目次
導入——三度の「市場の再定義」
企業の歴史において、業界の構造を一度変えるだけでも偉業である。Netflix はDVDレンタル、動画ストリーミング、オリジナルコンテンツ制作と、三度にわたってエンターテインメント産業の構造を変革した。
注目すべきは、これらの変革が市場予測に基づくものではなかったことである。各段階において、Netflix は自らの行動で市場の定義そのものを書き換えた。エフェクチュエーション理論の「飛行機のパイロット」原則——未来を予測するのではなく、コントロールする——が、Netflix の連続的変革を貫く一本の糸である。
企業・人物の概要——延滞金40ドルから始まった革命
Reed Hastings は1960年生まれ、スタンフォード大学でコンピュータサイエンスの修士号を取得した。最初の起業である Pure Software を1997年に売却した後、映像レンタル業界への参入を決めた。
有名な逸話として、Hastings が Blockbuster で借りた映画『Apollo 13』の延滞金40ドルに憤慨したことが Netflix 創業のきっかけとされる(本人は後にこの話を「神話化された」と認めている)。実際には、共同創業者の Marc Randolph と共に、DVDという新しいメディアの郵送可能性(薄くて軽い)に着目し、1997年に Netflix を設立した。
当時、映像レンタル市場は Blockbuster が圧倒的な支配者であり、全米に9,000店舗以上を展開していた。Netflix がこの巨人を倒す未来を「予測」した人間は皆無であった。
イノベーションの経緯——三段階の市場創造
第一段階:サブスクリプションモデルの発明
Netflix は当初、DVDを一枚ずつオンラインで注文し、郵送で受け取る仕組みであった。しかし1999年、月額定額制(サブスクリプション)で借り放題というモデルを導入した。
これは当時の映像レンタル業界には存在しなかった概念である。Blockbuster のビジネスモデルは延滞金が収益の大きな柱であった。Netflix は延滞金という「業界の常識」を廃止し、顧客体験を根本から変える行動に出た。市場調査の結果ではなく、Hastings 自身が感じた不合理さを解消する行動であった。
第二段階:ストリーミングへの転換
2007年、Netflix は動画ストリーミングサービスを開始した。当時のブロードバンド普及率と回線速度を考えれば、「時期尚早」という判断が合理的であった。実際、初期のストリーミングライブラリはDVDカタログの何分の一かであり、画質も低かった。
しかし Hastings は、ストリーミングが「将来いつか主流になる」のを待つのではなく、自らの行動でストリーミング市場を形成した。DVDレンタルが好調な時期にストリーミングへの投資を加速させるという判断は、既存事業のカニバリゼーション(自食い)を恐れない姿勢の表れであった。
第三段階:コンテンツ制作への進出
2013年、Netflix は自社制作ドラマ『House of Cards』を全話同時配信した。ハリウッドのスタジオが「コンテンツ制作」を、テクノロジー企業が「配信」を担うという業界の分業構造を、Netflix は自ら破壊した。
全話同時配信という手法も業界に存在しなかった。視聴者の「ビンジウォッチング(一気見)」という新しい消費行動を、Netflix が市場に導入したのである。従来のテレビの「毎週1話放送」というフォーマットは、予測に基づく配信戦略であった。Netflix は自ら新しい視聴体験を定義することで、予測を不要にした。
既存企業の対応遅れ
Blockbuster は2010年に破産した。Netflix のストリーミングが急成長する中、Blockbuster は店舗型ビジネスモデルを守ろうとし、環境の変化に受動的に対応しようとした。一方 Netflix は常に自らの行動で環境を変える側に立ち続けた。この対比は「飛行機のパイロット」原則の有効性を鮮明に示している。
エフェクチュエーション原則の分析——「飛行機のパイロット」の連続適用
未来を「作る」ことの連続性
Sarasvathy(2008)は「飛行機のパイロット」原則を、「未来はコントロールできる範囲において予測する必要がない」と要約している(Sarasvathy, 2008, p. 91)。Netflix の事例が特異なのは、この原則が一度ではなく三度にわたって適用されたことである。
DVDサブスクリプション → ストリーミング → コンテンツ制作。各段階で、Netflix は既存市場を分析して最適な戦略を選んだのではなく、自らの行動で新しい市場を創出した。
自己カニバリゼーションとコントロール
Sarasvathy(2001)は、エフェクチュエーション的起業家が**「自らの行動で環境を形成するため、予測に頼る必要がない」**と指摘する(Sarasvathy, 2001, p. 252)。Netflix がDVD事業の成功を「守る」のではなくストリーミングに移行した判断は、自社の未来を自らコントロールする意思の表明であった。
DVDレンタルの市場がいつ縮小するかを「予測」するのではなく、自らストリーミングを推進することで、市場変化のタイミングと方向をコントロールした。
消費行動の設計
全話同時配信、レコメンデーションアルゴリズム、プロフィール機能——Netflix は視聴者の行動パターンそのものを設計した。Sarasvathy(2008)の表現を借りれば、Netflix は**「市場を発見した」のではなく「市場を構成した」**のである(Sarasvathy, 2008, p. 92)。
因果論との対比
因果論的に映像配信事業を始めるなら、市場規模予測、技術的成熟度の評価、競合分析を経て、「最適なタイミング」で参入するだろう。Netflix は**「最適なタイミング」を待つのではなく、自らの参入によってタイミングを決定した**。2007年のストリーミング開始は、技術的に見れば「早すぎた」が、Netflix はその「早さ」を利用して市場を独占する先行者優位を構築したのである。
実務への示唆——自社の成功を「破壊」する覚悟
Netflix の事例が示す教訓は三つある。第一に、自社の成功モデルを自ら破壊する覚悟が市場創造の前提である。DVDレンタルが好調なときにストリーミングに移行する判断は、既存事業への執着を断ち切ったからこそ可能であった。飛行機のパイロットは、晴天のルートに固執せず、新しい航路を切り拓く。
第二に、「市場の準備が整っていない」は行動しない理由にならない。ストリーミングの技術基盤が未成熟な段階で参入し、市場とともに基盤を育てた。未来を作る側に立つなら、完璧な条件を待つ必要はない。
第三に、**連続的な市場創造を可能にするのは「学習の蓄積」**である。DVDサブスクリプションで培った顧客理解とデータ活用能力が、ストリーミングのレコメンデーション、さらにはコンテンツ制作の意思決定に活かされた。
「飛行機のパイロットの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Hastings, R., & Meyer, E. (2020). No Rules Rules: Netflix and the Culture of Reinvention. Penguin Press.
- Keating, G. (2012). Netflixed: The Epic Battle for America’s Eyeballs. Portfolio.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.