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この研究が問い直したもの
起業家研究には長年、根本的な方法論的問題が横たわっていた。成功した起業家に過去の意思決定を振り返ってもらうインタビュー手法は、事後的な合理化バイアスを避けられない。結果を知ったうえで語られる物語は当時の不確実性や偶然性を消し去り、一貫した「成功の論理」として再構成される。このバイアスを根本から回避しようとした試みが、Saras D. Sarasvathyによる一連のプロトコル研究だ。
エフェクチュエーションとは何かという問いへの理論的回答が生まれるまでには、まず実証的な土台が必要だった。Sarasvathyの研究はその土台を、起業家がリアルタイムで思考する瞬間の観察によって築いた。
think-aloudプロトコルという方法論の選択
この研究の核心にあるのは、思考発話法(think-aloud protocol)と呼ばれる認知科学の手法である。課題を解きながら頭の中で起きていることをそのまま言語化してもらい、その発話記録(プロトコル)を体系的に分析する。意思決定の「結果」ではなく、「プロセス」を捉えることが目的だ。
この方法論の採用は偶然ではない。Sarasvathyがカーネギーメロン大学で研究を進めた環境は、Herbert A. Simonが知的基盤を築いた場所だった。Simonが提唱した限定合理性の概念と、プロトコル分析の方法論(Ericsson & Simon, 1993)は、この研究設計の直接的な源流にある。
ただし、この手法には固有の限界もある。言語化されない暗黙知は記録できない。思考プロセスを言語化すること自体が思考を変容させる可能性もある。研究者側の符号化(コーディング)の基準によって解釈は揺れる。Sarasvathyはこうした限界を認識したうえで、それでもなお回顧的インタビューよりも実態に近い認知データを得られると判断し、この手法を選んだ。
対象者の選定——エキスパートをどう定義するか
認知科学のエキスパート研究において、「誰を専門家とみなすか」の定義は研究の妥当性そのものを決定する。Sarasvathyの研究では、参加した起業家27名の選定に複数の厳格な基準が設けられた。
創業経験の長さと回数が基本的な軸となった。単一の成功体験は偶然を排除できないため、複数企業の創業が求められた。成功例だけでなく失敗経験を持つことも条件に含まれた。これはリスクや不確実性に対する認知を偏らせないための設計判断だ。さらに、少なくとも一社をIPOに導いたか、相当規模の企業を創業したことが客観的な達成指標として用いられた。
この選定基準が示唆するのは、Sarasvathyが「成功した起業家」ではなく「起業という行為に熟達した人間」を研究対象にしていたのだ、ということだ。失敗経験を明示的に要件とした背景に、生存者バイアスへの意識的な対抗がある。
対照群として選ばれたMBA学生との比較設計は、チェスのグランドマスターと初心者の思考を比較する認知科学の古典的フレームを踏襲している。エキスパートとノービスの差を浮き彫りにするには、ビジネス教育を受けた非起業家との対比が有効だった。
同一問題、異なる思考プロセス
実験で使用された課題は、架空のビジネスアイデアを素材に複数の意思決定問題を解くものだった。架空の製品を使う理由は明確で、実在する業界や事例だと業界固有の知識が回答に入り込み、思考のプロセスではなく知識の差を測定してしまう。架空の素材を等しく与えることで、「何を知っているか」ではなく「どのように考えるか」を比較できる。
市場の特定・競合分析・情報探索・資金調達といった問題に対して、27名の起業家と対照群の学生は同じ課題に向き合った。その発話記録は文字起こしされ、研究者チームが共通の符号化基準に従って分析した。比較が見せたのは、正解の差ではなかった。問いそのものの立て方が違っていた。
予測不可能な未来へのアプローチの差
起業家たちの思考プロセスに繰り返し現れたパターンを、Sarasvathyは体系的に記述した。
目標から逆算して最適な手段を選ぶ思考様式——コーゼーション的アプローチ——は対照群のMBA学生に多く見られた。達成すべきゴールを先に定め、そこへ向けて計画を組み立て、必要なリソースを調達するという論理だ。
熟達した起業家たちの多くは、これとは異なる思考の順序を持っていた。自分が今ここで持っているもの——知識、技能、人脈、経験——から出発し、そこから生み出せる可能性を探索する。ゴールは固定された到達点ではなく、行動の過程で形成されていくものとして扱われた。
不確実性への態度も対照的だった。対照群の思考は予測精度を上げることで不確実性を縮減しようとする傾向があった。起業家たちの多くは、予測できないなら予測に頼らなければよいという発想で、自分がコントロールできる範囲で行動する選択をしていた。損失への構えも異なり、リターンの最大化を基準にする傾向と、許容できる損失の上限を基準にする傾向の差が、思考プロセスの記録に繰り返し現れた。
「意外な」発見のプロセス
Sarasvathyが強調するのは、こうした知見が事前の仮説検証によって得られたのではなく、データから帰納的に浮かび上がってきたという点だ。研究は「起業家はこう考えているはずだ」という理論を検証するためではなく、「起業家は実際にどう考えているのか」を探索するために設計された。
データから繰り返し現れるパターンを帰納的に抽出する手法は、既存の理論的枠組みにとらわれない発見を可能にした。エフェクチュエーションという概念自体が、理論から生まれたのではなくデータから生まれたという出自を持つのはこのためだ。
サラスバシーの原研究が詳述するように、この実験から抽出されたパターンは後に五つの原則として体系化されていく。プロトコル研究は理論の証明装置ではなく、理論の発生装置として機能した。
方法論的意義と限界の同時評価
プロトコル分析の採用は、起業家研究に実証的な厳密さをもたらした一方で、固有の解釈上の課題を残した。
サンプルサイズの問題は避けられない。27名という規模は統計的一般化には小さすぎる。ただしプロトコル研究は統計的代表性ではなく、思考プロセスの「構造」を明らかにすることを目的とする。個人の内部で何が起きているかを深く理解するには、少数の事例を精密に分析することが適切な手法だと判断された。
文化的背景の均質性も課題として指摘される。被験者はおもに北米の起業家であり、文化・制度・市場環境の違いが思考パターンに与える影響は切り離せない。エフェクチュエーションが普遍的なパターンなのか、特定の文脈で生まれた現象なのかという問いは後続研究が引き継いだ。
符号化の信頼性については、複数の研究者が独立して同じコーディング基準で分析し、評価者間一致率を測定する手続きが踏まれた。コーディング基準そのものの設計が解釈に影響する点は残るが、この手続きは定性データに客観性を担保する標準的な方法だ。
理論体系化への接続
実験から得られたデータは、2001年のAcademy of Management Review掲載論文で公式に理論化された。コーゼーションとエフェクチュエーションという二項対比の枠組みは、この論文で提示されたものだ。
エキスパート起業家のメンタルモデルが示すように、この理論的転換の実質は、起業を予測と計画の問題から解釈と構築の問題として捉え直すことにある。起業家が優れているのは予測精度が高いからではなく、予測に依存しない行動様式を持っているからだ、という主張の根拠は、プロトコル研究のデータにある。
手中の鳥の原則は、この研究から浮かび上がった最も基本的なパターンのひとつを名前として定式化したものだ。今持っているリソースから出発するという発想の実証的基盤も、27名の起業家の思考記録にある。
実証研究としての遺産
Sarasvathyの研究が起業家研究に残した遺産は、理論の内容だけにあるのではない。起業家の思考を実証的に研究できるという可能性を示したことが、同等に重要だ。回顧的インタビューではなくリアルタイムの思考を記録し、失敗経験を含む熟達者を対象に、帰納的にパターンを抽出して体系化する。これらの設計判断は後続の研究者が参照し、各自のやり方で発展させていく方法論的モデルとなった。
エフェクチュエーションが学術理論として蓄積を持ち始めたのは、この実証的な出発点があったからだ。思考プロセスの観察という地道な手続きの積み重ねが、起業をめぐる認識を根本から更新する理論の種を宿していた。
参考文献
- Sarasvathy, S.D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S.D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Ericsson, K.A., & Simon, H.A. (1993). Protocol Analysis: Verbal Reports as Data (revised ed.). MIT Press.