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熟達した起業家 vs 初心者:意思決定プロセスの根本的違い

Sarasvathyの原研究における「熟達した起業家27名 vs MBA学生」の実験を詳解し、起業家的熟達の認知的特徴を明らかにする。

約19分
目次

なぜ「正しいやり方」を学んだ人ほど新規事業で苦戦するのか

MBA や経営学の教科書で学んだフレームワークを忠実に適用しているのに、新規事業がうまくいかない。市場分析を行い、競合をマッピングし、収益予測を立てた。にもかかわらず、事業は動かない。ビジネスの「正解」を知っているはずの人ほど、不確実性の高い環境で身動きがとれなくなる。この逆説的な現象は、新規事業の現場で繰り返し観察されている。

問題は知識の量ではない。意思決定の「ロジック」そのものが異なるのである。Saras Sarasvathy は、熟達した起業家27名とMBA学生を対象としたシンク・アラウド・プロトコル実験を通じて、両者の意思決定プロセスに質的な断絶があることを実証した(Sarasvathy, 2001; 2008)。この研究が明らかにしたのは、熟達した起業家は初心者と「違う答え」を出すのではなく、「違う問い」を立てているという事実である。

ビジネススクールが教える思考と、起業家が実践する思考のズレ

この問題は、起業家教育に携わる研究者の間でも長く認識されてきた。従来の経営学教育は、予測と最適化を基盤とする「コーゼーション(因果推論)」のロジックで設計されている。市場を分析し、目標を設定し、最適な手段を選択する。この思考様式は、既存市場での競争戦略には有効である。しかし、まだ市場が存在しない段階では、分析すべき対象そのものが存在しない。

Sarasvathy が博士課程で在籍したカーネギーメロン大学は、Herbert Simon の限定合理性理論の知的拠点であった。Simon は、人間が完全な合理性のもとで最適化を行うという新古典派経済学の前提を退け、認知的制約のもとで「満足化(satisficing)」を行うと論じた(Simon, 1996)。Sarasvathy はこの知的遺産を起業家研究に持ち込み、「熟達した起業家は、教科書が教えるのとは根本的に異なるロジックで意思決定している」という仮説を検証したのである。

シンク・アラウド実験が暴いた二つの思考世界

実験の設計:公平な土俵をつくる

Sarasvathy の実験設計は、認知科学のエキスパート研究の方法論に厳密に従っている。被験者には架空の製品「Venturing」——アントレプレナーシップ教育のためのコンピュータ・ゲーム——を題材に、新事業を構築する課題が与えられた。架空の製品を用いることで、特定の業界知識の有無による差異を排除し、「どう考えるか」という認知プロセスの純粋な比較を可能にした(Sarasvathy, 2008, pp. 23-26)。

課題は市場の特定、競合分析、資金調達、組織構築など10の意思決定問題で構成され、被験者は考えていることをそのまま声に出しながら回答した。このシンク・アラウド・プロトコルという手法が、回顧的インタビューでは捉えられないリアルタイムの思考プロセスを可視化した(Ericsson & Simon, 1993)。

熟達した起業家の選定基準

実験に参加した27名の熟達起業家は、以下の厳格な基準で選定された。起業家としてのフルタイム経験が15年以上、複数の企業を創業、成功と失敗の両方を経験、少なくとも1社をIPOに導いた実績、創業企業の年商が2億ドルから65億ドルの範囲(Sarasvathy, 2008, pp. 6-7)。これらの基準は、Ericsson et al.(1993)の「熟達に10年以上の意図的練習を要する」という知見に基づくものである。

対照群として選定された37名のMBA学生は、97%が米国人であり、87%が企業の創業経験を持たなかった。チェスのグランドマスターと初心者を比較するように、起業という領域における認知的熟達の本質を浮き彫りにする実験設計であった。

4つの次元で現れた認知パターンの断絶

Dew, Read, Sarasvathy, & Wiltbank(2009)は、Sarasvathy の原実験のプロトコル・データを体系的にコーディングし、熟達起業家とMBA学生の間に統計的に有意な差異が存在することを実証した。その差異は、4つの次元で鮮明に現れた。

第1の次元:出発点——目標か手段か

MBA学生は、まず「この製品の市場はどこか」「ターゲット顧客は誰か」という目標の設定から思考を開始した。教科書通りのSTPモデル——セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング——に忠実に従い、市場を人口統計的・心理的・行動的基準で細分化しようとした。

熟達起業家は、市場細分化をほとんど行わなかった。彼らの発話に繰り返し現れたのは、「自分が何者か(Who I am)」「何を知っているか(What I know)」「誰を知っているか(Whom I know)」という3つの手段の確認であった(Sarasvathy, 2001, p. 245)。「知り合いの教育関係者にまず聞いてみる」「自分のネットワークにいる学校経営者に持っていく」——市場を分析するのではなく、手持ちの手段から行動可能な一歩目を構想するのが彼らの出発点であった。

第2の次元:リスク評価——期待リターンか許容可能な損失か

MBA学生は市場規模を推定し、シェアを仮定し、リスク調整後の期待リターンが最大になる選択肢を選ぶという意思決定を行った。NPV(正味現在価値)やIRR(内部収益率)といったファイナンス理論のフレームワークが、彼らの思考の骨格を形成していた。

熟達起業家は、リターンの予測にほとんど時間を費やさなかった。その代わり、「この事業に投じて失ってもいい金額はいくらまでか」「最悪の場合に何を失うか」という許容可能な損失(Affordable Loss)の計算に時間を使った(Sarasvathy, 2008, pp. 35-50)。ある起業家は「失ってもいいのは○○ドルまで。それ以上は絶対に使わない」と明言した。将来のリターンを「予測」するのではなく、損失の上限を「制御」する——この認知パターンの違いは、不確実性への根本的な向き合い方の差を示している。

第3の次元:競合への態度——敵対か協調か

MBA学生はポーターの5フォース分析に基づき、競合を「脅威」として位置づけ、差別化戦略や参入障壁の構築を論じた。「この製品はどうやって競合に勝つのか」「持続可能な競争優位は何か」——競争的な市場環境を前提とした思考フレームが支配的であった。

熟達起業家は、競合を敵ではなく潜在的パートナーとして捉えた。「彼らと組んで一緒にやったほうが早い」「競合がいるということは市場があるということだ」といった発話が頻繁に見られた(Sarasvathy, 2008, pp. 67-82)。Dew et al.(2009)のコーディング分析でも、熟達起業家はMBA学生と比較してパートナーシップ志向の発話が有意に高い頻度で出現した。これは後にクレイジーキルトの原則として概念化される思考パターンである。

第4の次元:偶発的事象への反応——回避か活用か

実験中、被験者には予期せぬ情報——競合の出現や市場環境の変化——が段階的に提示された。MBA学生はこれらを**「計画を脅かすリスク要因」として認識し、回避策や対応策を講じよう**とした。既存の事業計画をいかに守るかが、彼らの関心事であった。

熟達起業家は、同じ情報を**「事業の方向性を変えうる新しいインプット」として積極的に活用**した。ある起業家は、競合の出現を聞いて「面白い。彼らと組めばもっと大きなことができる」と応答した。目標自体を状況に合わせて変容させることを厭わない柔軟性——これがレモネードの原則の認知的基盤である(Sarasvathy, 2008, pp. 51-66)。

二つのロジックの構造的対比

以下の比較表は、4つの次元における熟達起業家とMBA学生の意思決定パターンの差異を整理したものである。

次元MBA学生(コーゼーション)熟達起業家(エフェクチュエーション)
出発点目標設定 → 最適手段の選択手段の確認 → 可能な行動の構想
リスク評価期待リターンの最大化許容可能な損失の設定
競合への態度脅威として分析・対抗潜在的パートナーとして協調
偶発事象リスクとして回避・対応機会として積極的に活用
市場の捉え方発見・分析の対象創造・構築の対象
未来への姿勢予測できる範囲でコントロールコントロールできる範囲で予測は不要
思考の定量指標コーゼーション的推論が支配的回答時間の75%以上がエフェクチュエーション的推論(63%の被験者)

Sarasvathy(2008, pp. 19-33)によれば、エキスパート起業家の63%以上が回答時間の75%以上をエフェクチュエーション的推論に費やしたのに対し、MBA学生の78%はエフェクチュエーション的推論をまったく使用しなかった。この数値は、両者の間に「程度の違い」ではなく**「質的な断絶」**が存在することを示唆している。

認知科学が示す「熟達」のメカニズム

この実験結果は、認知科学における熟達(expertise)研究の文脈に位置づけることで、より深い理解が可能になる。

パターン認識とチャンキング

チェスの熟達者研究で知られる de Groot(1965)と Chase & Simon(1973)は、グランドマスターが初心者より優れているのは「より多くの手を読むから」ではなく、盤面の構造を意味あるパターンとして瞬時に認識できるからであることを示した。グランドマスターは約50,000のチャンク(意味のある盤面パターン)を長期記憶に蓄積しており、それが直感的な判断の基盤となっている。

熟達起業家も同様の認知メカニズムを持つと考えられる。彼らは15年以上の経験を通じて、「この手段の組み合わせからはこういう展開がありうる」「この種のステークホルダーはこう動く」といったパターンを大量に蓄積している。MBA学生が市場分析のフレームワークを逐次的に適用するのに対し、熟達起業家は状況を直感的にパターンとして認識し、即座に行動可能な選択肢を構想できるのである。

適応的専門性

Hatano & Inagaki(1986)は、専門性を「定型的専門性(routine expertise)」と「適応的専門性(adaptive expertise)」に区別した。定型的専門性とは、既知の手続きを効率的に実行する能力である。適応的専門性とは、新奇な状況に対して既存の知識を柔軟に再構成し、創造的に対応する能力である。

熟達起業家のエフェクチュエーション的思考は、適応的専門性の典型例として理解できる。彼らは固定されたルーティンを適用するのではなく、手持ちの手段を新しい文脈に合わせて再構成する。これに対し、MBA学生のコーゼーション的思考は、教科書で学んだフレームワークの定型的適用——すなわち定型的専門性——にとどまっている。不確実性が高い環境では、定型的な手続きの適用範囲を超える問題が次々と現れるため、適応的専門性が決定的に重要になるのである。

新規事業の実務への3つの示唆

Sarasvathy の実験が明らかにした熟達起業家と初心者の認知的差異は、新規事業に携わる実務者に対して具体的な示唆を提供する。

第一に、「手段の棚卸し」から始める習慣をつけること。新規事業の検討を市場分析や競合調査から始めるのは、MBA的なコーゼーション・ロジックの反射的な適用である。まだ市場が見えない段階では、「自分は何者か」「何を知っているか」「誰を知っているか」を棚卸しし、そこから行動可能な選択肢を構想するほうが生産的である。

第二に、リターン予測よりも損失上限の設定を優先すること。不確実性が高い環境では、将来のリターンを正確に予測することは原理的に不可能である。それよりも、「失っても許容できる金額・時間・評判の範囲」を明確に設定し、その範囲内で実験を繰り返すほうが合理的である。熟達起業家の思考はこの原則に貫かれていた。

第三に、偶然を「計画のノイズ」ではなく「新しいインプット」として扱うこと。MBA的な思考では、予期せぬ出来事は事業計画からの逸脱であり、修正すべき対象である。しかし熟達起業家は、偶然の出来事を事業の方向性を変える契機として積極的に活用していた。事業計画に固執するのではなく、新しい情報に対して目標自体を柔軟に変容させる姿勢が、不確実性の高い環境での行動力につながるのである。

特にこの記事を読むべき人

  • MBA や経営学の知識を持ちながら、新規事業で成果が出ていない人: 問題は知識の不足ではなく、思考のロジックにある可能性がある。コーゼーションからエフェクチュエーションへの認知的転換が突破口になりうる
  • 新規事業部門のマネージャーとして、メンバーの意思決定の質を上げたい人: 「正しい分析」を求めるのではなく、「手段から始める」思考習慣をチームに導入することで、行動のスピードが変わる
  • 起業家認知研究に関心のある大学院生・研究者: Sarasvathy(2001; 2008)とDew et al.(2009)の方法論的詳細を理解することで、エフェクチュエーション理論の実証的基盤を正確に評価できる
  • 起業家教育のプログラム設計に携わる教育者: 熟達起業家の認知パターンを教育に実装するためには、何を教えるかだけでなく、どのような思考習慣を訓練するかの設計が不可欠である

今日から変えられること:意思決定の「起点」を切り替える

Sarasvathy の研究が示した最も重要な知見は、熟達した起業家が特別な予見力や天賦の才能を持っていたのではなく、特定の認知パターンを一貫して使っていたということである。そしてこの認知パターンは、学習可能である(Sarasvathy, 2008, Chapter 1)。

次に新しいプロジェクトや事業アイデアに取り組む際、意識的に問いの立て方を変えてみてほしい。「この市場はどれくらいの規模か」ではなく、**「自分が今持っている手段で、明日できる最小の行動は何か」と問う。「最大のリターンが見込める市場はどこか」ではなく、「失っても許容できる範囲で、最初に試せることは何か」**と問う。意思決定の「起点」を目標から手段に切り替えること——それが、熟達した起業家の思考に近づく第一歩である。

関連記事として「Sarasvathyの原典研究」「プロトコル分析法と起業家認知研究」も参照されたい。


引用・参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243-263.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Dew, N., Read, S., Sarasvathy, S. D., & Wiltbank, R. (2009). Effectual versus predictive logics in entrepreneurial decision-making: Differences between experts and novices. Journal of Business Venturing, 24(4), 287-309.
  • Ericsson, K. A., & Simon, H. A. (1993). Protocol Analysis: Verbal Reports as Data (Rev. ed.). MIT Press.
  • Ericsson, K. A., Krampe, R. T., & Tesch-Romer, C. (1993). The role of deliberate practice in the acquisition of expert performance. Psychological Review, 100(3), 363-406.
  • Simon, H. A. (1996). The Sciences of the Artificial (3rd ed.). MIT Press.
  • Chase, W. G., & Simon, H. A. (1973). Perception in chess. Cognitive Psychology, 4(1), 55-81.
  • de Groot, A. D. (1965). Thought and Choice in Chess. Mouton.
  • Hatano, G., & Inagaki, K. (1986). Two courses of expertise. In H. Stevenson, H. Azuma, & K. Hakuta (Eds.), Child Development and Education in Japan (pp. 262-272). W.H. Freeman.

参考書籍

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