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サラスバシーの原研究——27名の熟達した起業家が明かした意思決定の深層構造

エフェクチュエーション理論の基盤となったSaras Sarasvathyの博士論文研究を詳解。Think-aloud protocol実験の設計、被験者27名の選定基準、Venturing課題の全貌、そして5つの原則がデータから帰納的に導出されたプロセスを解明する。

約24分
目次

なぜ起業家の思考プロセスは解明されてこなかったのか

起業家研究は長い歴史を持つにもかかわらず、「起業家は実際にどのように考えているのか」という問いに対して、説得力のある答えを出せずにいた。1980年代から90年代にかけて支配的だった特性論(trait approach)は、起業家に共通する性格特性——リスク許容度の高さ、達成動機、内的統制の所在——を特定しようとした。しかし、Gartner(1988)が指摘したように、特性論は起業家と非起業家を統計的に区別できないという根本的な限界に直面していた。起業家は「どういう人か」ではなく「何をするか」で理解されるべきだという批判は、研究の方向転換を促したものの、新たな方法論的課題を生んだのである。

問題の核心は、研究方法そのものにあった。起業家研究の大半は回顧的インタビューに依拠していた。成功した起業家に過去の意思決定を振り返ってもらう手法である。しかし、この方法には深刻な欠陥がある。まず、後知恵バイアス(hindsight bias)の問題がある。結果を知った上で過去を語るとき、人は無意識に「最初からそうするつもりだった」という一貫したナラティブを構築してしまう。偶然の出会いは「戦略的提携」に、予期せぬ失敗は「学びの機会」に書き換えられる。次に、生存者バイアス(survivorship bias)がある。インタビュー対象は成功した起業家に偏り、同じ行動をとりながら失敗した人々の声は拾われない。これでは「成功の秘訣」ではなく「成功者の事後的合理化」を記録しているにすぎない。さらに、「起業家は生まれるのか、育てられるのか」という不毛な二項対立が研究の進展を妨げていた。この問いは検証不可能であるだけでなく、起業家の行動を理解するという本質的な目標から研究者の注意を逸らしていたのである(Sarasvathy, 2008, pp. 3-5)。

認知科学の手法で切り込んだSarasvathyの着想

こうした行き詰まりの中で、まったく異なるアプローチを着想した研究者がいた。インド出身の Saras D. Sarasvathy である。Sarasvathy がカーネギーメロン大学の博士課程に在籍していたことは、この研究の誕生において決定的な意味を持つ。同大学は、ノーベル経済学賞受賞者 Herbert A. Simon が知的基盤を築いた「意思決定科学の聖地」であった。Simon は、人間が完全な合理性のもとで最適化を行うという新古典派経済学の仮定を退け、認知的制約のもとで「満足化(satisficing)」を行うという限定合理性(bounded rationality)の概念を提唱した(Simon, 1996)。さらに重要なのは、Simon が人工知能研究の文脈で発展させたプロトコル分析(protocol analysis)の方法論である。これは、被験者に課題を遂行しながら頭の中で考えていることをそのまま声に出してもらい(think-aloud protocol)、その言語データを分析することで認知プロセスを解明する手法である(Ericsson & Simon, 1993)。

Sarasvathy の着想は、二つの知的伝統を結合するものであった。第一に、起業を「学習可能な専門性(learnable expertise)」として捉え直すこと。チェスの名人、医師の診断、科学者の発見——認知科学はこれらの領域で、初心者と専門家の思考パターンの質的差異を明らかにしてきた。起業も同様に、経験を通じて獲得される専門的な認知スキルとして研究できるのではないか。第二に、回顧的インタビューではなく、リアルタイムの思考プロセスをプロトコル分析で捕捉すること。起業家に「過去に何をしたか」を尋ねるのではなく、「今ここで何をどう考えるか」を観察する。この方法論的転換は、後知恵バイアスの問題を根本から解消するものであった。筆者自身、この研究設計の巧みさを初めて知ったとき、社会科学において方法論が理論を生み出す瞬間を目撃した思いであった。従来の起業家研究が「望遠鏡で過去を覗く」ものだったとすれば、Sarasvathy の手法は「顕微鏡で思考を観察する」ものであったといえよう。

被験者の選定基準——エキスパートの定義

Sarasvathy の実験設計において、被験者の選定基準は理論的に極めて重要な位置を占める。認知科学のエキスパート研究では、「何をもって専門家とみなすか」の定義がそのまま研究の妥当性を決定するからである。Sarasvathy は、エキスパート起業家を以下の5つの厳格な基準で選定した(Sarasvathy, 2008, pp. 6-7)。

第一に、起業家としてのフルタイムの経験が15年以上であること。これは Ericsson, Krampe, & Tesch-Romer(1993)の「熟達に10年以上の意図的練習を要する」という知見に基づく。第二に、複数の企業を創業した経験を持つこと。一社のみの成功は偶然の可能性を排除できないため、複数回の創業経験が求められた。第三に、成功と失敗の両方を経験していること。成功しか経験していない起業家は、リスクや不確実性に対する認知が偏っている可能性がある。第四に、少なくとも一社をIPO(株式公開)に導いた実績があること。これは起業家としての卓越性の客観的指標である。第五に、創業した企業の年商が2億ドルから65億ドルの範囲にあること。この基準によって、いわゆるライフスタイルビジネスではなく、スケーラブルなベンチャーを創造した起業家が選ばれた。

この5つの基準を満たす27名のエキスパート起業家が、Sarasvathy の実験に参加した。一方で、対照群としてMBA学生37名が選定された。MBA学生の97%は米国人であり、87%は企業の創業経験を持たなかった。残りの13%も、小規模な事業を短期間運営した程度であった。この「エキスパート対ノービス」の対比構造は、認知科学のエキスパート研究の標準的な設計に倣ったものである。チェスのグランドマスターと初心者の思考を比較するように、熟達した起業家とビジネス教育を受けたばかりの学生の認知パターンの差異を浮き彫りにする意図があった。

Venturing実験の全貌——架空の製品で真の思考を引き出す

実験で使用された課題は、「Venturing」と名付けられたものである。被験者には、架空のビジネスアイデア——アントレプレナーシップ教育のためのコンピュータ・ゲーム——が提示された。この製品は実在しないため、被験者の業界固有の知識や過去の成功体験に依拠した回答を防ぐことができる。すべての被験者が同一のスタートラインに立つ設計であり、「何を知っているか」ではなく「どのように考えるか」を純粋に測定できるよう工夫されていた(Sarasvathy, 2001, Academy of Management Proceedings)。

Venturing 課題は10の意思決定問題で構成されていた。第一に、市場の特定——この製品を誰に売るか、ターゲット市場をどう定義するか。第二に、競合分析——競合他社をどう捉え、どう対処するか。第三に、情報探索——意思決定のためにどのような情報を求めるか。第四に、市場調査手法——市場の需要をどう把握するか。第五に、成長予測——事業の将来像をどう描くか。第六に、マーケティング——製品をどう市場に届けるか。第七に、オペレーション——事業運営をどう組み立てるか。第八に、資金調達——必要な資金をどう確保するか。第九に、組織構築——チームやガバナンスをどう設計するか。そして第十に、出口戦略——最終的にこの事業をどうするか。各問題に対して、被験者は思考発話法(think-aloud protocol)に従い、頭の中で考えていることをそのまま声に出しながら回答した。

思考発話法の実施にあたっては、Ericsson & Simon(1993)の厳密な手続きが踏まれた。被験者にはまず練習問題が与えられ、声に出して考えることに慣れてもらった。実験者は「もう少し声に出して考えてください」といった最小限のプロンプトのみを使用し、被験者の思考プロセスに介入しないよう注意が払われた。発話はすべて録音・書き起こされ、定量的・定性的の両面から分析された。

定量的・定性的結果——二つの思考世界の発見

分析結果は、驚くほど鮮明なパターンを示した。エキスパート起業家の63%以上が、回答時間の75%以上をエフェクチュエーション的推論に費やしていた。すなわち、手元の手段から出発し、許容可能な損失を計算し、パートナーシップを通じて機会を形成するという思考パターンが支配的であった。一方、MBA学生の78%は、エフェクチュエーション的推論をまったく使用しなかった。彼らの回答は、目標設定、市場分析、リターン最大化というMBAのカリキュラムで教わるコーゼーション的推論に支配されていたのである(Sarasvathy, 2008, pp. 19-33)。

市場アプローチにおける差異はとくに顕著であった。MBA学生は、教科書通りのSTPモデル——Segmentation、Targeting、Positioning——に従って回答した。まず市場を人口統計的、心理的、行動的基準で細分化し、最も魅力的なセグメントを選び、そこでのポジショニング戦略を策定するのである。これに対し、エキスパート起業家の多くは市場細分化を行わなかった。彼らは「知り合いの教育関係者に直接聞いてみる」「自分の知っている学校に持っていく」など、既存の人脈やネットワークを通じた直接的な行動を提案した。市場を分析するのではなく、市場を創るという姿勢であった。

競合に対するアプローチも根本的に異なっていた。MBA学生はポーターの5フォース分析に基づき、競合を「脅威」として位置づけ、差別化や参入障壁の構築を論じた。エキスパート起業家は、競合を敵ではなく潜在的なパートナーとして捉えた。「彼らと組んで一緒にやったほうが早い」「競合がいるということは市場があるということだ」といった発話が多く見られた。敵対ではなく協調——この差異は、後にクレイジーキルトの原則として概念化されることになる。

リスクへのアプローチにおいても、二つのグループは対照的であった。MBA学生は期待リターンの最大化を基準に意思決定していた。彼らは市場規模を推定し、シェアを仮定し、収益予測を行い、リスク調整後のリターンが最大になる選択肢を選んだ。エキスパート起業家は、リターンの予測をほとんど行わなかった。その代わり、「最悪の場合に何を失うか」「その損失に耐えられるか」を基準に判断した。ある起業家は「この事業に投じて失ってもいい金額は○○ドルまで。それ以上は使わない」と明言した。この「許容可能な損失(affordable loss)」の思考は、リスクを確率で計算するのではなく、損失の上限を設定するという質的に異なるアプローチであった。

5つの原則の帰納的導出プロセス——データが語る理論

エフェクチュエーションの5つの原則は、先行理論から演繹されたものではない27名のエキスパート起業家の発話データから帰納的に導出されたものである。この帰納的プロセスの理解は、エフェクチュエーション理論の科学的根拠を正しく評価する上で不可欠である。

手中の鳥の原則(Bird in Hand) は、起業家の発話に繰り返し現れた3つのカテゴリから抽出された。“Who I am”——「私はこういう人間だから、この分野で始める」という自己のアイデンティティに基づく発話。“What I know”——「私はこの業界を知っているから、ここにチャンスが見える」という知識や経験に基づく発話。“Whom I know”——「知り合いの○○に声をかければ、すぐに動ける」という人脈に基づく発話。これらの発話は、与えられた手段から可能な行動を構想するという共通の思考構造を示しており、目標から手段を逆算するコーゼーション的推論とは対極に位置していた(Sarasvathy, 2008, pp. 15-16)。

許容可能な損失の原則(Affordable Loss) は、前述のとおり、リスクに対する発話パターンから導出された。エキスパート起業家は期待リターンの推定にほとんど時間を費やさず、代わりに「失ってもいい金額」「費やしてもいい時間」「辞めてもいい仕事」といった損失の上限を設定していた。これは、不確実性が高く将来の予測が困難な環境においては、リターンの予測よりも損失の制御のほうが合理的であるという認知的判断に基づいている(Sarasvathy, 2008, pp. 35-50)。

クレイジーキルトの原則(Crazy Quilt) は、パートナーシップに関する発話パターンから抽出された。起業家たちは、競合分析に時間を費やすのではなく、早期にコミットメントしてくれるステークホルダーを見つけ、彼らのリソースや知識を事業に取り込むことを重視していた。パッチワークのキルトのように、各パートナーが持ち寄る「布切れ」が全体のデザインを形作っていく。事業の最終形態は事前に決まっているのではなく、参加するパートナーによって共同的に構成されるのである(Sarasvathy, 2008, pp. 67-82)。

レモネードの原則(Lemonade) は、偶発的事象に対する起業家の反応パターンから概念化された。実験中、被験者にはいくつかの予期せぬ情報——競合の出現、市場の変化——が提示された。MBA学生はこれらを「脅威」として回避策を講じようとしたのに対し、エキスパート起業家はこれらを「新しいインプット」として積極的に活用する姿勢を見せた。「人生がレモンをくれたら、レモネードを作ればいい」という格言が示すように、不測の事態を単なるリスクとしてではなく、事業の方向を転換し得るポジティブな契機として捉えていたのである(Sarasvathy, 2008, pp. 51-66)。

飛行機のパイロットの原則(Pilot in the Plane) は、以上の4つの原則を包含するメタ原則として位置づけられる。コーゼーション的推論の根底にあるのは「予測できる限りコントロールできる(To the extent that we can predict the future, we can control it)」という前提である。エフェクチュエーション的推論はこれを反転させ、「コントロールできる限り予測する必要はない(To the extent that we can control the future, we do not need to predict it)」と考える。起業家は環境に翻弄される乗客ではなく、操縦桿を握るパイロットである。未来は与えられるものではなく、自らの行動と他者との相互作用を通じて創造するものである(Sarasvathy, 2001, p. 252)。

2001年論文から2008年著書への理論の発展

エフェクチュエーション理論は、一夜にして完成したものではない。その発展過程を追うことで、理論の成熟と精緻化の軌跡が見えてくる。

2001年に Academy of Management Review に掲載された論文は、理論の最初の体系的な提示であった。この論文では、エフェクチュエーションとコーゼーションが4つの対比軸——手段 vs 目標の起点、許容可能な損失 vs 期待リターン、パートナーシップ vs 競争分析、偶然の活用 vs 偶然の回避——で対照的に論じられた(Sarasvathy, 2001, pp. 245-253)。しかし、この時点では5つの原則に明確な名称は与えられておらず、理論はまだ「対比の枠組み」にとどまっていた

2001年の Academy of Management Proceedings に収録された “Effectual Reasoning in Entrepreneurial Decision Making: Existence and Bounds” は、実験の定量的結果をより詳細に報告し、エフェクチュエーション的推論の「存在」とその「境界条件」を論じた。この報告は、エフェクチュエーションが単なる概念的提案ではなく、実証的基盤を持つ理論であることを学術コミュニティに示す上で重要な役割を果たした。

2008年に出版された著書 Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise は、理論の集大成である。ここで初めて5つの原則に明確な名称が与えられた。また、原則の静的な列挙にとどまらず、エフェクチュエーション・サイクルという動的プロセスモデルが提示された。手段の確認から始まり、パートナーの獲得、手段の拡大、目標の収束という循環的プロセスが、新しい市場や企業の創造に至るまでのダイナミクスを描写している(Sarasvathy, 2008, Chapter 9)。さらに、同著書ではコーゼーションとの関係が「対立」ではなく「補完」として再定義され、不確実性の程度や事業のステージに応じて両者を使い分けるべきであるという見解が明示された。この理論的成熟は、エフェクチュエーションが特定の状況下での規範理論(normative theory)ではなく、起業家の認知に関する記述理論(descriptive theory)であるという自己認識にも支えられている。

この原研究から学べること——方法論的意義と実践への示唆

Sarasvathy の原研究が持つ意義は、エフェクチュエーション理論そのものだけにとどまらない。研究方法論の観点からも、重要な先例を示している。第一に、回顧的インタビューへの過度な依存から脱却し、リアルタイムの認知プロセスを捕捉する手法を起業家研究に導入した。この方法論的革新によって、後知恵バイアスや生存者バイアスの問題が構造的に解消された。第二に、起業を「個人の特性」ではなく「学習可能な専門性」として位置づけ直した。このパラダイム転換は、起業家教育の理論的正当性を提供するものであり、「起業家は生まれるのか育てられるのか」という不毛な問いを「起業家的専門性はどのように獲得されるのか」という生産的な問いに転換した。

実践者にとっての示唆も深い。Sarasvathy の研究が明らかにしたのは、熟達した起業家が特別な予見力や天賦の才能を持っていたのではなく、特定の思考パターンを一貫して使っていたということである。この思考パターンは学習可能である。つまり、適切なトレーニングと実践を通じて、誰もがエフェクチュエーション的な意思決定を身につけることができるのである。

このことは、新規事業に携わるビジネスパーソン、スタートアップの創業者、あるいは不確実な状況下でキャリアの転換を考えている個人にとって、大きな希望を与えるものである。必要なのは特別な才能ではなく、「今、自分が持っているものは何か」を見つめ直し、そこから小さな一歩を踏み出す勇気である。Sarasvathy の原研究——27名のエキスパート起業家の発話データから帰納的に導出された5つの原則——は、その一歩を踏み出すための知的な道標として、今なお色褪せることのない価値を持ち続けている。

関連記事として「エフェクチュエーションとは何か」「プロトコル分析法と起業家認知研究」も参照されたい。原研究から発展した「起業家的方法」論としての理論的拡張は「『起業家的方法』論——Sarasvathy & Venkataraman(2011)が問い直した起業家教育の前提」で詳しく解説している。また、原研究の実証的課題を体系的に整理した文献レビューとしては「エフェクチュエーション研究の地図——Perry・Chandler・Markova(2012)文献レビューの解読」が有用である。


引用・参考文献

  • Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
  • Sarasvathy, S. D. (2001). Effectual reasoning in entrepreneurial decision making: Existence and bounds. Academy of Management Proceedings, 2001(1), D1–D6.
  • Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
  • Ericsson, K. A., & Simon, H. A. (1993). Protocol Analysis: Verbal Reports as Data (Rev. ed.). MIT Press.
  • Simon, H. A. (1996). The Sciences of the Artificial (3rd ed.). MIT Press.
  • Gartner, W. B. (1988). “Who is an entrepreneur?” is the wrong question. American Journal of Small Business, 12(4), 11–32.
  • Ericsson, K. A., Krampe, R. T., & Tesch-Romer, C. (1993). The role of deliberate practice in the acquisition of expert performance. Psychological Review, 100(3), 363–406.

参考書籍

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