目次
導入——存在しなかった「カフェで過ごす時間」という市場
1980年代の米国において、コーヒーは家庭で淹れるか、ダイナーで飲む安価な飲み物であった。「一杯3ドルのコーヒーを、くつろげる空間で飲む」という文化は米国には存在しなかった。
Howard Schultz はこの「存在しない市場」を予測によって発見したのではない。自らの行動によって市場そのものを創り出した。エフェクチュエーション理論における「飛行機のパイロット(Pilot in the Plane)」原則——未来を予測するのではなく、自らの手で未来を形成する——の実践例として、Starbucks の軌跡は示唆に富む。
企業・人物の概要——ブルックリンの公営住宅から
Howard Schultz は1953年、ニューヨーク・ブルックリンの公営住宅で育った。大学卒業後、Xerox のセールス職を経てスウェーデンの家庭用品メーカー Hammarplast に転職した。
1981年、Schultz は Hammarplast の顧客であるシアトルの小さなコーヒー豆販売店「Starbucks」に興味を持つ。ドリップフィルターを大量に購入している小さな店舗が気になり、訪問したことが転機となった。当時の Starbucks はコーヒー豆と器具を販売する専門店であり、店内でコーヒーを飲むサービスは提供していなかった。
1982年に Starbucks のマーケティング責任者として入社した Schultz は、1983年のミラノ出張でイタリアのエスプレッソバー文化に衝撃を受ける。バリスタと客の会話、立ち飲みの気軽さ、街角のカフェが果たすコミュニティの役割——Schultz はこの体験を米国に持ち込もうと決意した。
イノベーションの経緯——「サードプレイス」の発明
創業者たちの反対と独立
ミラノから帰国した Schultz は、Starbucks の創業者 Jerry Baldwin と Gordon Bowker にエスプレッソバー展開を提案した。しかし二人は**「Starbucks はコーヒー豆の販売店であり、レストラン事業には入らない」**と拒否した。
1985年、Schultz は Starbucks を離れ、自らのカフェ「Il Giornale」を開業する。イタリア式のエスプレッソバーをシアトルに再現する実験であった。重要なのは、Schultz が大規模な市場調査を行ったのではなく、ミラノでの自身の体験を信じて行動に移したことである。
試行錯誤による「体験」の設計
Il Giornale の初期店舗は完全なイタリア式であった。BGM はオペラ、メニューはイタリア語、椅子はなく立ち飲みスタイル。しかし米国の顧客は座ってくつろぎたがり、英語のメニューを求めた。
Schultz は顧客の反応を見ながら体験を再設計した。ソファを導入し、メニューを英語に変え、BGM をジャズに変更した。イタリア文化の直輸入ではなく、**米国の文脈に合わせた「第三の場所(サードプレイス)」**という新しいコンセプトが生まれた。これは市場調査から導かれたものではなく、実際の行動と修正の繰り返しから生まれた。
買収と全米展開
1987年、Schultz は投資家から380万ドルを調達し、Starbucks を創業者から買収した。Il Giornale の店舗を Starbucks ブランドに統合し、本格的な全米展開を開始した。
1992年の IPO 時点で165店舗。既存のコーヒー市場のシェアを奪ったのではなく、「カフェで過ごす時間にお金を払う」という新しい市場を創造した。Starbucks 以前、米国には3ドルのラテを提供するチェーンは存在しなかったのである。
文化の創造
Starbucks が形成したのは単なるコーヒービジネスではない。「トール」「グランデ」「ベンティ」というサイズ表記、カスタマイズ注文の文化、Wi-Fi完備のワークスペース——これらは全て Starbucks が市場に導入した新しい消費体験であった。Schultz は既存市場のニーズに応えたのではなく、消費者が求めていることすら知らなかった体験を創出した。
エフェクチュエーション原則の分析——「飛行機のパイロット」の実践
予測不能な市場を「作る」
Sarasvathy(2008)は「飛行機のパイロット」原則を、**「コントロール可能な活動に集中することで、予測の必要性を減らす」**と定義している(Sarasvathy, 2008, p. 91)。Schultz がミラノで見たカフェ文化を米国に移植しようとした時、市場データは「米国人は高いコーヒーに金を払わない」と示唆していた。
しかし Schultz は市場予測に従わず、自らの行動で市場を創った。予測が当たるかどうかではなく、自分の行動によって結果をコントロールできるかどうかが判断基準であった。
体験の創造と環境形成
Sarasvathy(2001)は、エフェクチュエーション的起業家が**「環境を所与とせず、自らの行動によって環境を変える」**ことを強調している(Sarasvathy, 2001, p. 252)。Schultz は米国のコーヒー消費文化という「環境」を所与として受け入れなかった。
Il Giornale での実験を通じて、イタリア文化と米国文化のハイブリッドである「サードプレイス」を発明した。これは既存の文化を分析した結果ではなく、行動の中から生まれた新しい環境である。
段階的な未来の形成
Schultz の戦略は一気に全米展開を狙うものではなかった。シアトルでの Il Giornale → Starbucks 買収 → 西海岸展開 → 全米 → グローバルと、コントロール可能な範囲を段階的に広げた。各段階での学習が次の段階の行動を形成するという、エフェクチュエーション的な拡張プロセスである。
因果論との対比
因果論的に「カフェ事業」を始めるなら、米国のコーヒー消費動向、外食産業の市場規模、ターゲット層の可処分所得などを分析するだろう。しかし**「存在しない市場」の規模は測定できない**。Schultz はデータが存在しない領域において、自らの行動で未来を作るという選択をした。
実務への示唆——「文化を変える」という視座
Starbucks の事例から得られる教訓は三つある。第一に、「消費者が求めていないもの」にこそ市場創造の機会がある。市場調査は既存の嗜好を測定するが、まだ存在しない体験への需要は測定できない。飛行機のパイロットは、目的地が地図にあるかどうかではなく、自らの操縦で到達できるかどうかで判断する。
第二に、異文化の「翻訳」は強力な市場創造手法である。Schultz はイタリア文化をそのまま輸入したのではなく、米国の文脈に合わせて再設計した。異なる環境で機能するものを自国に適応させるプロセスは、新市場を創造する有効な手段となる。
第三に、最初の形態に固執しない。Il Giornale のイタリア式スタイルは顧客の反応を見て大幅に修正された。未来を「作る」ことと、最初の計画に固執することは異なる。操縦桿を握りながらも、風向きに合わせて舵を切る柔軟性が不可欠である。
「クレイジーキルトの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Schultz, H., & Gordon, J. (2011). Onward: How Starbucks Fought for Its Life without Losing Its Soul. Rodale Books.
- Schultz, H., & Yang, D. J. (1997). Pour Your Heart into It: How Starbucks Built a Company One Cup at a Time. Hyperion.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.