Kingdon, J. W. (1984). Agendas, Alternatives, and Public Policies. Little, Brown.
- Reymen, I. M. M. J., Andries, P., Berends, H., Mauer, R., Stephan, U., & van Burg, E. (2015). Understanding dynamics of strategic decision making in venture creation: A process study of effectuation and causation. Strategic Entrepreneurship Journal, 9(4), 351–379.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar.
- Sarasvathy, S. D., & Dew, N. (2005). New market creation through transformation. Journal of Evolutionary Economics, 15(5), 533–565.