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「大企業ではエフェクチュエーションは使えない」という誤解
「エフェクチュエーションはスタートアップの話だ。承認プロセスがあり、予算が事前決定され、KPIで評価される大企業には関係ない」——こうした反応は、日本企業でイノベーション研修を行う際によく聞かれる声である。しかしSarasvathy(2001)が強調したのは、エフェクチュエーションは「起業家という職業」に固有のロジックではなく、高い不確実性の下で行動する際の一般的な認知プロセスだという点である。日本の大企業内部の新規事業開発も、市場の不確実性という観点からはスタートアップと本質的に変わらない(Sarasvathy, 2008, p. 195)。
問題の核心は「組織がエフェクチュエーション的か否か」ではなく、**「その組織内で個人がエフェクチュエーション的に行動できる余地があるか」**にある。本稿では、日本の大企業特有の構造的制約の中で、イントラプレナーがエフェクチュエーション原則をどのように活用できるかを論じる。
日本の大企業特有の制約とエフェクチュエーション
稟議制度と許容可能な損失
日本企業の稟議制度は、意思決定を集団で共有し責任を分散させる仕組みである。新規事業の予算申請には、詳細な事業計画書と期待収益の試算が要求される。これは典型的なコーゼーション的要求——「どれだけ儲かるか」を事前に示せ——であり、不確実性が高い段階での事業化を構造的に阻む。
エフェクチュエーションの許容可能な損失原則は、この構造に対する認知的対抗策となりうる。「最悪のケースでいくら失うか」「その損失は組織として耐えられるか」という問いを稟議書に盛り込むことで、リターンの予測が困難な段階でも意思決定を前進させる論理を提供する。Read et al.(2016)は、大企業のイノベーション文脈でも許容可能な損失フレームワークが有効に機能すると述べている(p. 89)。
縦割り組織とクレイジーキルト
日本の大企業でイノベーションが停滞する構造的要因の一つは、部門間の壁である。新規事業の担当者が他部門のリソース(技術、顧客、流通)を活用しようとしても、正式な協力依頼には上司の承認と公式の稟議が必要になる。公式ルートのみでパートナーを「戦略的に選定」しようとするコーゼーション的アプローチは、日本の縦割り組織では特に機能しにくい。
クレイジーキルト原則の観点からは、正式なコラボレーション要請より先に、社内の「自己選択的ステークホルダー」を見つけることが重要になる。勉強会での発表、社内SNSでのアイデア共有、ランチでの対話——こうした非公式なチャンネルを通じて、自らのアイデアに関心を示してくれる人を探すことがクレイジーキルト実践の出発点である。公式な協力依頼は、このような非公式なコミットメントが積み重なった後で行うほうが通りやすい(Sarasvathy, 2008, p. 76)。
日本企業のイノベーション事例から読む
リクルートの「Ring」制度
リクルートが長年運営してきた「Ring(新規事業提案制度)」は、エフェクチュエーション的な行動を制度化した仕組みの一例として解釈できる。提案者が自分の「手中の鳥」——担当業務で培ったドメイン知識、顧客との接点、技術的知見——を起点に事業アイデアを出し、審査を経て予算と時間が付与される。審査基準には「許容可能な損失の範囲内での実験」という考え方が暗示されている。
完全なエフェクチュエーション的設計ではないが、「計画通りの実行」より「実験と学習のサイクル」を促進する構造を持っており、Sarasvathy(2001)が指摘した熟達した起業家のプロセスに近い。エフェクチュエーションの企業内応用で論じたように、日本企業でも制度設計によってエフェクチュエーション的な行動様式は促進できる。
大企業でのレモネードの難しさ
「レモネード原則」——予期せぬ出来事を機会として活かす——は、大企業において最も実践が難しい原則かもしれない。計画からの逸脱は、多くの日本企業では承認を必要とする変更管理プロセスを経なければならない。計画通りでないことへの組織的忌避が、レモネード的な転換を制度的に阻む構造がある。
しかし、完全なピボットでなくとも、小さなレモネード——予想外のユーザーフィードバックをプロダクトに反映する、意図せず起きたパイロット顧客との対話から新機能を発見する——は、個人レベルで実践可能である。組織の承認を必要としない範囲での「予期せぬ出来事の積極活用」が、イントラプレナーにとっての現実的なレモネード実践である。
イントラプレナーへの実践的アドバイス
手中の鳥を「組織資産」として捉え直す
個人の手中の鳥(Who I am / What I know / Whom I know)に加えて、組織が持つ資産も手中の鳥として棚卸しすることが大企業イントラプレナーの出発点となる。既存の顧客基盤、ブランド、流通チャネル、特許、研究開発リソース——これらはスタートアップには存在しない強力な手段である。コーゼーション的な事業計画書を書く前に、「自社が今すでに持っているものから、どんな事業が可能か」という手中の鳥的思考が、日本の大企業では特に有効である。
許容可能な損失を「実験予算」として交渉する
稟議でROIを問われる前に、「最悪の場合にこの予算と時間を失っても、組織として耐えられるか」という問いに答えられる準備をしておくことが重要である。通常の事業計画書では期待収益を前面に出すが、エフェクチュエーション的な稟議書は「許容損失の上限」と「その範囲内で何を学べるか」を明示する。この「実験設計書」としての稟議は、日本企業の承認者にとっても判断しやすい形式となりうる。
コミットメントを積み重ねて「計画」を後から作る
エフェクチュエーションにおいて計画は、事前に作るものではなく、コミットメントが積み重なった結果として事後的に形成されるものである(Sarasvathy, 2008, p. 78)。日本の大企業でのイノベーションも、最初から完璧な事業計画書を作るのではなく、社内の支持者・協力者・最初の試用顧客のコミットメントを先に積み重ね、それを根拠に正式な予算を獲得するプロセスが現実的である。
制約は排除するものではなく、手中の鳥に変えるもの
日本の大企業の制約——稟議制度、縦割り組織、リスク回避文化——は、イノベーションの阻害要因として語られることが多い。しかし手中の鳥原則の観点からは、これらの制約もまた「所与の条件」であり、排除するものではなく活用するものである。稟議制度の中でこそ有効な「許容可能な損失フレーム」、縦割り組織だからこそ機能する「非公式なクレイジーキルト」——制約を手段に変える視点こそが、日本の大企業でエフェクチュエーションを機能させる鍵である。
Sarasvathy(2008)が示したのは「起業家は制御可能なものを制御し、制御不可能なものとうまく付き合う」という態度である(p. 104)。日本企業のイントラプレナーにとって、組織の制約は「制御不可能なもの」の典型であるが、エフェクチュエーション的思考はその制約の中でも前進し続けるための認知的道具となる。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Chandler, G. N., DeTienne, D. R., McKelvie, A., & Mumford, T. V. (2011). Causation and effectuation processes: A validation study. Journal of Business Venturing, 26(3), 375–390.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.