目次
エフェクチュエーション事例研究の見方——5原則で読み解くフレーム
エフェクチュエーション理論を学んだ人が次に直面する問いは、「具体的にどの企業が、どの原則を使ったのか」という問いである。Sarasvathy(2001)が提示した5原則——手中の鳥、許容可能な損失、クレイジーキルト、レモネード、飛行機のパイロット——は、起業家の意思決定論理を記述する分析ツールである。これを現実の企業事例に当てはめることで、理論が抽象論から行動指針に変わる。
本稿は、effectuation.club が蓄積してきた70本超の個別事例記事を5原則ごとに整理したハブ記事である。各セクションでは代表的な事例の要点を示し、詳細な分析は各事例ページへと誘導する。読者は自社に最も近い事例から読み始めることで、エフェクチュエーションの実践的な示唆を最短で得られる。
なお、現実の企業行動は単一の原則に還元できない場合が多い。本稿の分類は「最も顕著に機能した原則」に基づくものであり、各事例がほかの原則とも連動していることを前提として読んでほしい。
手中の鳥(Bird in Hand)事例——手持ちの手段から出発する
手中の鳥(Bird in Hand)原則とは、Sarasvathy(2008)が定義した「誰か(Who I am)・何を知っているか(What I know)・誰を知っているか(Whom I know)」という手持ちの手段から起業プロセスを始めるという論理である。目標や市場機会を先に設定し、そこから逆算して必要な資源を調達するコーゼーション型の起業とは対照的な出発点を取る。
Amazon——Bezosの「何でも屋」という手段
Jeff Bezosは1994年、金融業界でのキャリアと知識(What I know)、インターネットの急成長という技術的認識、そして少数の初期投資家との人的ネットワーク(Whom I know)という手段から出発した。「地球上で最も品揃えの豊富な書店」というビジョンは出発点ではなく、到達点であった。書籍から始めたのは、SKUが多く在庫管理が複雑な品目を扱うことでロジスティクスの知見を蓄積できるという、手段ドリブンの判断であった。
詳細は「Amazon エフェクチュエーション事例——BezosはなぜECを「書籍」から始めたのか、手中の鳥原則で読み解く」を参照。
グラミン銀行——経済学の知識と農村の貧困層との直接接点
Muhammad Yunusは、経済学の専門知識(What I know)と、バングラデシュの農村での直接調査を通じて得たコネクション(Whom I know)を手段として持っていた。担保なしの融資という「常識外れの発想」は、マーケット分析から生まれたのではなく、自分が知っていること・知っている人との直接対話から生まれた。1983年に正式設立されたGrameen Bankは、最終的に数百万人の借り手を持つマイクロファイナンスの原型となった(Read et al., 2016)。
詳細は「グラミン銀行——経済学教授が27ドルの貸付から世界のマイクロファイナンスを変えるまで」を参照。
Cookpad——大学生のサーバー代から始まった個人サイト
佐野陽光は1997年、プログラミングスキル(What I know)と「料理を通じて人を幸せにしたい」という個人的価値観(Who I am)だけを手段として、月額数千円のサーバー代だけでクックパッドの前身サイトを開設した。業界のコネクションも資金も持たない状態からの出発が、その後の日本最大レシピプラットフォームへの成長を可能にした原点である。
詳細は「クックパッド——大学生の個人サイトが国民的レシピプラットフォームになるまで」を参照。
許容可能な損失(Affordable Loss)事例——失っても耐えられる範囲で行動する
許容可能な損失(Affordable Loss)原則とは、期待リターンの最大化を判断基準とするのではなく、「最悪の場合にどれだけ失えるか」を先に定義し、その範囲内で行動するという論理である(Sarasvathy, 2008, pp. 73–76)。この原則はリスク回避ではなく、むしろ不確実性の高い初期段階における合理的な行動設計を可能にする。
富士フイルム——フィルム技術という棚卸し済みの手段への小さな賭け
富士フイルムは2000年代初頭、写真フィルム市場の崩壊という危機に直面した。同社が取ったアプローチは、フィルム製造で蓄積した技術資産(コラーゲン精製・抗酸化技術・精密薄膜塗布)を新領域に転用するという、「持っている技術の範囲内での行動」であった。化粧品ブランド「アスタリフト」の開発は、外部市場に新規参入するための大規模投資ではなく、既存の研究開発インフラを活用した許容可能な実験として出発した(Sarasvathy, 2008の手段論を応用)。
詳細は「富士フイルムはなぜ生き残れたのか——エフェクチュエーションで読み解く事業転換の論理」を参照。
Dropbox——デモビデオという超低コストの検証
Drew Houstonは2007年、実際のプロダクトをビルドする前に3分間のデモビデオ一本でアイデアを検証した。プロダクト開発への大規模投資(=高い期待リターンへの賭け)ではなく、ビデオ制作という許容可能な損失の範囲内で市場の反応を先に確認した。このビデオがYCombinatorへの応募資料となり、初期ユーザーリストの構築につながった。「最小限の行動で最大限の学習を得る」という許容可能な損失の実践例として頻繁に引用される(Read et al., 2016)。
詳細は「Dropbox——デモビデオ一本が生んだ3億ユーザーのファイル共有サービス」を参照。
Pebble——Kickstarterという「コミットメントが集まらなければやめる」設計
Pebble SmartWatchは2012年のKickstarterキャンペーンで当初の目標額10万ドルに対し1,026万ドルを調達した。しかしここで注目すべきは、Kickstarterによる資金調達というモデル自体が許容可能な損失の設計だという点である。目標額が集まらなければ実行しない、目標額以上が集まった分だけ事業規模を決める——このモデルは、期待リターン最大化の論理ではなく、「最悪どうなるか」から逆算した行動設計の産物である。
詳細は「Pebble——Kickstarterで証明した「先に聞いてから作る」起業の論理」を参照。
Airbnb——エアベッド3枚という「失っても構わない」実験の設計
Brian CheskyとJoe Gebbia は2007年10月、サンフランシスコで開催されたIDSA(Industrial Designers Society of America)世界大会の期間中、ホテルが不足した参加者向けにエアベッド3枚を1泊80ドルで提供するという実験を行った。追加コストはゼロに等しく、最悪の場合(誰も来ない)でも失うものはなかった。この「損失上限がほぼゼロの行動設計」が許容可能な損失原則の原型として機能した。シリアルボックス販売(Obama O’s / Cap’n McCain’s)という資金難への対処も、「持っているデザインスキルで最小コストの解決策を作る」という同じ論理から生まれた。
詳細は「Airbnb——エアベッド3枚の実験から始まった許容可能な損失の原型」を参照。
レモネード(Lemonade)事例——予期せぬ事態を機会に変える
レモネード(Lemonade)原則とは、Sarasvathy(2008)が「レモンを渡されたらレモネードを作れ」というアメリカの諺から命名した原則であり、予期せぬ事象・失敗・障害を脅威ではなく機会として積極的に活用する論理である。この原則は「前向き思考」という精神論とは異なる。構造的に、不確実性の高い環境では予期せぬことの方が多いため、レモネード原則を持つ起業家は「計画外の出来事が多い」状況を有利に使えるのである。
Post-it Notes——「使い物にならない接着剤」が生んだ文房具の定番
3MのSpencer Silverが1968年に開発した接着剤は、強度が弱すぎて製品に使えない「失敗作」だった。しかし同僚のArthur Fryは1974年、礼拝中に賛美歌集のしおりがずれ落ちるという日常の小さなイライラから、この「弱い接着剤」の用途を思いついた。貼っても簡単に剥がせる——という欠点が、「繰り返し貼り直せる」という独自の価値に転換されたのである(Read et al., 2016)。
詳細は「Post-it Notes——「失敗した接着剤」が世界的文房具を生んだ逆転劇」を参照。
Viagra——心臓病治療薬の「副作用」が生んだ市場
Pfizerが開発していたUK-92,480は、元々狭心症の治療薬として臨床試験が進められていた。試験参加者から「勃起障害の改善」という予期せぬ副作用が報告された際、研究チームはこれを「予期せぬデータ」として処分するのではなく、新たな市場機会として追求した。1998年にViagraとして承認されたこの薬は、ED治療市場という従来存在しなかった市場を「発見」ではなく「創造」した事例として分析される。
詳細は「Viagra——心臓薬の副作用が開拓した数十億ドル市場の逆転劇」を参照。
Wrigley——「おまけ」だったガムが本業を乗っ取った
William Wrigley Jr.は1891年、シカゴでベーキングパウダーの通信販売を始め、顧客への販促品としてチューインガムを無料で同梱していた。顧客からガムへの反応がベーキングパウダーよりはるかに強いことに気づいたWrigleyは、主力商品をガムに切り替えた。「おまけ」という予期せぬ事実が本業を塗り替えた典型的なレモネード事例である(Read et al., 2016, pp. 88–90)。
詳細は「Wrigley——販促品のガムが世界最大のガム会社を生んだ逆転の起業史」を参照。
クレイジーキルト(Crazy Quilt)事例——ステークホルダーとのコミットメントで不確実性を削減する
クレイジーキルト(Crazy Quilt)原則とは、Sarasvathy(2008)が「ステークホルダーの自発的コミットメントを積み重ねることで事業の形が決まっていく」と定義した原則である。キルト(パッチワーク)は設計図通りには作られない。自発的に参加する人が独自の布を持ち寄り、その布の組み合わせによって最終的な形が決まる。パートナーシップが不確実性を削減する機能を持つという点が、この原則の本質である。
Starbucks——242人への接触と25人のコミットメント
Howard Schultzは1985年、スターバックスを離れて自ら「Il Giornale」というエスプレッソバーを開業しようとした際、242人の潜在投資家にアプローチし、217人に断られた。しかし25人が投資を決めた時点で事業を開始した。この100万ドルの資金調達プロセスは、マーケット調査や財務モデルではなく、「誰がコミットするかによって事業規模が決まる」というクレイジーキルトの実践そのものであった(Read et al., 2016, pp. 112–115)。
詳細は「Starbucks——イタリアの路地裏で見た光景が米国の「当たり前」を変えた」を参照。
IKEA——サプライヤーとの非典型的な協創関係
Ingvar Kampradが1943年にスウェーデンで設立したIKEAは、低価格の家具市場を創出する過程で、既存の家具メーカーからボイコットされるという障害に直面した。Kampradはこれを問題として処理するのではなく、ポーランドの未活用製造業者と直接コミットメントを結ぶことで、製造コストを劇的に下げる代替ルートを開拓した。既存のサプライチェーンに依存しない、自発的なコミットメントを持つパートナーとのネットワーク構築がIKEAの低価格戦略の根幹となった。
詳細は「IKEA——ボイコットから生まれたコスト革命と「フラットパック」の発明」を参照。
楽天——ECモール「場の創造」に出店者をどう集めたか
三木谷浩史は1997年、楽天市場を立ち上げた際に、完成したプラットフォームを構築してから出店者を集めるのではなく、13社の初期出店者とともにサービスを開始した。出店者のコミットメントが積み重なることでプラットフォームの価値が決まる——という設計思想は、典型的なクレイジーキルトの論理である。楽天は現在、日本最大級のEC事業者の一つとなった。
詳細は「楽天——13社の出店者が作ったインターネット商店街の起点」を参照。
飛行機のパイロット(Pilot in the Plane)事例——予測ではなく制御に焦点を当てる
飛行機のパイロット(Pilot in the Plane)原則とは、「未来を予測することは困難だが、未来を能動的にコントロールすることはできる」という論理である(Sarasvathy, 2008, pp. 88–92)。パイロットは嵐を予測して飛行を取りやめるのではなく、計器を操作して嵐を回避する。起業家にとっての「計器」とは、手持ちの手段とステークホルダーとの関係性である。予測の精度を上げるのではなく、行動によって環境を形成することがこの原則の核心である。
SpaceX——「失敗コスト」を前提にした設計思想
Elon Muskは2002年のSpaceX創業時、従来の宇宙開発機関が「失敗は許されない」という設計思想を持っていたのに対し、「失敗から学ぶ速度を最大化する」という対照的な原則で開発を進めた。Falcon 1は最初の3回の打ち上げすべてで失敗した。しかしMuskは各失敗から得た工学的学習を次の打ち上げに即座に反映させる体制を整えており、4回目の打ち上げで成功を収めた。「失敗を制御された学習に変換する」というこのアプローチは、パイロット原則の実践として分析される(Read et al., 2016)。
詳細は「SpaceX——3度の打ち上げ失敗が証明した「失敗から学ぶ速度」の競争優位」を参照。
Nintendo Wii——「競争しない」という制御の選択
2006年、任天堂はPlayStation 3・Xbox 360という高性能ゲーム機との性能競争を意図的に「しない」という選択をした。Wiiのコントローラーは、ゲームをやらない人が直感的に使えることを設計思想の中心に据えた。競合の行動を予測して対抗するのではなく、自社がコントロールできる「インターフェースの革新」というフィールドを創出した点がパイロット原則の発現である。Wiiは最終的に累計1億台以上を販売し、非ゲーマー層という新しい市場セグメントを創造した。
詳細は「Nintendo Wii——性能競争を捨て「動く楽しさ」で市場を再定義した逆張り戦略」を参照。
5原則複合事例——複数の原則が連動した創業物語
現実の企業創業において、5原則は単独ではなく複合的に機能することが多い。Sarasvathy(2008)は「エフェクチュアル・プロセスは5原則が相互強化的に作用するダイナミクス」であると論じている(p. 101)。以下の2事例は、複数の原則が絡み合った構造を持つ。
Honda創業——本田宗一郎の手段駆動型多角化
本田宗一郎は終戦直後の1946年、廃棄された軍用無線機のエンジンを自転車に取り付けるという実験から出発した。手中の鳥(廃棄エンジンという手段)、許容可能な損失(廃材の転用という低コスト実験)、レモネード(物資不足という困難の転換)という3原則が連動して機能している。創業期のHondaは「持っている手段で最大限できることを試す」という典型的なエフェクチュエーション・プロセスを経ていた。
詳細は「Honda創業——廃棄エンジンから始まった世界最大の二輪車メーカーの起点」を参照。
Grameen Bank——パートナーシップで制度を変えた社会起業
前述したMuhammad Yunusの事例に戻ると、グラミン銀行の成功は手中の鳥(経済学の知識)だけで説明できない。既存の銀行制度から相手にされない中で、農村の女性たちとの直接コミットメント(クレイジーキルト)を積み重ねたこと、担保ゼロ融資という「常識外れ」を制度化した行動力(パイロット)、そして貸付の返済率の高さという予期せぬ発見をマイクロファイナンスの理論的根拠に転換したこと(レモネード)が複合的に機能した。
詳細は「グラミン銀行——経済学教授が27ドルの貸付から世界のマイクロファイナンスを変えるまで」を参照。
事例研究を自社に活かす——5ステップのアプローチ
エフェクチュエーションの事例研究は、読んで「なるほど」で終わらせないことが重要である。Sarasvathy(2008)は、事例研究を用いたエフェクチュエーションの学習において「自分の手段との類比を見つけること」が最も効果的な学習方法だと述べている(p. 205)。以下の5ステップで自社への適用を考えてほしい。
ステップ1:自社の手中の鳥を棚卸しする。 「Who we are / What we know / Whom we know」の3軸で、組織が持つ手段を書き出す。富士フイルムの技術資産のように、普段は「当たり前」として見過ごされている強みがここで浮かび上がることが多い。
ステップ2:許容可能な損失の上限を設定する。 次のアクションを起こす前に「最悪これだけ失っても耐えられる」という上限を明示する。PebbleのKickstarterモデルのように、コミットメントが集まらなければやめるという設計を意識的に組み込む。
ステップ3:潜在的なパートナーに早期接触する。 StarbucksのSchultzが242人にアプローチしたように、事業計画が完成する前にパートナー候補と対話を始める。パートナーが何を持ち寄れるかによって、事業の最終的な形が決まる。
ステップ4:予期せぬ事象を記録・分類する。 Post-it NotesやViagraの事例のように、「計画外のことが起きた」時こそレモネード原則の出番である。予期せぬ出来事を逸脱として処理するのではなく、機会として分類する習慣を持つ。
ステップ5:競合を予測するのではなく、自分でコントロールできる領域を広げる。 Nintendo Wiiのように、競合の行動を予測して対抗するゲームから降り、自社がコントロールできるフィールドを創出することを選択肢として持つ。
こうした課題を抱える実務家にとくに有効である
- 「エフェクチュエーション理論の概念は理解したが、自社への適用イメージが持てない」: 本稿の16社の事例から最も近い業種・フェーズの事例を選び、各事例ページの詳細分析と照合してほしい
- 「新規事業の初期段階で何から始めるべきか悩んでいる」: 手中の鳥のセクション(Amazon・グラミン・Cookpad)が手段棚卸しの実践例を提供する
- 「社内でエフェクチュエーションを説明・説得する素材が欲しい」: 本稿の各事例は会議やプレゼンで使いやすい構造になっており、各事例ページとともに活用できる
- 「失敗や誤算が続いており、レモネード原則を実践したい」: Post-it Notes・Viagra・Wrigleyの3事例が、予期せぬ事象を構造的に転換する思考フレームを提供する
各事例の詳細ページへ
本稿はあくまで5原則ごとの横断的なまとめである。各企業の創業経緯、具体的な判断の瞬間、エフェクチュエーション原則との詳細な対応関係は、各事例ページで論じている。自分の課題に最も近い事例から読み始めることを勧める。effectuation.club には70本超の事例ページが蓄積されており、原則別・業種別に探索できる。
引用・参考文献
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Read, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Wiltbank, R. (2016). Effectual Entrepreneurship (2nd ed.). Routledge.