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導入——予測ではなく、自らの手でスマートフォン市場を創った男
2007年1月、Steve Jobs は Macworld Conference で初代 iPhone を発表した。**「電話を再発明する」**という宣言とともに披露されたその製品は、携帯電話業界の常識を根底から覆すものであった。
当時、スマートフォン市場は BlackBerry や Nokia が支配しており、タッチスクリーンだけで操作する携帯電話は「非現実的」と見なされていた。市場調査会社は iPhone の成功に懐疑的であり、Microsoft CEO の Steve Ballmer は「500ドルの補助金なし電話が大きなシェアを取ることはない」と公言した。
にもかかわらず、Jobs は市場予測に基づいてではなく、自らの意志と行動で未来を形作った。これはエフェクチュエーションの「飛行機のパイロット(Pilot in the Plane)」原則——予測ではなくコントロールによって未来を創る——の典型例である。
企業・人物の概要——「Think Different」の体現者
Steve Jobs は1955年にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれた。1976年に Steve Wozniak とともに Apple Computer を共同創業し、パーソナルコンピュータ革命の立役者となった。
しかし1985年、自ら創業した会社から追放されるという挫折を経験する。NeXT Computer の創業、Pixar の成功を経て、1997年に Apple に復帰した。
復帰後の Jobs が着手したのは、Apple の製品ラインの徹底的な簡素化であった。iMac、iPod、iTunes Store と、立て続けに業界の常識を覆す製品を世に送り出した。これらの成功体験が、iPhone プロジェクトへの確信の土台となっている。
重要なのは、Jobs が「市場の声を聞く」タイプの経営者ではなかったことである。**「顧客は自分が何を欲しいかを知らない」**という有名な言葉に象徴されるように、Jobs は市場予測よりも自らの審美眼と判断を信じた。
イノベーションの経緯——タッチスクリーンという賭け
iPod の成功と携帯電話への危機感
2000年代前半、iPod は音楽プレーヤー市場を席巻していた。しかし Jobs は、携帯電話が音楽再生機能を内蔵し始めればiPodが不要になるという将来の脅威を認識していた。
この認識は市場調査から得られたものではない。Jobs 自身がテクノロジーの融合を肌で感じ取った結果であった。予測に頼るのではなく、自ら携帯電話市場に参入することで未来をコントロールする——この判断が iPhone プロジェクトの出発点である。
「Project Purple」の始動
2004年、Apple 社内で極秘プロジェクト「Project Purple」が始動した。当初は iPod にタッチスクリーンを搭載するというコンセプトであったが、Jobs はより大胆な構想——完全なタッチスクリーン携帯電話——を推進した。
通信キャリアとの交渉においても、Jobs は前例のないアプローチを取った。従来、携帯電話メーカーはキャリアの要望に従って端末を設計するのが常識であった。しかし Jobs は AT&T(当時 Cingular)に対し、端末のデザインとソフトウェアに一切口を出さないことを条件に独占契約を結んだ。
業界の「ルール」に従うのではなく、自らが望むルールをキャリアに受け入れさせたのである。
発売と市場の創造
2007年6月29日、iPhone が発売された。物理キーボードのない携帯電話は当時の常識に反していたが、直感的なマルチタッチインターフェースは瞬く間にユーザーを魅了した。
さらに2008年の App Store 開設が決定的な転換点となった。サードパーティの開発者にプラットフォームを開放するというこの判断は、スマートフォンを単なる電話機から「ポケットの中のコンピュータ」へと変貌させた。
App Store は発売初年度に10億ダウンロードを突破した。**Jobs は市場を「発見」したのではなく、市場そのものを「創造」**したのである。
エフェクチュエーション原則の分析——「飛行機のパイロット」の体現
飛行機のパイロット原則とは
Sarasvathy(2008)が提唱する「飛行機のパイロット(Pilot in the Plane)」原則は、エフェクチュエーション理論の世界観を集約する最上位の原則である。この原則は、**「予測可能な範囲で未来をコントロールすれば、予測する必要がない」**という論理に基づく(Sarasvathy, 2008, p. 91)。
飛行機のパイロットは気象条件を完全に予測することはできない。しかし、操縦桿を握り、計器を読み、状況に応じて判断することで、安全に目的地にたどり着くことができる。同様に、エフェクチュエーション的起業家は市場の未来を予測するのではなく、自らの行動で未来を形成する。
Jobs の行動と原則の適合
iPhone の開発プロセスは、この原則の教科書的な実践例である。第一に、Jobs はスマートフォン市場がどのように発展するかを「予測」しようとしなかった。代わりに、自分が理想とする携帯電話を作り、その製品によって市場を定義した。
第二に、通信キャリアとの関係において、Jobs は業界の従来のパワーバランスを自ら書き換えた。端末メーカーがキャリアの下請けとなる構造を拒否し、Apple が主導権を握るモデルを確立した。
第三に、App Store の創設は、Sarasvathy(2001)が述べる「未来を予測するのではなくコントロールする」というロジックの発展形である。プラットフォームを提供することで、無数の開発者が市場を自律的に拡張していく仕組みを作った(Sarasvathy, 2001, p. 252)。
因果論的アプローチとの対比
因果論的(Causation)アプローチでは、まずスマートフォン市場の規模を予測し、ターゲットユーザーを特定し、競合分析を行い、そのうえで製品仕様を決定する。Nokia や BlackBerry はまさにこのアプローチを取っていた。
しかし Jobs は、**「消費者が何を求めているか」ではなく「消費者が何を求めるべきか」**を自ら定義した。これは因果論が前提とする「既存の市場への適応」ではなく、エフェクチュエーションが描く「市場の創造」そのものである(Sarasvathy, 2008, pp. 89–92)。
Wiltbank et al.(2006)の研究が示すように、不確実性が高い環境ではコントロール戦略が予測戦略を上回るパフォーマンスを発揮する(Wiltbank et al., 2006, p. 983)。iPhone の成功は、この理論的命題の実証例といえる。
実務への示唆——未来を予測するな、創れ
iPhone の事例が実務家に示す教訓は3つある。第一に、不確実な市場では予測よりもコントロールが有効である。市場調査に過度に依存すると、既存の延長線上のイノベーションしか生まれない。
第二に、業界の「ルール」は与えられたものではなく、自ら書き換えることができる。通信キャリアとの力関係を逆転させた Jobs の交渉は、「飛行機のパイロット」原則の実践的応用である。
第三に、プラットフォーム戦略はコントロール範囲を劇的に拡大する。App Store を通じて、Apple は自社だけでは生み出せない価値を無数の開発者に創造させた。自分がコントロールできる範囲を広げることで、予測の必要性そのものを低減するという戦略である。
新規事業を構想する際、「市場はどうなるか」を問う前に、**「自分たちの行動で市場をどう形作れるか」**を問うこと——それが iPhone の事例から引き出せる最も実践的な示唆である。
「飛行機のパイロットの原則」での原則解説と「エフェクチュエーション事例集」も参照されたい。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.
- Wiltbank, R., Dew, N., Read, S., & Sarasvathy, S. D. (2006). What to do next? The case for non-predictive strategy. Strategic Management Journal, 27(10), 981–998.
- Isaacson, W. (2011). Steve Jobs. Simon & Schuster.