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「なぜ起業家は素早く判断できるのか」という問い
エフェクチュエーション研究が明らかにしたのは、熟達した起業家がコーゼーション(因果推論)ではなくエフェクチュエーション的ロジックで意思決定しているという事実である(Sarasvathy, 2001; 2008)。しかしこの問いは必然的に別の問いを呼び出す。どのような認知構造が、そのような独特な意思決定ロジックを可能にしているのか。
起業家認知(Entrepreneurial Cognition)研究は、この問いに正面から向き合ってきた学術的系譜である。Mitchell, Busenitz, Lant, McDougall, Morse & Smith(2002)がEntrepreneurship Theory and Practice誌の特集号で定式化した起業家認知の理論的枠組みは、エフェクチュエーション研究の認知科学的基盤として今日なお参照され続けている。本稿では、起業家認知研究の核心概念と、エフェクチュエーション理論との接合点を学術的に検討する。
起業家認知とは何か
Mitchell et al.(2002)の定式化
Mitchell et al.(2002)は、起業家認知を「機会評価、ベンチャーの創造と成長に関わる意思決定を行うために人々が用いる知識構造(knowledge structures that people use to make assessments, judgments, or decisions involving opportunity evaluation, venture creation, and growth)」と定義した(Mitchell et al., 2002, p. 97)。
この定義の核心は「知識構造」にある。起業家は意思決定を行う際、既存のフレームワークや公式的分析ツールを用いるのではなく、長年の経験を通じて形成された内在化された知識のパターンに依拠する。それが「スクリプト(scripts)」と「ヒューリスティクス(heuristics)」である。
Entrepreneurship Theory and Practice, 27(2), 93–104に掲載されたこの論文は、起業家認知研究の特集号の序論として位置づけられ、認知科学的アプローチが起業家研究に何をもたらすかを体系的に論じた先駆的論文である。
スクリプト理論と起業家的判断
スクリプトとは、認知心理学において特定の状況で典型的に展開されるイベントの順序や行動パターンに関する知識構造を指す。Schank & Abelson(1977)が提唱したこの概念は、人間が日常的な状況判断をいかに効率的に行うかを説明する。
起業家研究にスクリプト概念を持ち込んだのはMitchell et al.(2000; 2002)である。熟達した起業家は、「新規市場への参入」「顧客からの否定的フィードバック」「予期せぬ競合の出現」といった状況を認識した瞬間に、蓄積されたスクリプトを参照して「次に何が起こるか」「どう対応するか」を即座に判断できる。新参者が逐次的な分析を行う場面で、熟達者はスクリプト参照によって素早い判断を下す。
エフェクチュエーション研究との接合点は明確である。熟達起業家とMBA学生の意思決定を比較したSarasvathyのプロトコル分析で観察された「手段から始める」「損失上限を設定する」「偶然を活用する」という思考パターンは、スクリプト理論の観点からは、起業家が長年の実践を通じて内在化した「不確実性下の行動スクリプト」として理解できる。
ヒューリスティクスの役割
Baron(1998)は、起業家が非起業家と異なる認知メカニズムを用いることを論じた基礎的論文「Cognitive mechanisms in entrepreneurship: why and when entrepreneurs think differently than other people」をJournal of Business Venturing, 13(4), 275–294に発表した。
Baronが特定した起業家特有の認知的傾向の中心にあるのがヒューリスティクス——複雑な問題を素早く解くための認知的近道——の活用である。起業家は、不確実性が高く情報が不完全な状況で、完全な情報収集と厳密な計算よりも、過去の経験から形成された直感的判断ルールに依拠して意思決定する。
しかしBaron(1998)は、このヒューリスティクス依存が認知的偏り(cognitive biases)の源泉にもなることを指摘した。過度の楽観主義(overconfidence)、計画錯誤(planning fallacy)、コントロール錯覚(illusion of control)——起業家はこれらの認知的罠に陥りやすい。エフェクチュエーションの「許容可能な損失」原則は、この認知的リスクへの構造的な対処として解釈できる。期待リターンを最大化しようとする意思決定をそもそも回避し、損失の上限を先に設定することで、過度の楽観主義という認知的罠を予防するメカニズムとして機能する(Sarasvathy, 2008, pp. 35–50)。
Shane(2003)の個人-機会連結論との対話
Scott A. Shane(現在:ケース・ウェスタン・リザーブ大学)はA General Theory of Entrepreneurship: The Individual-Opportunity Nexus(Edward Elgar, 2003)において、起業機会を「客観的に存在し、特定の認知構造を持つ個人によって発見される実体」として位置づけた(Shane, 2003)。
このいわゆる「機会発見論(opportunity discovery view)」は、Shane & Venkataraman(2000)がAcademy of Management Review, 25(1), 217–226で定式化した「個人-機会連結(individual-opportunity nexus)」の枠組みを認知論的に精緻化したものである。機会は外部環境の変化——技術革新、制度変化、需要の変動——によって客観的に生じ、特定の「先行知識(prior knowledge)」と「認知的警戒(cognitive alertness)」を持つ個人によって発見される、というロジックである。
このShane型機会発見論は、エフェクチュエーション理論の「機会創造」観と根本的に対立する。Sarasvathy(2001; 2008)が論じるのは、熟達起業家が「既存の機会を発見する」のではなく、手持ちの手段とパートナーとのコミットメントの積み重ねの中で機会そのものを創造・構築するというプロセスである。この対立は、Venkataraman, Sarasvathy, Dew & Forster(2012)がAcademy of Management Review, 37, 21–33で論じた「人工物の科学としての起業家精神」論においても正面から取り上げられている。
二つの立場の認知科学的含意
機会発見論(Shane型)とエフェクチュエーション的機会創造論(Sarasvathy型)の対立は、認知科学的に言い換えると次のように整理できる。
| 次元 | 発見論(Shane) | 創造論(Sarasvathy) |
|---|---|---|
| 機会の存在 | 客観的・先在的 | 社会的に構築される |
| 認知の役割 | 既存機会の知覚・識別 | 手段と可能性の創造的再構成 |
| 必要な認知能力 | 警戒心、先行知識の特異性 | スクリプト的柔軟性、曖昧性耐性 |
| 不確実性への態度 | リスクとして管理 | 行動の基盤として活用 |
| 意思決定の起点 | 機会の認識 | 手持ち手段の棚卸し |
Mitchell et al.(2002)の起業家認知フレームワークは、この両立場の認知的プロセスを実証的に比較可能にする共通言語を提供した。スクリプトとヒューリスティクスという概念は、発見論においても創造論においても機能するが、どのようなスクリプトが活性化されるか、どのヒューリスティクスが支配的かが、二つの意思決定ロジックを分かつ認知的分岐点となる。
エフェクチュエーション実践の認知的基盤
曖昧性耐性とポジティブ再解釈
起業家認知研究が一貫して示すのは、熟達した起業家が**高い曖昧性耐性(tolerance for ambiguity)を持つという事実である。不完全な情報や矛盾するシグナルに直面したとき、初心者は分析の停止(analysis paralysis)に陥りやすいのに対し、熟達者は曖昧さを「まだ定義されていない機会の前兆」**として積極的に解釈する認知パターンを持つ(Baron, 1998, p. 280)。
この曖昧性耐性は、エフェクチュエーションの「レモネード原則」——予期せぬ出来事を問題ではなく機会として活用する——の認知的基盤をなしている。レモネードの原則は特定の状況判断スキルではなく、「想定外を機会候補として即時に再カテゴリ化するスクリプト」が内在化されているために自然に発動するものだ、と起業家認知研究は解釈する。
「手段の棚卸し」という認知的ルーティン
エフェクチュエーションの出発点である「手中の鳥(Bird in Hand)」原則——「Who I am, What I know, Whom I know」から行動可能性を構想する——は、認知構造の観点からは「手段の棚卸しスクリプト」として記述できる。
熟達起業家がシンク・アラウド実験で示したこの認知ルーティンは、Mitchell et al.(2002)が定義した起業家認知スクリプトの典型例である。意識的にフレームワークを適用するのではなく、反射的に「今、何を持っているか」から思考を開始する認知的自動性が、熟達の証拠として観察された(Sarasvathy, 2008, pp. 23–26)。
パートナーシップ認知とクレイジーキルト
クレイジーキルト原則に対応する認知的特性は、Mitchell et al.(2002)が「協調スクリプト(cooperation scripts)」と呼んだものに相当する。熟達起業家は、他者を「競合」や「リソース」ではなく「潜在的コミットメント提供者」として認識する傾向が強い。この認知的カテゴリ化が、他者との接触を第一手として選択する行動パターンを自動的に生成する。
2011年以降:「人工物の科学」としての統合
Sarasvathy & Venkataraman(2011)がEntrepreneurship Theory and Practice, 35(1), 113–135で論じた「方法としての起業家精神(Entrepreneurship as Method)」論は、起業家認知研究との統合を試みた最も野心的な論文の一つである。ここでSarasvathyとVenkataraman(元バージニア大学ダーデン校・現バブソン大学)は、起業家的認知を「人工物(artifacts)を創造するための思考様式」として位置づけ直した。
Herbelt Simonの「人工物の科学(The Sciences of the Artificial)」(1969; 1996)の伝統に立ち、起業家認知とは自然界の法則を発見するための科学的認知とは根本的に異なる、人工的世界を構築するための認知だと論じる。この枠組みにおいて、エフェクチュエーション的意思決定は単なる「起業家が偶然使う意思決定ロジック」ではなく、人工的現実を創造するための認知的方法論として理論的に位置づけられる。
関連する認知科学的基盤については熟達した起業家と初心者の意思決定プロセス比較を、エフェクチュエーションとコーゼーションの理論的対立についてはコーゼーションとエフェクチュエーションの基礎理論を、機会発見論と創造論の対立については機会の発見と創造——理論的対立と統合を参照されたい。
引用・参考文献
- Mitchell, R. K., Busenitz, L., Lant, T., McDougall, P. P., Morse, E. A., & Smith, J. B. (2002). Toward a theory of entrepreneurial cognition: Rethinking the people side of entrepreneurship research. Entrepreneurship Theory and Practice, 27(2), 93–104.
- Baron, R. A. (1998). Cognitive mechanisms in entrepreneurship: Why and when entrepreneurs think differently than other people. Journal of Business Venturing, 13(4), 275–294.
- Shane, S. A. (2003). A General Theory of Entrepreneurship: The Individual-Opportunity Nexus. Edward Elgar Publishing.
- Shane, S., & Venkataraman, S. (2000). The promise of entrepreneurship as a field of research. Academy of Management Review, 25(1), 217–226.
- Sarasvathy, S. D. (2001). Causation and effectuation: Toward a theoretical shift from economic inevitability to entrepreneurial contingency. Academy of Management Review, 26(2), 243–263.
- Sarasvathy, S. D. (2008). Effectuation: Elements of Entrepreneurial Expertise. Edward Elgar Publishing.
- Sarasvathy, S. D., & Venkataraman, S. (2011). Entrepreneurship as method: Open questions for an entrepreneurial future. Entrepreneurship Theory and Practice, 35(1), 113–135.
- Venkataraman, S., Sarasvathy, S. D., Dew, N., & Forster, W. R. (2012). Reflections on the 2010 AMR decade award: Whither the promise? Moving forward with entrepreneurship as a science of the artificial. Academy of Management Review, 37(1), 21–33.
- Schank, R. C., & Abelson, R. P. (1977). Scripts, Plans, Goals, and Understanding. Lawrence Erlbaum Associates.
- Simon, H. A. (1996). The Sciences of the Artificial (3rd ed.). MIT Press.