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「市場を調べてからビジネスプランを書け」という指示が機能しない理由
大学発ベンチャーを支援する人間なら、この場面に見覚えがあるはずだ。TLO(技術移転機関)のコーディネーターが、研究者に向かって「まず市場規模を調べて、競合を整理して、ビジネスプランを書いてください」と伝える。研究者は戸惑いながら、自分の技術が「いくら稼げるか」を逆算しようとする。しかし市場はまだ存在しない。競合の定義も曖昧だ。書き上がったビジネスプランは、投資家に提出した翌年には根本的に書き直しになる。
このプロセスはコーゼーション(Causation)的思考の典型である。Sarasvathy(2001)が熟達した起業家27名のプロトコル分析から示したように、コーゼーションは「明確な目標を先に設定し、最適な手段を調達する」という論理で動く(p. 244)。市場が既知であり、競合構造が確立されている状況では機能する。しかし大学発スピンアウトが直面する状況は、目標市場が不明確で、顧客が自分たちのニーズを言語化できておらず、技術の用途さえ研究者自身が確信を持てない——Sarasvathy(2001)の言うナイト的不確実性(Knightian uncertainty)が支配する環境である(p. 250)。
本稿では、この状況に対してエフェクチュエーションの5原則を適用し、大学発スピンアウトが技術シーズから事業を立ち上げるための思考フレームを提示する。
なぜ大学発スピンアウトはエフェクチュエーションと親和性が高いのか
大学発スピンアウトとディープテックスタートアップは一部重なるが、前者には固有の文脈がある。TLOや産学連携本部という制度的インフラの存在、知財(特許・実施権)の帰属問題、研究者が大学籍を維持したまま起業するケース、国立大学法人としての資源制約——これらが、大学発スピンアウト特有の環境を形成している。
Sarasvathy(2008, pp. 15–17)が定義する手中の鳥(Bird-in-Hand)原則の出発点は「Who I am / What I know / Whom I know」という3つの手段カテゴリーである。研究者にとって、この3カテゴリーは驚くほど豊かだ。
Who I am としての研究者のアイデンティティは、特定の技術領域における10年以上の専門的訓練、国際学術コミュニティでの評判、特定の問題群への深い関心として具現化している。What I know としての技術的知識は、論文・特許・実験ノウハウ・独自データセット・研究インフラへのアクセスとして存在する。Whom I know としての学術ネットワークは、共著者・指導学生・共同研究先の産業パートナー・学会人脈として広がる。
この「手持ちの手段の豊かさ」こそ、大学発スピンアウトの強みであると同時に、見過ごされがちな起点である。多くの研究者が「自分には資金も経営経験もない」と感じて商業化に躊躇するが、エフェクチュエーション的に見れば、彼らは既に極めて価値の高い手段の束を持っている。
手中の鳥:技術シーズを「手段」として扱う
コーゼーション的な技術移転の標準的なフローは「技術開発→特許出願→市場調査→ライセンス先探索 or スピンアウト設立」という順序で描かれる。エフェクチュエーション的な出発点は異なる。
問いは「この技術は何ができるか」ではなく「この技術を持つ研究者の手段全体で、誰の問題を解決できるか」である。
PKSHA Technology(現:東京証券取引所プライム市場上場)は、東京大学の松尾豊研究室での機械学習研究を起点に、2012年に上野山勝也氏が設立した。同社の初期の事業は、特定の機械学習アルゴリズムの「市場」を探すのではなく、研究室が蓄積した自然言語処理・機械学習の技術知識(What I know)と産業界のネットワーク(Whom I know)を起点に、顧客が抱える具体的な課題に応じてソリューションを共創するものだった。
Preferred Networks(PFN)は、東京大学・京都大学等出身の研究者が2014年に設立した深層学習のスタートアップである。同社の初期の戦略は、深層学習技術の「市場規模を計算すること」ではなく、保有する技術的手段(ChainerというOSSディープラーニングフレームワークの開発・公開)を通じてコミュニティとの接触を生み出し、そこからパートナーシップの機会を探索するものだった。ファナックやトヨタとの連携は、こうした手段起点の探索から生まれたものである。
これらの事例が示すのは、技術シーズを「特定の市場を攻略するための手段」として扱うのではなく、「研究者の手中にある固有の手段の一部」として扱うという発想の転換である。
許容可能な損失:研究者時間の投入を設計する
大学発スピンアウトにおいて、許容可能な損失(Affordable Loss)の原則が特に重要になるのは「研究者時間」の配分問題においてである。
研究者が起業を躊躇する最大の理由の一つは「学術キャリアを犠牲にしたくない」という合理的な恐怖である。査読論文の出版ペースが落ちれば、次のポストや研究費獲得に影響する。Dew et al.(2009)は許容可能な損失を金銭・時間・評判の3軸で評価することを提唱した。研究者の文脈で翻訳すると以下になる。
金銭的損失の許容範囲:公的補助金(JST A-STEP、NEDOスタートアップなど)は、研究者がゼロリスクで商用可能性を探索できる仕組みとして機能する。この制度を「全額を使い切らなければならない計画を作る義務」ではなく「失っても耐えられる範囲での実験の原資」として捉え直すことが、許容可能な損失的な設計である。
時間的損失の許容範囲:「週1日以下の起業活動から始める」「学内起業制度(クロスアポイント制度等)を使い、退路を確保する」という設計が、研究者にとっての現実的な許容可能な損失になる。全面的なコミットメントを求められる「いちかばちか」の起業ではなく、「この範囲の時間投入が無駄になっても研究を継続できる」という水準で行動を設計することが重要だ。
評判的損失の許容範囲:研究者にとって、「商業化の失敗」より「科学的信頼性の毀損」の方が致命的なリスクである。未検証の技術的主張を商業的プレッシャーから発表することは、学術コミュニティでの評判を不可逆的に傷つける。許容可能な損失の評判軸は、「この段階での技術的主張が、後の査読で反証されるリスクはどの程度か」という問いで設計する。
クレイジーキルト:産業界パートナーの自発的コミットメントで不確実性を削減する
Sarasvathy(2008, p. 96)は、クレイジーキルト(Crazy Quilt)原則を「自発的にコミットするパートナーとの関係構築が、不確実性を削減する主要なメカニズム」として定義した。大学発スピンアウトにおいて、これは「市場調査で潜在顧客を探す」のではなく「技術に関心を示した企業・個人との早期コミットメント関係を構築する」という実践として現れる。
日本の大学発スピンアウトで特に有効なクレイジーキルト的アプローチは、産学連携の共同研究契約をスピンアウトの市場確証として機能させることである。
共同研究のパートナーになった企業は、技術の可能性を「コミットメントで確認した」存在である。共同研究費の拠出は、市場調査のアンケート回答とは根本的に異なる確証の質を持つ。Read et al.(2016, p. 87)が指摘するように、初期パートナーのコミットメントは不確実性を削減するだけでなく、新たな手段を提供する。産業パートナーが持つ顧客ネットワーク・製造インフラ・流通チャネルは、大学側が単独では持ち得ない手段であり、クレイジーキルト的な縫い合わせによって研究者の手段の束が飛躍的に拡張される。
レモネード:予期せぬ用途を機会として積極活用する
大学発スピンアウトにおいて、研究者が想定していた用途と最初の商業的成功が生まれた用途が一致しないことは、むしろ標準的なパターンである。この「予期せぬ用途」をレモネード原則(Sarasvathy, 2001, p. 254)的に活用することが、スピンアウトの商業化を加速させる。
典型的なシナリオは次の通りだ。医療診断を目的に開発したアルゴリズムが、製造ラインの品質検査に応用できることが顧客との対話で判明する。農業向けに設計したセンサーが、土木・建設の地盤モニタリングでの需要を引き寄せる。「これは想定外だ」という感覚こそが、レモネード原則の発動タイミングを示すシグナルである。
コーゼーション的な思考では、当初のビジネスプランに記載されていない用途への転換は「計画の失敗」として捉えられる。エフェクチュエーション的な思考では、これは「より豊かな手段の組み合わせへの更新」として積極的に受け入れる対象である。
飛行機のパイロット:ピボット柔軟性を制度設計に組み込む
Sarasvathy(2001, p. 245)の飛行機のパイロット(Pilot-in-the-Plane)原則は「予測精度を高めることより、コントロールできる行動に集中することで未来を創造する」という命題を示す。大学発スピンアウトの文脈では、これは「5年後の市場予測に多大な労力をかけるより、次の6ヶ月でコントロールできる行動に集中する」という実践として現れる。
しかし、この原則の実践には制度的な制約が大きく立ちはだかる。JSTやNEDOの補助金プログラムは、「3年後に〇〇を達成する」という固定的なマイルストーンを要求することが多い。大学の産学連携本部も、スピンアウトの事業計画書に一定の確定性を求める。
重要なのは、これらの制度的要求を「コーゼーション的に満たす文書」として扱いつつ、実際の意思決定プロセスはエフェクチュエーション的に維持するという二層構造を意識することである。外部に提出するビジネスプランと、日々の行動の指針は切り離して設計できる。Sarasvathy(2008, pp. 107–109)が強調するように、エフェクチュエーションとコーゼーションは排他的ではなく、環境の不確実性の程度に応じて使い分けるべきものである。
大学発スピンアウトのためのエフェクチュエーション実践チェックリスト
以下は、研究者・TLOコーディネーター・産学連携担当者が実践の起点として使えるチェックリストである。
手中の鳥の棚卸し
- 保有特許・論文・実験ノウハウ・独自データを書き出したか
- 「この技術に関心を示した人・組織」を過去3年で書き出したか
- 指導学生・共著者のネットワークを手段として認識しているか
許容可能な損失の設計
- 「週何時間の起業活動が持続可能か」を研究義務との兼ね合いで計算したか
- 「この実験が失敗しても、次の科研費申請に影響しない水準」を確認したか
- 発表する技術的主張が査読で反証されるリスクを評価したか
クレイジーキルト的パートナー開拓
- 共同研究に関心を示した企業は、最初の「縫い目」のパートナー候補か
- TLO・技術移転マネージャーを「交渉の仲介者」ではなく「手段の拡張者」として活用できているか
- パートナーの「コミットメント(共同研究費拠出・共同特許出願)」を市場確証として扱っているか
レモネード的転換の感度
- 「想定外の問い合わせ」を記録しているか
- 当初の用途仮説が市場との接触で変化したとき、それを「計画失敗」ではなく「情報更新」として扱えているか
「手段から商業化する」という発想の転換
大学発スピンアウトの商業化支援において支配的な論理は、依然としてコーゼーション的である。「技術シーズがある→市場を調べる→事業計画を書く→投資家にピッチする」という線形プロセスへの信仰は根強い。
しかし Sarasvathy(2001)が示したのは、予測困難な環境では、この順序を逆転させた起業家が優れた成果を生むという事実である(p. 252)。技術シーズを「特定の市場に投入する商品」ではなく「研究者が手中に持つ豊かな手段の一要素」として再定義することが、この逆転の起点となる。
大学の研究者が持つ「Who I am / What I know / Whom I know」の豊かさに気づくことから、エフェクチュアルな商業化の物語は始まる。
関連項目
- 手中の鳥の原則 — 技術シーズを「手段」として扱う発想の理論的基盤
- 許容可能な損失 — 研究者時間・評判の投入管理の基準原則
- クレイジーキルト原則 — 産業界パートナーとのコミットメント形成
- レモネード原則 — 予期せぬ用途への転換を機会として活かす
- エフェクチュエーションとディープテック商用化 — R&D主体のディープテック文脈での5原則適用(関連記事)
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Read, S., Sarasvathy, S., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Dew, N., Sarasvathy, S. D., Read, S., & Wiltbank, R. (2009). Affordable loss: Behavioral economic aspects of the plunge decision. Strategic Entrepreneurship Journal, 3(2), 105–126.
- サラス・サラスバシー(吉田満梨 訳)(2015).『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』碩学舎.
- 吉田満梨 (2018).『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』ダイヤモンド社.